世にも奇妙な小噺 ~始期(3/4)~
あらすじ
五十年前、二十六歳だった道子の前に、ある日突然、見知らぬ小さな子どもが現れた。家の中にいるはずのないその子は、姿を見せては消え、夫である照夫には一度も見えることがない。それでも何年、何十年と時が流れるうち、道子はいつしか、その不思議な存在を恐れなくなっていく。夫婦が年を重ね、家の姿も暮らしも変わっていく中で、ただひとつ、子どもだけは初めて会った日のまま。そして長い年月の果て、道子の人生に大きな変化が訪れたとき、その子との関係もまた、静かに変わり始める――。
第一話はこちらから
*
最初に道子が『子ども』を見たのは、彼女が二十六歳の時だった。
「よっこいしょ」
道子は二槽式洗濯機の脱水槽から洗濯物を取り出し、かごに入れた。
脱水されているとはいえ、二人分の洗濯物は十分重かった。
「いてて」
道子がかごを持ち上げようと力を入れると、下腹部に鈍い痛みを感じてしゃがみこんだ。
「まだ痛むのか」
うがいをしに洗面所へ来た照夫が、心配そうに道子の背中をさすった。
「大丈夫よ。ちょっと重かっただけだから」
「ほんとに大丈夫か。しばらくは無理しない方がいいって話だろ」
「平気よ。それに、何かしてたほうが逆に気分がいいの」
道子はそう言って立ち上がると、かごを持って居間を通り、縁側から庭へ出た。水分を含んだ洗濯物はずしりと重かった。
外へ出ると、やわらかな春風が道子の頬をなでた。
今日も洗濯物がよく乾きそうだ。そう思いながら物干し竿に下着を干していた、そのときだった。
縁側の奥から、たたたっ、と小さな足音がした。
振り返ると、障子に子どものような小さな影が映っていた。
近所の子でも入り込んだのだろうか。
道子は持っていた洗濯物をかごに戻し、縁側へ近づいた。
「誰かいるの?」
そう言って障子をそっと開けたが、居間には誰もいなかった。
疲れているのかしら。きっとそうなんだろう。
道子は自分にそう言い聞かせた。
*
それから一週間ほど経った日のことだった。
道子が台所で昼食のうどんを茹でていると、ふいに背中へ誰かの視線を感じた。菜箸を持ったまま手を止め、ゆっくりと振り返る。
台所の入口に、小さな子どもが立っていた。
二歳ぐらいだろうか。まん丸な目で道子をじっと見つめている。肌は日に焼けたところのない白さで、髪はぱっつんと切りそろえられていた。男の子なのか女の子なのか区別がつかない。紺地に赤い絣模様が入ったウールの着物に、黄色い兵児帯を巻いている。
「あらやだ。どこのうちの子かしら」
道子は慌ててコンロの火を止めた。
「ねえ、どこから来たの?」
再び振り返ると、子どもの姿は消えていた。
居間へ行ったのかと思って戸を開けたが、そこにもいない。道子は和室から洗面所、浴室、二階の寝室まで家中を探して回った。
だが、どこにも子どもの姿はなかった。
あまりにはっきり見えたため、見間違いだったとはどうしても思えなかった。
「ねえ。今日、変なことがあったの」
その晩、夕食に作ったカレーを食べながら、道子は照夫に昼間見た子どものことを話した。
「はあ。着物を着た子どもか」
照夫は小皿によそわれたサラダを食べながら、気の抜けた声で返事をした。
「ちょっと。信じてないでしょ」
「だってなあ。家中探してもいなかったんだろ。見間違いじゃないのか」
「ほんとよ。はっきり見たんだから」
明らかに半信半疑の照夫に、道子は不満そうな顔をした。
「ぱっつん髪に着物着てるって、もしかしたら座敷わらしじゃないか」
照夫は冗談っぽく笑った。
「怖いこと言わないでよ」
「いいじゃないか。座敷わらしって幸運を運んでくれるんだろ」
「そういう問題じゃないわよ」
道子はそう言いながら、少し前に障子へ映った子どものような影を思い出した。
