
幸せの予感 ⑭エピローグ〜大人の恋愛小説
エピローグ
春だった。
窓から柔らかな陽射しが差し込んでいる。
神保町から少し離れたマンションの一室。
リビングの床では、一匹の白黒猫が気持ち良さそうに伸びをしていた。
「こら、むぎ」
結衣が笑う。
猫は返事の代わりに尻尾だけ動かした。
二年前。
晋太郎と結衣は結婚した。
派手な式は挙げなかった。
家族と数人の友人だけを呼んだ小さな食事会。
それで十分だった。
今では二人の暮らしに、一匹の猫が加わっている。
Rainのマスターが保護した子猫だった。
くうちゃんによく似た白黒模様だったので、結衣が放っておけなかったのだ。
晋太郎は休日の朝になるとコーヒーを淹れる。
結衣はソファで本を読む。
猫は二人の間を行ったり来たりする。
そんな時間が流れていた。
「むぎ、そこ邪魔」
原稿を書いていた結衣が笑う。
猫はノートパソコンの前に堂々と座り込んでいる。
どかそうとすると、さらに丸くなる。
「完全に確信犯ですね」
晋太郎が言う。
「飼い主に似たのかも」
「誰ですか」
「両方」
二人は笑った。
窓の外では、春の風が桜の花びらを運んでいる。
特別な日ではない。
記念日でもない。
ただの休日だった。
でも晋太郎は思う。
若い頃、自分は幸せを大きなものだと思っていた。
人生を変える出来事。
誰かに自慢できる成功。
運命みたいな恋。
そんなものを追いかけていた。
けれど今、目の前には本を読む妻がいて、コーヒーの香りがして、猫が気持ち良さそうに昼寝をしている。
それだけで十分だった。
むぎが眠そうに目を開ける。
結衣の膝へ飛び乗る。
結衣は自然にその背中を撫でた。
猫は安心したように喉を鳴らす。
その音を聞きながら、晋太郎はふと思った。
幸せは、どこか遠くにあるものじゃない。
案外、こういう普通の日々の中に隠れている。
雨の日に始まった物語は、もう特別な物語ではなくなっていた。
朝が来て。
仕事をして。
ご飯を食べて。
猫を撫でて。
眠る。
そんな毎日になっていた。
そして、それが何より幸せだった。
窓辺では春の陽射しの中、むぎが再び気持ち良さそうに目を閉じている。
その姿を見ながら、結衣が微笑んだ。
晋太郎も微笑む。
部屋には静かな午後の光が満ちていた。
終
これで、小説「幸せの予感」は終わりです。
ここまでご覧いただきありがとうございました。