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阿倍引田臣比羅夫の北海道遠征と石港遺跡、伊夜比古神社(弥彦神社)は尾張氏の神社か?

    古墳時代の350年間集落が存続…燕市の「石港遺跡」いにしえの人々の暮らしに思いはせ・最後の現地説明会(新潟日報 yahooニュース 10/2(木) 17:00)

    >弥生時代中期から古墳時代の集落跡とみられる燕市渡部地区の「石港(いしみなと)遺跡」
    >これまでの調査で、古墳時代前期から後期まで約350年間集落が営まれたことが確認されている。
    >瀬戸内や畿内、東北、北海道との交流をうかがわせる土器

    この遺跡が斉明朝の越国守の阿倍引田臣比羅夫の東北・北海道遠征の前提になるんじゃないかと思います。情報も無しに遠征は出来ませんから。

    石港は壱志港(伊勢国壱志郡)の可能性もあると思います。壱志郡(古くはいしのこおり)の三雲地域(雲出川の下流)には弥生時代の遺跡が少なくなく、(四道将軍の)北陸道将軍の(磐余の)大彦命に彦国葺命(壱志君を含む和珥氏)がついていったいったと日本書紀にあるからです。三雲と言えば、一大率があった交易の中心地の伊都国で、(鰐がトーテムの?)和珥氏が外交・交易に関与していた可能性も十分です。なお(外交交易とも関係が深い)西出雲の出雲大社の別当寺を鰐淵寺と言います。越後国の一宮で蒲原郡の名神大社の伊夜比古神社(弥彦神社)の宮中以外では稀な石上神宮同様の鎮魂祭を石上神宮の物部首(和珥氏)で解釈できる可能性もあります。

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    ウィキペディア「石上神宮」拝殿( Zeter114514)
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    ウィキペディア「鰐淵寺」Gakuenji Konpondo by Monado

    斉明天皇の諱は財皇女ですが、紀伊国牟婁の温泉へ行幸をする等、当地との関係も深く、紀伊国日高郡財部郷が諱の由来かと思われるんですね。日高郡は元は飯高郡で、和珥氏(伊勢飯高君=和珥氏か)の土地だったらしいんです。蘇我蝦夷の母が和珥氏でしょうから、皇極天皇(斉明天皇)が擁立された背景の一端もこの辺だと思います。そして伊勢国飯高郡の隣が伊勢国壱志郡で壱志君も和珥氏なんです。大彦命系氏族に越国造(越後国古志郡か)がありますから、東北や北海道の蝦夷事情に斉明天皇が通じていて、問題意識を持っており、行動を起こしたと考えても無理はないと考えられます。

    飛鳥では石神遺跡で、蝦夷を饗応した跡もあるんですね(斉明天皇というより、中大兄皇子が動いた可能性もあると思います。阿倍引田臣比羅夫は天智朝でも後将軍として活躍しており、続日本紀によれば、壬申の乱で阿倍布勢臣御主人の活躍で、氏上は交代したようです。中大兄皇子の諱は葛城ですが、葛下郡だと思われ、大坂臣・阿那臣(大和国葛下郡と備後国)といった和珥氏とも関係が深かったと見られ、後に首都に選ぶ近江は和珥氏の分布が濃い地域です)。

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    須弥山石(奈良文化財研究所飛鳥資料館で撮影)

    斉明天皇は石上と飛鳥を結んだ「狂心渠」(明日香村で見つかっている天理砂岩の運河)(ゴールが酒船石か)でも知られますが、石に並々ならぬ関心があるような。石上は物部首(和珥氏)の根拠地でもあります。

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    ウィキペディア「酒船石」(Saigen Jiro)

    なお、伊勢国壱志郡の石名原は(16世紀に和紙の原料となったとされる)ミツマタの群生地で知られるようです。ミツマタは古代には福草(サキクサ)とも言われ、顕宗天皇(近飛鳥八釣宮=大和国高市郡八釣か)の御名代部が福草部です(古代の和紙にミツマタが使われなかった証拠がある訳でもありません)。福草部(三枝部)は天津彦根命系氏族ですが、天津彦根命系氏族が天智天皇を育てたフシもあります。天津彦根命系氏族と和珥氏は分布が重なる部分もあって、共に神功皇后に近い氏族です。神功皇后の母系に葛下郡(当麻)もあるんですね。

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    ウィキペディア「ミツマタ」ミツマタの木(掬茶)

    伊勢国壱志郡には石橋の地名もあります。壱志郡は雲出川流域で珍しい石が多く、(研磨剤にもなる)(海柘榴市と関係するであろう)柘榴石も産出するから、イシ郡なのではないか?そして北海道や東北にこの時期柘榴石を輸出していたのかもしれません(この時期の北海道は金属器の時代ではなく、柘榴石は使ってなかったかもしれません。寧ろ諏訪の黒曜石を輸出していたとか?諏訪郡には春日の地名も)。大坂臣・阿那臣がいたと思われる大和国葛下郡は柘榴石の産地として著名です。柘榴石は当時の重要な軍事物資・戦略物資でしょう。なお、北海道の日高町も柘榴石の産地です。