……いや、やっぱり何かの見間違いだろう。そう自分に言い聞かせて、道子は再びカレーを口へ運んだ。
*
そうして、道子がその子どもの存在を忘れかけていた、五月の半ばのことだった。
近所の八百屋から帰ってきた道子は、門を開けて家に入ろうとして足を止めた。
縁側を見ると、前に見た着物姿の子どもが、以前とまったく同じ姿でちょこんと座っている。
やっぱり、いる。
そう思って道子が子どもの方へ歩いていこうとした、そのときだった。玄関の戸ががらがらと開く音がして、道子はびくっと身をこわばらせた。
「おかえり」
玄関から出てきたのは照夫だった。
道子はほっとして、いつの間にか力の入っていた肩を緩めた。
「そんなに緊張した顔して、どうしたんだ」
「ちょっと見て。今そこに、この前話した子どもがいるのよ」
そう言って縁側へ目を向けると、子どもの姿はもうなかった。
「……いないじゃないか」
「ほんとにいたのよ。今までそこに座ってたの」
「また見間違えたんじゃないのか。まだ疲れてるんじゃないか?」
「見間違いじゃないってば」
道子が思いのほか強い調子で言い返すと、照夫は少したじろいだ。
「分かった、分かった。とにかく家に入ろう」
照夫はそう言って玄関へ戻っていった。
道子もその後を追おうとしたが、もう一度誰もいない縁側を振り返った。
「どうしていなくなっちゃうのよ」
子どもに聞こえるはずもないと思いながら、道子は不満げにつぶやいた。
それからも、子どもは忘れたころになると道子の前に姿を見せた。数か月でまた現れることもあれば、何年も姿を見せないこともあった。
廊下の突き当たりに立っていることもあれば、縁側で庭を眺めていることもあった。寝室の入口から顔だけを覗かせて、道子が声をかける前に消えてしまうこともあった。それでも、何年経ってもその姿だけは変わらなかった。
突然現れるたびに、最初のうちは心臓が止まりそうなほど驚いた。
けれど、何度姿を見せても道子に危害を加える様子はなく、ただ家の中をふらりと訪れては消えていく。そんなことを繰り返すうちに、道子も次第に慣れていった。
どこかに隠れては姿を見せるその様子は、まるで道子と遊んでいるようでもあった。いつしか道子は、子どもを見つけると、「また来たの」と声をかけるようになった。
初めのうちは、子どもを見かけるたびに照夫にも話していた。
「今日もいたのよ。今度は二階の廊下に」
「そうか」
「そうかって、それだけ?」
「だって、俺には見えないんだから何とも言えないだろ」
何度話しても、照夫自身が子どもの姿を見ることはなかった。道子が話し始めると、「そうなのか」「また出たのか」と返事はするものの、それ以上は何も聞いてこなかった。
照夫とこの不思議を共有できないことが、道子には少し寂しかった。そうしていつの間にか、子どもの姿を見かけても、照夫には話さなくなっていった。
道子と照夫は少しずつ年を取り、家の中の家具や暮らしぶりも変わっていった。それでも、忘れたころに姿を見せる子どもだけは、初めて見た日の姿から少しも変わらなかった。
そんな日々が三十年近く続いた。
*
道子が五十五歳になったころ、家の老朽化も進み、これから先も二人で暮らしていくことを考えて、一階を中心に大きくリフォームすることになった。
照夫の方からあの子どものことを口にしたのは、工事が始まる三日前だった。
「そういえば、あの座敷わらしって今もいるのか」
夕食のさんまを食べながら、照夫がふいに尋ねた。
予想外の話題に、道子は目を丸くして箸を止めた。
「最後に見たのは一か月前だったかしら。あなたからその話をするなんて珍しいじゃない」
「もうすぐこの家、リフォームするだろ。そうしたらいなくなっちゃうんじゃないかって思っただけだ」
「取り壊すわけじゃないから、いなくならないんじゃないかしら」
