
幸せの予感 ⑬最終章「ふとした瞬間」〜大人の恋愛小説
最終章「ふとした瞬間」
大晦日だった。
東京の空は澄んでいた。
風は冷たい。
晋太郎と結衣は、神保町にいた。
結衣は、今日が仕事納め。
休みに入っていた晋太郎は、地下喫茶Rainで文庫本を読みながら結衣を待っていた。
「良かったらどうぞ。」
マスターが一片のバームクーヘンを出してくれた。
白黒猫くうちゃんが奥からのっさりと歩いてくる。
「君はいつも変わらないねえ」
「最近、ちょっと大人しすぎて、心配してんですよ。なあ、くうちゃん。」
マスターを無視するように、カウンターの椅子の上で丸くなる。
晋太郎は微笑む。
ここからはじまった。
一人感傷に浸りながら、バームクーヘンを一口。
コーヒーをすする。
あの雨の日。
結衣があの席で文芸誌を開きながら、ペンを走らせている姿が思い浮かぶ。
その時、入口の鈴が鳴った。
「お待たせ」
結衣が両手に抱えた荷物を席に置いた。
「マスター、私もコーヒーください」
猫が結衣の足元に寄ってくる。
「くうちゃん、ありがとう。」
そう言って、結衣は猫の頭を撫でた。
「にゃあ」
マスターがコーヒーを置く。
店内にはいつものジャズが流れていた。
Rainは何も変わらない。
変わったのは、自分たちの方だった。
・・・・・・
夕方、二人とも両手いっぱいに荷物を抱えていた。
結衣は仕事道具や原稿、それに取引先からもらったカレンダーを抱え、晋太郎はスーパーの袋を両手に提げながら商店街を歩いている。
「もう持てません」
結衣が少し大げさに言う。
「ちょっと買いすぎちゃったかな」
「ちょっとじゃないですよ」
二人は顔を見合わせて笑った。
年末年始の買い物を終えた人たちが、それぞれの家路を急いでいる。
八百屋の店先にはみかんが山積みになり、惣菜屋の前では年越しそば用の天ぷらを買い求める人たちが並んでいた。
昔の晋太郎なら、こういう光景を見ると少しだけ寂しかった。
楽しそうな家族連れや恋人たちを見ながら、自分だけが取り残されているような気がした。
でも今は違う。
隣には結衣がいる。
そのことが、思っていた以上に嬉しかった。
「ただいま〜」
結衣が先に部屋へ入る。
暖房の止まった部屋は少し冷えていたが、どこか懐かしい匂いがした。
テレビをつけると、ちょうど紅白歌合戦のオープニングが始まったところだった。
結衣は荷物を置いて部屋着に着替え、晋太郎はキッチンへ向かう。
ネギを切る。
豆腐を並べる。
結衣が横で春菊を洗う。
それだけのことなのに、晋太郎は何度も不思議な気持ちになった。
若い頃、自分が欲しかったものはもっと派手なものだった気がする。
成功。
高層マンション。
車。
誰もが羨むような人生。
そんなものを手に入れれば幸せになれると思っていた。
けれど今、目の前で春菊を洗いながら鼻歌を歌っている結衣を見ていると、本当に欲しかったものは最初から別のところにあったのではないかと思う。
温かい部屋。
誰かの笑い声。
一緒に食べるご飯。
疲れたと言える相手。
ただいまと言える夜。
それだけだった。
・・・・・・
すき焼きはうまかった。
肉も柔らかい。
少し濃い目の割り下も好みだった。
結衣はビールを飲みながら言う。
「今年、人生変わったなあ」
「うん」
「まさか四十前に同棲するとは思わなかった」
晋太郎は笑った。
「人生って分からないですね」
「ほんとに」
テレビでは九十年代のヒット曲が流れている。
二人とも自然に口ずさんでいた。
結衣が笑う。
「歌えるの悔しい」
「世代だから」
「歳ばれる」
「もう十分ばれてる」
また笑う。
こういう時間が好きだった。
特別な会話をしているわけではない。
どちらかといえば、どうでもいい話ばかりだ。
でも、そのどうでもいい話をできる相手がいることが、今の晋太郎には何より大切だった。
そのあと、二人は年越しそばの準備を始めた。
さすがにすき焼きでお腹はいっぱいだったが、年越しそばだけは別だった。
細く長く。
鍋に湯気が立ち上る。
ネギを散らす。
七味を少しだけ振る。
結衣が一口食べて言った。
「年末って感じしますね」
「しますね」
窓の外では、どこかのマンションの灯りが瞬いている。
みんな、それぞれの場所で新しい年を迎えようとしていた。
・・・・・・
食器を片付け終える頃には、もう日付が変わるまであと少しになっていた。
結衣はソファに座ったまま、少しうとうとしている。
「眠い?」
晋太郎が聞く。
「ちょっと」
そう言いながらも目は半分閉じていた。
晋太郎はブランケットを持ってくる。
肩に掛けようとした時だった。
結衣がその手をそっと掴んだ。
「ねえ」
「うん?」
「来年もよろしくね」
晋太郎は少しだけ笑う。
「こちらこそ」
結衣は安心したように頷き、そのまま肩にもたれかかってきた。
やがて遠くで除夜の鐘が鳴り始める。
静かな音だった。
晋太郎は窓の外へ目を向ける。
雪。
街灯の光を受けながら、小さな雪がゆっくりと夜空から舞い降りてくる。
「雪だ」
結衣も顔を上げる。
「ほんとだ」
二人はしばらく黙ったまま眺めていた。
去年の今頃、自分がこんな年越しを迎えるなんて想像もしなかった。
結衣もきっと同じだろう。
人生は思い通りにならない。
失敗もする。
遠回りもする。
恋が終わることもある。
孤独な夜だってある。
それでも生きていれば、思いがけない場所で誰かと出会うことがある。
雨の日に偶然入った喫茶店が、こんな未来へ続いていることもある。
結衣が小さな声で言った。
「幸せだね」
晋太郎はすぐには答えなかった。
ただ、その肩をそっと抱き寄せる。
温かかった。
窓の外では、新しい年の雪が静かに降り続いている。
部屋の中には灯りがあり、テレビの音があり、隣には大切な人がいる。
それだけで十分だった。
そして晋太郎は、こんな普通の日々が、この先もできるだけ長く続いてほしいと思った。
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