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幸せの予感 ⑫第十一章「帰る場所」〜大人の恋愛小説

    前の話 第十章「夜の体温」

    第十一章 帰る場所

    十二月。

    東京の空気は、
    すっかり冬になっていた。

    吐く息が白い。

    街にはクリスマスソングが流れ、
    コンビニには肉まんの湯気が立つ。

    一年が終わろうとしていた。

    晋太郎は最近、
    少しだけ生活が変わった。

    冷蔵庫の中身が増えた。
    ヨーグルト。
    豆腐。
    小さいトマト。

    結衣が勝手に入れていくからだ。

    洗面所には、
    見慣れない化粧水。

    ベランダには、
    小さな観葉植物。

    人が一人、
    人生に入り込むというのは、
    こういうことなのかもしれない。

    ある夜。

    晋太郎は仕事帰りに、
    スーパーへ寄っていた。

    白菜。
    春菊。
    豆腐。
    豚バラ。
    鍋の材料だ。

    スマホが鳴る。
    《今から行っていい?》
    結衣だった。
    《もちろん》

    数分後。
    玄関が開く。

    「寒っ」
    結衣が入ってくる。

    頬が赤い。
    マフラー姿。

    その瞬間、
    晋太郎は不思議な感覚になる。

    “来客”じゃない。

    “帰ってきた”
    だった。

    「鍋?」
    「うん」
    「最高」

    結衣は慣れた様子で手を洗い、
    冷蔵庫を開ける。
    ビールを取り出す。

    「これ飲んでいい?」
    「もう自分の家みたいだな」
    「半分くらい私の家です」

    その言葉に、
    晋太郎は少し笑った。

    でも、
    嬉しかった。

    鍋がぐつぐつ煮える。
    湯気。

    テレビでは年末特番。
    芸人が騒いでいる。

    なんでもない夜。

    でも、
    こういう夜を、
    晋太郎はずっと欲しかったのかもしれない。

    「いただきます」

    二人で鍋をつつく。

    うまい。
    温かい。

    結衣が言う。
    「ねえ」
    「うん?」
    「最近、実家帰ると母がすごい聞いてくる」
    「何を?」

    結衣は少し笑う。
    「その人とはどうなのって」

    晋太郎は苦笑した。
    「なんて答えたの」
    「大事な人って」

    鍋の湯気の向こうで、
    結衣が少し照れている。

    晋太郎の胸が熱くなる。

    四十代になると、
    “好き”より、
    “大事”の方が重い。

    人生を一緒に背負えるか。
    それを考えるようになる。

    食後。
    二人で片付ける。

    その動きが、
    妙に自然だった。

    どっちが洗うとか、
    揉めない。

    黙って役割が決まる。

    そういう相性って、
    あるのだと思う。

    片付けが終わる。
    ソファへ座る。
    結衣は少し眠そうだった。

    「疲れた?」
    「うん」

    結衣は晋太郎の肩にもたれる。

    静かな時間。
    テレビの光。
    遠くで救急車の音。
    東京は今日も眠っていない。

    結衣がぽつりと言った。
    「ねえ晋太郎さん」
    「はい?」
    「老後って怖い?」

    晋太郎は少し考えた。
    「怖いよ」
    「何が?」
    「孤独かな」

    結衣は黙る。

    晋太郎は続けた。
    「若い頃って、一人でも平気だと思ってた」
    「うん」
    「でも最近、スーパーとか病院とか行くとさ」

    晋太郎は苦笑した。
    「老夫婦見るだけで泣きそうになる」

    結衣が笑う。
    「分かる」

    「支え合って生きてる感じがして」

    結衣は小さく頷いた。

    しばらく沈黙。

    でも、心地よかった。

    結衣が突然言った。
    「私ね」

    「うん」

    「晋太郎さんとなら、ちゃんと歳取れる気がする」

    その言葉は、静かだった。
    でも、何より深かった。
    晋太郎は、すぐ返事ができなかった。
    胸がいっぱいだった。

    若い頃みたいな、
    燃える恋じゃない。

    でも、これはもっと大きな感情だった。
    この人と、冬を越えたい。
    春を見たい。
    隣にいたい。
    そういう感情。

    晋太郎は、ゆっくり言った。
    「結衣さん」

    「はい?」

    「一緒に住む?」

    結衣が止まる。
    テレビの音だけが流れる。

    数秒。
    いや、もっと長かったかもしれない。

    結衣は少し笑った。
    でも、目が潤んでいた。
    「はい」

    その返事は、静かだった。
    けれど、人生を変えるには十分だった。
    窓の外を見る。
    小さな雪が降り始めていた。
    東京で雪が降ると、街は少しだけ優しく見える。

    結衣が言う。
    「ねえ」

    「うん?」

    「なんか、青春みたいですね」

    晋太郎は笑う。
    「遅すぎる青春だな」
    「でも、今だからいいのかも」

    本当にそうだった。
    若い頃には、分からなかった。
    幸せとは、刺激じゃない。
    安心だ。
    帰る場所だ。
    鍋の湯気だ。
    誰かの「ただいま」だ。

    結衣が、眠そうに晋太郎の肩へ頭を預ける。
    その重みを感じながら、
    晋太郎は思う。

    人生は、案外悪くなかった。
    遠回りしたけれど。
    失敗ばかりだったけれど。
    ようやく今、辿り着けた気がした。

    帰る場所へ。

    次の話
    最終章「ふとした瞬間」

     
     
    猫/ランニングとテニス/小説と競馬/好きな映画「セントエルモスファイアー」「タイタニック」「ショーシャンクの空に」/好きな音楽「U2」「安室奈美恵」「Linkin Park」「ONEOKROCK」/好きな作家「伊坂幸太郎」「ジムモリソン」/立ち飲みを好む

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