世にも奇妙な小噺 ~始期(1/4)~
あらすじ
半年前に夫を亡くし、一人暮らしを続ける佐藤道子。最近、彼女が家の中で「誰か」と話しているらしい――。近隣住民からそんな相談を受け、地域包括支援センターで働く可奈子は佐藤の家を訪ねる。しかし、本人と話してみても特に変わった様子はなく、穏やかな世間話が続くばかり。近所の人の勘違いだったのか。それとも、夫を亡くした寂しさから独り言を口にしているだけなのか。そう思いかけた帰り際、佐藤がかけた何気ない一言が可奈子にとって忘れられないものとなる――。
「ごめんください」
可奈子はチャイムを押したあと、道路を挟んで向かい側にある白い木造建築の家をちらりと見た。あの家には、金井さんという老夫婦が住んでいる。
金井さんから地域包括支援センターに相談が寄せられたのは、一週間前のことだった。
半年前に夫を亡くして一人暮らしなはずの佐藤道子さんが、最近、誰かと話しているらしい。
それが、今日ここへ来た理由だった。
可奈子は佐藤さんが出てくるのを待ちながら、額にかいた汗をぬぐった。まだ六月だというのに、突き刺すような日差しが容赦なく肌を焼いてくる。こんな日は、担当地区の人たちが誰一人体調を崩さないことを、いつも以上に切実に願いたくなる。
可奈子がもう一度チャイムを押そうとしたその時、玄関の奥から「はい」という女性の返事が聞こえた。ほどなくして、玄関の戸ががらりと開いた。
「どちら様ですか」
「地域包括支援センターの清水と申します。今、この地域で一人暮らしをされている方のお宅を回っていまして」
金井さんの名前を出そうか一瞬迷った。だが近所同士だ、誰が何を相談したかまで伝える必要はない。
「あら、そうなんですか。わざわざご苦労様です。外は暑いでしょう。どうぞ上がってください」
「いえ、お構いなく……」
可奈子が話し終えるより先にそう言うと、佐藤さんはそそくさと奥へ消えていった。せっかちな人だな、と可奈子は思った。
もともと立ち話程度で済ませるつもりだったが、金井さんから聞いた話を確かめなければならない。可奈子は靴を脱いで中へ上がった。
玄関から左手のリビングへ通される。築年数の経った家を、途中で大きく改装したのだろう。新しく張り替えられた床や壁のところどころに古い柱が残り、部屋の右手には昔から使われていそうな襖があった。その向こうには和室があるらしい。正面の掃き出し窓の先には、くれ縁と庭が見えている。
可奈子は座布団に座って待つ間、部屋の様子をそれとなく見渡した。ローテーブルにソファ、テレビ、箪笥が二つ。掃き出し窓の近くには観葉植物が二鉢置かれている。物は多くないが、どれもきちんと整えられていた。
やがて佐藤さんが、湯飲みと菓子器を載せた盆を持って戻ってきた。
「めったに客人なんて来ないから、何にもなくてごめんなさいね」
「こちらこそ、わざわざすみません」
可奈子のような客が来るのは本当に久しぶりなのだろう。菓子器には飴玉が数個と煎餅が数枚あった。だが、湯飲みと菓子器を差し出す佐藤さんの表情は、どこか嬉しそうだった。
「地域の見回りみたいなのって、最近始まったの? 今までそういう人、来たことなかったけど」
「ええ。最近ちょっとずつやり始めてまして。近頃は、一人暮らしでお困りの方からの相談も増えているんです」
「確かに、ここら辺も高齢者ばっかりになってきたわねえ」
「何かお困りのことはありますか?」
「そうねえ。物忘れとかはないんだけど、最近、耳が遠くなった気がするわ」
「病院には定期的に通われてるんですか?」
「三か月に一度だけ。次は七月の十日だったかしら」
佐藤さんはそう言って、棚の上に置かれた卓上カレンダーへ目をやった。
「あら、九日だった。危ない危ない」
そう言って笑う様子に、可奈子もつられて笑った。
三十分ほど世間話を続けるうちに、特に問題はなさそうだと可奈子は思い始めていた。受け答えもしっかりしているし、部屋もまめに掃除しているように見える。通院の予定も把握している。
金井さんは、佐藤さんが誰かと話しているようだといっていたが、ご主人を亡くしてから、つい独り言が増えただけなのかもしれない。
麦茶を飲み終え、可奈子がそろそろ失礼しますと切り出した、その時だった。
佐藤さんがふと、部屋の奥へ視線を移した。
「おや、また来たの」
可奈子は湯飲みを置く手を止めた。
「……え?」
佐藤さんは答えず、可奈子ではなく、その向こうを見ている。
不思議に思って視線を追うと、背後の襖がわずかに開いていた。隙間から奥の和室がほんの少し見えているが、人の姿も気配もない。
「また来たって、どなたかいらっしゃったんですか?」
「……いえ。誰かいたような気がしただけ。最近、目まで悪くなってきたのかしらね」
佐藤さんはそう言って苦笑いしたが、そのあともう一度だけ襖のほうへ目をやった。
やはり、金井さんのいっていたことは正しかったのだろうか。
可奈子は少し不安になったものの、帰ると切り出してしまった手前、今さらまだ残りますとも言いづらく、今日のところはいったん帰ることにした。
車を走らせながら、可奈子は先ほどの光景を何度も思い返していた。
佐藤さんは確かに、自分の背後を見ていた。けれど、襖の奥から物音や人の気配は一度もなかったし、誰かが外から来たのなら、わざわざあの和室へ入り込む理由もない。
あの襖は、いつ開いたのだろう。
それだけが、どうしても引っかかった。
「考えすぎだって」
可奈子は独り言をこぼし、ラジオをつけた。
だが職場に着くまで、佐藤さんの「また来たの」という声が何度も頭の中で繰り返された。
続く
