『あなたの知らないところで。』第4話「積める分だけ」
冬のあいだ、拓真は北の町にいた。
といっても、そこに住んでいるわけではなかった。
二十七歳。
荷物は、古い中型バイクの後ろに積めるだけだった。
着替えが少し。
雨具。
工具。
寝袋。
使い込んだ手袋。
それから、実家の住所が書かれたまま、何度も開けては閉じた古い封筒。
春は観光地の売店で働いた。
夏は海の家で焼きそばを焼いた。
秋は農家の収穫を手伝った。
冬になると、雪のある町へ流れてきた。
人から見れば、自由に見えたかもしれない。
けれど拓真には、季節に押されて移動しているだけのように思えることがあった。
帰る家はあった。
両親もいた。
自分の部屋も、たぶんまだ残っている。
それでも、帰れなかった。
地元で就職した会社を一年も続けられずに辞めた日、父が言った。
「いつまでフラフラしてるんだ」
怒鳴られたわけではなかった。
殴られたわけでもない。
ただ、その一言が妙に深く残った。
それから拓真は、実家に帰る道だけを避けるようになった。
秋の終わり、収穫の手伝いをした農家の佐野から電話があった。
「冬の間だけでいい。うちの家に泊まって、道の駅を手伝わないか」
拓真は、すぐには返事をしなかった。
「俺、接客とか向いてないです」
電話の向こうで、佐野は少しだけ笑った。
「野菜を雑に扱わなかったやつなら、大丈夫だ」
それで、断れなくなった。
佐野の家の離れは、畑の端にあった。
古い畳の部屋に、小さな石油ストーブ。
窓の外には雪をかぶった畑が広がり、夜になると遠くに道の駅の灯りが見えた。
拓真の仕事は、最初は佐野の野菜を並べることだけだった。
大根を箱から出す。
白菜の外葉を整える。
人参についた土を軽く払う。
値札を差す。
売れ残った数を紙に書く。
曲がった人参を、拓真は奥へ隠さなかった。
小さな大根も、手前に置いた。
その方が、ちゃんと見てもらえる気がした。
ある朝、納品に来た佐野がそれを見て言った。
「曲がってても、育ったことには変わりないからな」
拓真は返事に困って、ただ頷いた。
数日すると、道の駅の人たちが少しずつ拓真に声をかけるようになった。
食堂のおばちゃんが言った。
「悪いけど、昼の皿だけ下げてくれる?」
直売所の店長が言った。
「入口の雪、少しだけ寄せてもらえる?」
別の農家のおじさんが言った。
「うちの長ねぎも、ついでに並べてくれないか」
味噌を出しているおばあちゃんが言った。
「この箱、重くてねえ。棚に上げてもらえるかい」
拓真は、断るタイミングを逃して短く返事をした。
「はい」
「分かりました」
「そこ置きますね」
気づけば、道の駅のあちこちで名前を呼ばれるようになっていた。
「拓真くん」
「拓ちゃん」
「若いの」
呼び方はそれぞれ違った。
どれで呼ばれても、拓真は振り返るようになっていた。
ある夕方、閉店後の駐車場で、拓真は倒れたのぼりを結び直していた。
雪が細かく舞っていた。
手袋の中で指先が冷えていた。
食堂のおばちゃんが裏口から顔を出した。
「拓真くん、今日いくつ仕事したの」
「数えてないです」
「じゃあ、これも仕事」
おばちゃんは、湯気の立つ味噌汁を差し出した。
「飲みな」
拓真は両手で椀を受け取った。
味噌汁の湯気が、冷えた頬に当たった。
大根と油揚げの匂いがした。
「それ、仕事なんですか」
拓真が言うと、おばちゃんは当たり前のように答えた。
「冷えた人を温めるのも、ここでは仕事」
拓真は笑おうとして、うまく笑えなかった。
その夜、離れに戻ると、母からLINEが届いていた。
寒くない?
