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『あなたの知らないところで』第5話「寄り道」


 道を一本、間違えた。

 それだけだった。

 男は立ち止まり、スマートフォンの地図を見た。

 青い線は、一本向こうの大通りを示している。

「こっちじゃなかったか」

 小さく呟いて、画面を閉じた。

 急ぐ理由はなかった。

 帰ったところで、待っている人はいない。

 角をひとつ戻れば、元の道に出られる。

 けれど男は、来た道を振り返らなかった。

 間違えたまま、歩く。

 そんなことは、何十年もしてこなかった。

 今なら、できる気がした。

 二月下旬。

 暦の上では春が近づいているはずなのに、風はまだ冬の居場所を手放していなかった。

 歩道の端には、除雪で寄せられた雪が、灰色の壁になって続いている。昼の日差しで緩んだ足もとは、夕方になってまた固く凍りはじめていた。

 男はコートの襟を立て、靴底を確かめるように、知らない道を進んだ。

 知らず知らず、何かを探すように歩いていた。

 しばらく歩くと、古びたアーチが見えてきた。

 塗装の薄れた文字で、零番地商店街と書かれている。

 半分ほどはシャッターが下りていたが、寂れているというより、一日の仕事を静かに終えようとしているように見えた。

 八百屋の前では、白い前掛けをした店の主人が白菜を木箱へ戻していた。

 花屋の女性は、ガラス戸の内側で、売れ残った花を束ね直している。

 少し離れた店からは、油の弾ける音と、コロッケの匂いが流れてきた。

「二つちょうだい」

「今日は寒かったね」

「明日は少し暖かくなるってよ」

 そんな声が、夕暮れの中を行き交っていた。

 どれも、男に向けられた言葉ではない。

 それでも、誰かの暮らしの中を歩いているような気がした。

 男は歩幅を緩めた。

 何十年も働いてきた。

 朝は同じ電車に乗り、同じ駅で降り、同じ道を歩いた。

 昼は決まった店で済ませ、夜は寄り道をせずに帰った。

 間違えないこと。

 遅れないこと。

 人に迷惑をかけないこと。

 そうやって生きてきた。

 なのに仕事を辞めてからは、間違えないことに、以前ほど意味がなくなった。

 時計を見る回数も減った。

 帰宅時間を気にする相手もいない。

 冷蔵庫には昨日買った惣菜が残っている。

 帰ればそれを温めて、テレビをつける。

 音が欲しいだけなので、番組は何でもよかった。

 そんな夜が、悪いわけではない。

 ただ、少し長かった。

 その長さから逃げるように、男は歩き続けていたのかもしれない。

 商店街の奥に、一軒の小さな店があった。

 紺色の暖簾。

 木の引き戸。

 店先には、黒い板が立てかけられている。

 白い文字で、ただ一行。

 本日 さばの味噌煮

 男は足を止めた。

 暖簾の隙間から、味噌と出汁の香りが流れてくる。

 昼から何も食べていなかったことを、男はその香りで思い出した。

 家に帰れば食べるものはある。

 わざわざ知らない店へ入る理由はない。

 そう思いながらも、男は暖簾を見つめた。

 どこか、懐かしかった。

 店構えが特別なわけではない。

 この手の店なら、昔はどこの街にもあった。

「……たまには、いいか」

 男は暖簾をくぐった。

 引き戸を開けると、控えめな鈴の音が鳴った。

「いらっしゃいませ」

 店の奥から、店主らしい人が顔を出した。

 四十代半ばくらいだろうか。

 白いシャツの袖を肘までまくり、紺色の前掛けをしている。

 愛想が悪いわけではないが、必要以上には笑わない。

「お一人ですか」

「ああ」

「お好きな席へどうぞ」

 店内には、カウンターが六席。

 二人掛けのテーブルが二つ。

 窓際では年配の男性が新聞を読み、隅の席では作業着姿の女性が湯飲みを両手で包んでいた。

 テレビはついていたが、音は小さい。

 誰も話していない。

 それでも、不思議と静かすぎる感じはしなかった。

 男はカウンターの端に腰を下ろした。

 木の椅子が、わずかに軋んだ。

「温かいお茶でいいですか」

「ああ、お願いします」

 湯飲みが置かれる。

 男は両手で包み、ひと口飲んだ。

