
中大兄皇子の皇太子宮(石神遺跡)が日本書紀に明記されない理由
7月18日ポスト)中大兄皇子の邸宅が議論されることがあまりないように見えますが、重要な問題です。恐らく(近江に持って行った)漏刻の近くに中大兄皇子の邸宅があったでしょう。つまり斉明朝の石神遺跡は迎賓館ではなく、(蘇我氏の嶋の邸宅に倣った?)中大兄皇子の邸宅だった可能性を検討するべきだと思います。
7月18日ポスト)皇極天皇紀に「此卽宮殿接起於嶋大臣家」とあって、嶋宮が天智天皇の宮とされることがあるようですが、首肯できません。これは単に乙巳の変を起こすための仮の宮殿で嶋大臣家には蘇我氏の人質として祖母(糠手姫皇女/嶋皇祖母命)が住んでいたと思います。完成したかどうかも怪しいでしょう。
5月24日ポスト)石神遺跡・飛鳥水落遺跡。石神遺跡は奈良県明日香村の斉明朝から天武朝にかけての3時期の迎賓館・饗宴施設と考えられている遺跡で、水落遺跡は石神遺跡に隣接し、明日香村飛鳥の漏刻(水時計)跡です。漏刻は近江にもあったと見られ、天智天皇が気に入っていたのではないかと思います。つまり岡本の飛鳥京とやや離れた飛鳥の地に天智天皇は(斉明天皇と別居して)いたのではないかという気がします。称制もここで行ったのではないでしょうか?迎賓館も中大兄皇子にとって必要で(推古天皇と聖徳太子の関係のように、天皇は隠れていて)、饗宴施設も飛鳥京跡苑池と別に必要だった可能性が考えられます。
8月10日ポスト)水時計・須弥山石を備え、東北地方や外国産の土器が出土し、何度も改作された石神遺跡は・・・
通説通り、迎賓館である。(2票)
古墳時代史解題説の中大兄皇子の私邸説に賛同する。(3票)
8月10日ポスト)石神遺跡の須弥山石。須弥山とは古代インドの世界観で世界の中心に聳える山。隣接する(近江に持って行った)水落遺跡(水時計)と言い、どうも石神遺跡は迎賓館等ではなく、中大兄皇子が居住する宮であった気がしてなりません。
追記)たまにしか使わないただの饗応施設を世界の中心(須弥山)にするかですよね。石神遺跡で蝦夷を饗応していたことは間違いないんでしょうが、中大兄皇子の私邸で蝦夷を饗応することがあったのだと考えています。時を告げる漏刻を側に置いたこと(中国では皇帝は暦と時を司るとか)、近江に漏刻を持って行ったことがその傍証です。そもそも斉明天皇紀に「皇太子初造漏剋、使民知時」とあるんですね。迎賓館とされたのが不思議なほどです。
2026年3月6日追記)石神遺跡=中大兄皇子の私邸説は私の独自説ですが、世界の中心たる須弥山石と日本初の漏刻を迎賓館に置くかと疑問を持っています。斉明天皇以上の権力者がここにいたのではないか?また、権力を握っている以上、近江に遷都して新しい形式を整える(周囲に整えさせられる)まで、即位する必要が大してなかった(斉明天皇に引き受けてもらっていた儀式をやりたくなかった)のではないかという気がします。
2026年3月17日追記)まめ@Mame_8632さんからのご指摘>須弥山石を中大兄皇子の私邸に設置したなら、「作須彌山像於"飛鳥寺西"」じゃなくて「作須彌山像於"皇太子宮"」とかで記述されると思うのですが、どうなんでしょう
私の回答)鋭いご指摘だと思いますが、仮に迎賓館だと仮定しても、同じことが言えると思います。何故「作須彌山像於(飛鳥)館(むろつみ)」と書かなかったのかと。思うに須彌山が仏教の世界観だから、飛鳥寺西かと思いますが、確たることは言えません。
2026年4月22日追記)天武天皇紀(壬申の乱)に「留守司高坂王及興兵使者穗積臣百足等、據飛鳥寺西槻下、爲營。唯百足、居小墾田兵庫、運兵於近江。時、營中軍衆、聞熊叫聲、悉散走。」とあります。この飛鳥寺西槻下(石神遺跡一帯)を私は中大兄皇子の皇太子宮と考える訳ですが、何故、そう書かなかったかと言えば、天武天皇軍を反乱軍にしない為だと思われます。我々が壬申の乱と呼んでいることで分かり難くなった盲点です。
なお、飛鳥寺西の槻樹広場と推定されるのが(恐らく石神遺跡と一体的な)飛鳥寺西方遺跡です。広場の南辺には物見櫓あるいは楼閣状の建物もあったようです。
2026年5月4日追記)石神遺跡が迎賓館(むろつみ)だというなら、遺構が見つかっている迎賓館は、筑紫の鴻臚館だけじゃないということになります(他に難波の鴻臚館・平安京の鴻臚館があったのは分かっています)。なお、筑紫の鴻臚館は北館東門の復元工事をしているとのこと(「古代の迎賓館」鴻臚館の北館東門復元工事、4mの柱たてられ棟上げ終了…福岡市は10月完成目指す(読売新聞 2026/04/28))。
参考記事
新しもの好きの中大兄皇子と飛鳥水落遺跡|古墳時代史解題
中大兄皇子は若過ぎたのか?|古墳時代史解題