「そうなのか」
照夫はそう言って、ご飯を口へ運んだ。
「あなた、あの子がいなくなったら寂しいの? そもそも、あの子のこと信じてたの?」
道子はいたずらっぽく笑った。
「見たことないから何とも言えん。ただ、もし本当にいるなら、いなくなられたら困るだろう。今度見かけたら欲しいものがないか聞いといてくれ」
適当に言っているのか真面目なのか分からない照夫がおかしくて、道子は口に運びかけた味噌汁をいったん置いた。
もしかすると、照夫は自分にだけ姿を見せてくれないことを、少し不満に思っていたのかもしれない。そう考えるとますますおかしくなり、道子は笑いをこらえた。
だが食事を終えるころには、照夫の言うことも一理あるような気がして、道子自身も少しだけ不安になっていた。
やがて、佐藤家のリフォームが三週間ほどかけて行われた。古い柱や奥の和室は残しつつ、居間の床や壁、水回りなどが新しく整えられた。
工事がすべて終わった日のことだった。
新しく購入したリビングのソファで横になっている照夫を横目に、道子は和室で少し休もうと襖を開けた。
その場で、道子は足を止めた。
視線の先では、あの子どもが座布団の上にちょこんと座っていた。相変わらず何の表情も浮かべず、昔から変わらず残った庭をじっと見つめている。
家のあちこちが新しくなったのに、その子だけは初めて見た日の姿と何一つ変わっていなかった。
道子はなぜか、ほっとした。
これほど近くで子どもの姿を見ることはめったになかった。声をかけようか迷ったものの、庭を眺めるその姿を邪魔するのも悪いような気がして、道子は何も言わず、そっと襖を閉じた。
「今日、和室であの子を見たの」
その晩、道子は少し浮き立った気分で、ソファでくつろぐ照夫に報告した。
「なんだ、そうなのか。座敷わらしはリフォームくらいじゃいなくならないんだな」
「そうらしいわ。でも、これで一安心ね」
照夫は少し考えてから、ふっと笑った。
「今度出てきたら、新しい家はどうだって聞いといてくれ」
「自分で聞けばいいじゃない」
「俺には見えないんだから仕方ないだろ」
道子は思わず笑った。
あの子の話で、照夫とこんなふうに笑う日が来るとは思わなかった。道子は笑いながら、庭の見える縁側へ目をやった。
それからも、子どもは忘れたころに姿を見せた。家の中を覗くように現れては、いつの間にか消えている。それだけは、昔と変わらなかった。
*
そして、二十年ほどが過ぎた二〇二五年の秋、照夫が亡くなった。
庭で家庭菜園の手入れをしている最中に突然倒れた。病院に運ばれたが、心筋梗塞だった。
あの日から今に至るまで、道子にとっては何もかもがあっという間だった。
和室には仏壇が置かれ、その傍らに照夫の遺影が飾られている。
道子はここ一か月の出来事に、まだ頭の整理が追いついていなかった。二人暮らしにはちょうどよかったこの家も、今ではとてつもなく広く感じられた。
これからどうしたらいいのだろう。
道子は祈るように照夫へ手を合わせた。
しばらくして顔を上げ、立ち上がろうとしたときだった。いつの間にか、斜め後ろの手を伸ばせば届きそうなところに、あの子どもが座っていた。
相変わらず何の表情も浮かべていなかったが、その視線は確かに照夫の遺影へ向けられていた。
「あんたも悲しいのかい」
道子は優しく語りかけた。
子どもは瞬き一つせず、照夫の写真を見つめていた。
道子は立つのをやめ、もう一度仏壇の前に座った。子どもと並ぶようにして、しばらく照夫の写真を見つめていた。
それからというもの、子どもは以前よりも頻繁に姿を見せるようになった。道子が一人になった家の中で、気がつけば縁側や廊下の先に、あの変わらない姿があった。
二人暮らしには広すぎる家だったが、不思議と、以前ほど静かには感じなくなっていた。
続く