 熱さが、冷えていた指先からゆっくりと身体へ戻ってくる。

「表の、まだありますか」

「さばの味噌煮ですね。ありますよ」

「じゃあ、それを」

「はい」

 店主は厨房へ戻った。

 鍋の蓋が鳴る。

 包丁がまな板を叩く。

 味噌汁をよそう音がする。

 男は店内を見回した。

 壁には手書きの献立。

 カウンターの端には、少し欠けた招き猫。

 棚には、形の揃っていない湯飲みが並んでいる。

 昔、仕事の都合で別の街に住んでいたことがある。

 駅から少し離れたところに、小さな食堂があった。

 仕事がうまくいった日も、叱られた日も、男はそこへ通った。

 店の主人は無口だった。

 けれど男が座ると、何も聞かずに温かい茶を出した。

 いつからか、注文をしなくても、その日の定食が出てくるようになった。

 一度だけ、長い出張から戻った晩に、主人がぽつりと言ったことがある。

「おかえり」

 それきり、二度と聞かなかった。

 聞き違いだったのかもしれないと、あとになって思った。

 転勤が決まった最後の日。

 何か気の利いた言葉を伝えようと思った。

 だが結局、

「お世話になりました」

 それしか言えなかった。

 主人は、いつものように小さく頷いただけだった。

 その店がどうなったのか、男は知らない。

 店の名前さえ、今では曖昧だった。

「お待たせしました」

 目の前に定食が置かれた。

 湯気の立つ白いご飯。

 大根と油揚げの味噌汁。

 艶のあるさばの味噌煮。

 ほうれん草のおひたしと、漬物が二切れ。

 男は、さばを見つめた。

 器の縁に、細い藍色の線が入っている。

 昔の店で使われていた器と、よく似ていた。

「どうかしましたか」

 店主が尋ねた。

「いや……少し、懐かしくて」

「そうですか」

 店主はそれ以上聞かなかった。

 男は箸を手に取った。

 ひと口食べる。

 甘さを抑えた味噌の味。

 生姜の香り。

 柔らかく煮えた身。

 まったく同じではない。

 けれど、遠く離れた記憶の端に触れる味だった。

 男は二つ、三口と箸を進めた。

 途中から、テレビの音も、隣の客の気配も聞こえなくなった。

 ただ、温かいものを食べている。

 それだけのことが、妙にありがたかった。

「うまいですね」

 気づけば、そう言っていた。

 店主は少し驚いた顔をしてから、短く笑った。

「ありがとうございます。父から教わった味なんです」

 男の箸が止まった。

「お父様も、料理を?」

「昔、食堂をやっていました。ここから少し離れた街で」

 男は顔を上げた。

 店主は鍋の火を弱めながら続けた。

「もう店はありませんけどね。器や暖簾は、少しだけ譲ってもらいました」

 男は、紺色の暖簾を思い浮かべた。

 藍色の線が入った器。

 少し欠けた招き猫。

 尋ねようと思えば、尋ねられた。

 店の名前を。

 父親の顔を。

 その街の名前を。

 けれど、男は何も聞かなかった。

 確かめてしまえば、この懐かしさに名前がついてしまう。

 今はまだ、名前のないままでよかった。

 男は再び箸を動かした。

 最後のひと口を食べ終え、味噌汁を飲み干す。

 空になった器を見て、息を吐いた。

「ごちそうさま」

「ありがとうございます」

 会計を済ませ、男はコートを羽織った。

 引き戸に手をかけたところで、男は振り返った。

「また来てもいいですか」

 自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からなかった。

 店主は一瞬だけ目を細めた。

「もちろん」

 男は小さく頭を下げ、外へ出た。

 冷たい風が頬に触れた。

 商店街の店々は、もう半分ほど灯りを落としている。

 数歩進んだところで、背後から引き戸の音がした。

 振り返る。

 店主が暖簾を押さえながら、こちらを見ていた。

「おかえりなさい」

 男はしばらく、その場に立っていた。

 商店街の灯りが、また一つ落ちた。

 道を一本、間違えた。

 それだけのことだった。

第4話はこちら

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