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    ウィキペディア「柘榴石」(パブリックドメイン)

    >瀬戸内や畿内、東北、北海道との交流をうかがわせる土器・・・交易をしていた蒲原郡の港の機能を有する集落遺跡ですが、元は神原郡で、出雲の宝を管理した神原神社古墳勢力(西出雲の在来勢力/勝部臣か)と関係する気がしないでもありません(四隅突出型墳丘墓が北陸に進出した歴史を踏まえて)。記紀に一尋和邇の別称がサヒモチ(サイモチ)で、出雲大社と鰐淵寺や対馬の地名等から、出雲の在来氏族と和珥氏は関係が深い感じもあるんですよね。西出雲を攻めた主体は備後勢力でしょうけど、そこに割拠するのが和珥氏(大坂臣・阿那臣だと思われます)。その他地名からも出雲系の北陸への進出の形跡は少なくなく、恐らく北陸から信濃に侵入してタケミナカタ伝承と繋がってくるのでしょう。

    越後国の一宮で蒲原郡の名神大社の伊夜比古神社(弥彦神社)(見出し画像はウィキペディア「彌彦神社」拝殿(新潟県)Kakidai)ですけど、東出雲の揖屋がルーツのような気もします。大国主神が幽界の担当とされ、(三輪や出雲のニオイがする)神体山信仰/神奈備山だからです。鎮魂祭を行うこともそれっぽい。尾張氏の神社という伝承があるようですが、石上神宮と同じ鎮魂祭が珍しく、偽書(先代旧事本紀)の物部氏と尾張氏同祖説からの連想である可能性が考えられます。出雲の揖屋神社の奉斎氏族が大宅氏(和珥氏)だったらしいので、伊夜比古神社(弥彦神社)も(石上の物部首を含む)和珥氏が奉斎する神社ではなかったでしょうか?なお、大宅氏と藤原氏も関係が深かったようです。それで格が高かったのかもしれません。ただ、出雲の揖屋神社の奉斎氏族は大宅臣の前は丹比氏(尾張氏)の可能性もあります。大宅臣は反正天皇妃を出しており、反正天皇の御名代部が丹比氏だからです。丹比氏とは河内が地盤のモモソ姫に協力した尾張氏だと考えられます。それで(モモソ姫時代に征服した/国を譲らせた)出雲で丹比氏が有力なのでしょう(出雲国風土記)。そして反正天皇が淡路と関係が深いのもこのことによります。またタジヒを丹比と書くのも、蝮と書くのもモモソ姫が丹や蛇(種類としては蝮だったのでしょう)と関係が深いのもモモソ姫絡みのはずです。この仮説が正しいとすると、弥彦神社が天香語山命を祀るのは、奉斎氏族が丹比氏だからの可能性もあります。いずれにせよ、弥彦とは伊弉諾尊である可能性が高いと私は思います。本来、日本の神社は祖神を祀りません。

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    ウィキペディア「彌彦神社」神体とする弥彦山ただし右の山頂は多宝山で、左が弥彦山。Koda6029
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    ウィキペディア「揖夜神社」拝殿(Yasuhisa)

    揖屋神社は伊弉冉尊を祀りますが、セットの伊弉諾尊を祀る神社は淡路の多賀の神社が最も重要で、やはり大和系の神のような感じで、北陸の(大彦命系の道君と関係が深いか)白山神社は菊理媛神を祀ります。

    瀬戸内との交流も引っ掛かりますが、塩なんですかねぇ。どうなんだろう。

    最後に阿倍引田臣比羅夫の北海道・東北遠征に関しては長谷部や庄内地方も関係してくると思います。以下の記事をご参照ください。

    後白河法皇と出羽三山の関係から考える山形県庄内地方鶴岡市の古代史

    2025年11月13日追記)一志は古くは一志(いし)と読まれたとされ、イチシと通常(現在は)読まれていますが、万葉仮名で壱はイなので、イシと呼んでいた可能性がやはり高いのだろうと思います。イチシでは日本語で何のことやら分かりませんから。市磯長尾市も市・磯長・小市の方が意味は通る。いずれにせよ、今の訓読が当時の訓読である保証はありません。

     
     
    在野ですが(在野だからこそ)、記紀研究の最先端を自負しています。記紀批判の戦後日本古代歴史学会に喝!古墳時代史は日本の史料が解題します。主にXで活動(文明の研究も始めてます)。飛鳥・藤原マガジンで、記紀や新撰姓氏録を元にした日本古代史を発信中。愛媛県宇和島市在住。

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