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藍だけが、日本を覚えていた|第8話 藍の記憶

    藍を打つ音は、
    しばらく山へ響いていた。

    パン。
    パン。
    パン。

    その一定の間隔は
    まるで誰かの鼓動みたいだった。

    でも、少女は振り返らない。

    ただゆっくりと山道を歩く。
    蒼も、その後を歩いた。

    岩を過ぎた瞬間だった。

    風景が揺れる。
    いや。
    風景ではない。
    空気の色が変わった。

    夜なのに明るい。
    月明かりではなかった。
    たくさんの松明が灯っていた。

    山道の両側に、人が立っている。

    誰も話さない。
    誰も手を振らない。

    それでも、
    そこに流れる空気は冷たくなかった。

    懐かしい人を迎える朝みたいに、
    静かなあたたかさだけが残っていた。

    白い衣。
    藍色の布。

    子ども。
    老人。

    誰も急いではいなかった。

    急ぐ必要が、
    どこにもなかった。

    空も。

    風も。

    人も。

    同じ歩幅で、
    山の時間を生きていた。

    誰も蒼には気づかない。

    少女だけが歩いている。
    人々は少女へ軽く頭を下げている。

    誰も名前を呼ばない。
    それでも、
    そこにいる誰もが、
    少女のことを知っていた。

    蒼は思わず立ち止まる。
    「……見えとる。」

    少女が振り返る。
    「うん。」
    「思い出してくれ始めた。」

    その時。
    山の奥から、歌が聞こえた。
    昨夜聞いた歌だった。

    けれど、今夜は何かが違う。

    意味は分からない。
    言葉も知らない。

    それでも、
    胸の奥だけは知っていた。

    誰かを呼ぶ歌ではない。
    何かを願う歌でもない。

    生きていることへ、
    静かに頭を下げるような歌だった。

    祈りだと蒼は思った。

    藍色の布が夜風で揺れる。
    その布を見た瞬間。
    蒼の胸に、
    見たことのない景色が流れ込んできた。

    手。
    藍に染まった指。

    笑う女の人。
    山を駆ける子ども。

    川で布を洗う人。
    火を囲む人々。

    藍を干す布。
    石を積む手。

    子どもが笑う声。
    誰かが空を見上げる横顔。

    どの景色も、
    ほんの一瞬で消えていく。

    掴もうとしても、
    指の間から水のようにこぼれていった。

    全部、蒼は知らない。
    なのに。
    涙が流れた。

    悲しいわけじゃない。
    嬉しいわけでもない。
    ただ。

    胸の奥の何かが、
    「帰ってきた。」
    そう思った。

    帰る場所じゃない。
    帰る記憶だった。

    その違いを、
    蒼はまだ言葉にできなかった。

    「どうして……。」

    少女は答えなかった。

    言葉にしたら、
    消えてしまうものを知っている人みたいだった。

    代わりに、
    そっと地面へ触れた。

    「ほら。」
    「思い出し始めた。」

    風が吹く。
    松明が揺れる。

    人々は、
    何事もなかったように、
    藍を干し、
    水を汲み、
    笑っていた。

    蒼は思った。
    記憶は、
    思い出すものじゃない。
    帰ってくるものなのかもしれない。

    その静けさを、
    小さな振動だけが揺らした。

    スマホが震える。

    《土地の記憶 同期率 12%》
    《記憶の断片 取得》

    画面には一枚の絵が映る。

    青い布。
    そして、その横に、
    誰かの手。
    節くれ立った指先。

    藍が、
    爪の奥まで染み込んでいた。

    蒼はその手を見た瞬間、息を止めた。
    藍色に染まった指だった。

    祖母と、
    まったく同じ手だった。

    あの日。

    藍染の布を干しながら、
    笑っていた祖母の手。

    額を軽く小突いて、

    「覚えとき。」

    そう言った、あの手だった。

    ◀︎ 前のお話 第7話 最初の記憶
    https://note.com/kohaku_notes/n/nd1050448a64f

    ▶︎ 次のお話 第9話 名前のない祈り
    https://note.com/kohaku_notes/n/n2951f3b75536

    #創作大賞2026 #ファンタジー小説部門

     
     
    日本の色と、土地の記憶を物語に。 受け継いだものを、次の誰かへ。 祈りと、静かな強さをテーマに小説と作品をつくっています。

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