お父さん、ニュースで雪の町が映ると黙って見てるよ。
拓真はスマホをしばらく見つめた。
返信欄に、
元気です。
と打った。
でも、送れなかった。
道の駅の人たちに『必要とされた』という感覚があった。
味噌汁を飲む時『温かさ』を受け取る感覚があった。
けれど『実家に帰る勇気』はまだ、そこにはなかった。
親に『フラフラしてる』と言われて、一度『帰れない人間』になってしまった自分が『帰ってもいい』と思える理由が、まだ足りなかった。
冬の終わりが近づく頃、拓真には次の仕事が決まっていた。
春の観光地。
桜の時期だけ人手が足りない売店だった。
道の駅で働く最後の日、いつもと同じように朝が始まった。
大根を並べた。
白菜の外葉を取った。
雪を寄せた。
皿を下げた。
のぼりを立て直した。
誰も大げさに別れを言わなかった。
それが、ありがたかった。
閉店後、拓真がバイクに荷物をくくりつけていると、食堂のおばちゃんが、おにぎりをたくさん持ってきた。
「今夜と明日の朝」
「こんなに食べませんよ」
「帰る場所が遠い人は、お腹が空くんだよ」
拓真は、何も言えなかった。
直売所の店長は新しい軍手をくれた。
味噌のおばあちゃんは、小さな味噌の袋を渡した。
観光案内のおじさんは、古い観光地図を一枚くれた。
最後に、佐野が泥つきの大根を一本持ってきた。
「バイクに積めないですよ」
拓真が言うと、佐野は表情を変えずに言った。
「積める分だけ持ってけ」
少し間を置いて、続けた。
「残りは、また取りに来ればいい」
拓真は大根を受け取った。
土のついたまま、新聞紙にくるまれていた。
その一言が『帰ってもいい』という許可に聞こえた。
『また来ていい』という招待に聞こえた。
春の風は、思っていたより冷たかった。
拓真は次の町へ向かってバイクを走らせた。
道の駅の蛍光灯は、ミラーの中で小さくなっていった。
しばらく走ると、分かれ道に出た。
右へ行けば、次の仕事先。
『季節に押されて、また次へ』という流れ。
左へ行けば、実家のある町へ近づく。
『親と向き合う』という選択。
拓真はウインカーを出せなかった。
信号が変わっても、すぐには進めなかった。
ヘルメットの中で、自分の息だけが聞こえた。
後ろで、大根が揺れた。
『帰りたい』
『けれど帰れない』
その二つが同時にあった。
『帰ってもいい』と言ってくれた人たちがいた。
『見ている』と言ってくれた親がいた。
けれど『帰る』という決断は、拓真自身がしなければならなかった。
拓真は路肩にバイクを停めた。
背負っていた荷を一度下ろす。
手袋を外した。
冷えた指で、短く打った。
前の返信欄へ戻る。
『元気です』を削除する。
指が少し震えていた。
新しく打った。
『今から帰る』
画面の明かりを見つめる。
そのまま、送信を押した。
返信はすぐには来なかった。
けれど『既読』になった。
実家の前に着いたのは、夕方だった。
空は薄い灰色で、雨はまだ降っていなかった。
母が干したままのタオルが、物干し竿で小さく揺れていた。
少し錆びた表札。
昔と同じ郵便受け。
玄関の横に置かれた植木鉢。
何も変わっていないようで、少しずつ古くなっていた。
拓真はバイクのエンジンを切った。
急に、辺りが静かになった。
ヘルメットを外すと、家の匂いがした。
味噌汁なのか。
洗剤なのか。
畳なのか。
どれとも言えない匂いだった。
玄関の灯りがついていた。
テレビの音が聞こえる。
新聞をめくる音が聞こえる。
インターホンは押さなかった。
鍵も使わなかった。
引き戸に手をかける。
少し重かった。
戸を開けると、新聞をたたむ音がした。
「案外、早かったな」
拓真は、小さく息を吸った。
その一言に『帰ってこなくてもいい』という選択肢は、もうなかった。
『帰ってもいい』という親からのメッセージが、そこにあった。
「ただいま」
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