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【連載小説】スーパー大学職員と呼ばれたくて 第十三話:生還

    <第十二話の内容>

    <第十三話のあらすじ>
     企画課長の「私」は、大学改革を支えてきた海野と赤井の退職を前に、不安と孤独の中で組織の権力闘争に巻き込まれていく。偏差値論争では学長に指名され、先輩職員・初田との対立を避けられず、「小西が仕掛けた対決」に勝ちながらも心は沈む。そんな折、採用試験で出会った阿久津に一筋の希望を見いだすが、彼は「平田先生に引き留められた」と最終面接を辞退する。私生活では妻ミーロから突然「家を出て行ってほしい」と告げられ、うつ状態に陥り、死を考えるほど追い詰められる。しかし兄の「きみがいなくなると淋しいから」という言葉とギターが、彼をかろうじて生へと引き戻す。崩れゆく職場と家庭の中で、主人公は“生きていていい理由”を探し続ける。

    第十三話:生還

    「私も赤井さんもういなくなる。私たちの代わりとまで言わないまでも、あなたの跡を継ぐ人がいるでしょう。それをあなたが探しなさい」

     海野がそう言った。赤井は二年、海野は定年を一年延長していた。
     海野と赤井がどうしてそうしたのか本当のところはわからなかった。
     しかし、私が二人に残ってほしいと言ったことがあった。私にはこの二人がいなくなった職場を想像できなかった。

    「お二人がいないと職場のパワーバランスが崩れると思います。残ってほしいと思っています」

     私はそう言った。
     どうしてそう思うか、二人には上手く説明できなかった。その頃、この職場には私より職場経験が長い人たちが八人いた。その中には私の出身大学の先輩もいた。私が考える構想は海野と赤井がいたから、この二人のパワーで実現したことを感じていた。この職場は個性の強い職員がいる。その中で私の構想は実現できなくなるだろう。
     現に文化共生学部を設置したときの前企画課長、初田凡児は私より八歳上で、2005年に文化共生学部の名称変更しようとしたとき、学部長の沼上建司といっしょに反対をした。その時、初田凡児は入試課長として学生募集の事務責任者だった。

    「文化共生学部は、代々木ゼミの偏差値では決して低くありません。文化共生学部のレベルが低いという指摘は間違っています」

     部長会で初田はそう発言した。
     それを聞いた沼上建司学部長は、それまで偏差値が日本の教育を壊したので、文化共生学部を偏差値で評価するのは間違っているといっていたが、このときには、

    「偏差値という小さい窓から見ても、文化共生学部の評価は高いということが証明されているのです」

    と言って、その後、受験生が集まらないのは世の中が遅れているからだと、あれこれ五分ほど述べた。

     学長の小西は私に、

    「好木課長は今の意見についてどう思いますか?」

    と尋ねた。

    「企画課が作成した表はベネッセと河合塾の模試結果から合格偏差値を拾ったものです。ただ、この二社だけにしたのは、高校生がそれぞれ40万人程度受験しているからです。それに比べて代々木ゼミの模試はその半分程度です。本学を受験しているサンプル数も少なすぎて信頼性がありません。だから外しました」

     部長会のメンバーはそもそも偏差値って何を表したものなのか?とかどうして模試ごとに偏差値が違うのだとか、いろいろ疑問を言い始めた。

    「好木課長、次回の部長会までに三つの模試の数値が示す意味を解説してもらえませんか」

     小西はそう言った。

    「偏差値の違いですか?」

     私は大学の心理学科で統計学を自主ゼミでも学んだ。三人の自主ゼミだったが、付き合ってくれる教育心理学の若い専任講師がいたのだ。出身大学で唯一恩に感じているのはその専任講師だけだった。20年ぶりに会って、時計をプレゼントしたこともある。

    「三社の偏差値の何がわかればいいですか? 先生方は何がわかっていらっしゃって、何がわからないのでしょうか?」

    と私が尋ねると、

    「そもそも偏差値とは何かということから説明したらどうですか?」

    と当時、教務部長だった松武富雄が言った。後に河浜理事長が茹で蛸みたいに怒って辞めたあと、1年と3ヶ月の予定で理事長になる教授だ。

    「好木課長、君は統計学に明るいようだがほとんどの先生方は偏差値がよくないものだという印象しか持っていない。だけどこの業界では大事な数字のように扱われることもある。だからそもそも偏差値とはどういうことなのかということと、三社がどうやって偏差値を出しているのかを解説してくれませんか」

     小西はそう言った。

    「さあ、教えてくれますかね。そんなこと」

     私は気が進まなかった。そもそも誰に聞けばいいのだろうか? 営業担当者はだいたい偏差値が平均からの距離を表したものだということも知らないケースによく出会う。大学ランキングとしてしか見ていない者が多い。それがどうして毎年動くのかきちんと説明できた営業担当者など私は出会ったことがなかった。

    「まあ、調べてみてください」

     小西はあくまで私に沼上と初田とを部長たちの前で対決させて、白黒決着を付けたいのだと私は感じた。

    「わかりました。できるところまでやってみます」

     ふつうなら模試の受験者数が四倍以上も離れていることで代ゼミの偏差値は信頼性に欠けるという理由で終わりだと思う。でもどうして私が調べなくてはいけなくなったのか? それは初田が入試課長であり、受験偏差値に一番詳しいはずの立場だ。その人間が堂々と沼上の主張を援護している。その構図がこの偏差値論争だけでなく、学部の名称変更の邪魔をしていたのだ。

     実際に業者の模試で営業担当者はきちんと答えられなかった。

    「え~、好木さん、なんでそんなことを聞くんですか? そんなこと考えたこともないですよ。社内で知っている者は本部の二~三人だけだと言われました。電話番号を教えますので直接聞いていただけますか。私が聞いてもたぶんわからないから」

     ベネッセの子会社の営業担当者がそう言った。
     私は企画課長になる前には総務課の仕事を十年ほどやっていたが、その前は学生募集の仕事を十年程度やっていた。初田とはいっしょに五年ほど仕事をしていた。初田は、就職したての私に学生募集のあれこれを教えてくれた先輩職員だったのだ。その先輩とこういう対決をさせられることになろうとは夢には思わなかった。

    「初田課長に説明してもらえばいいじゃないですか。代ゼミなんて模試の受験者どんどん減っていて、高校の先生なんてもう参考にしていませんって」

     営業担当者はそう言った。

    「いや、その初田さんがややこしくしているんだよ。まあ、それはいい。ありがとう」

     三社ともそんな感じだったが、なんとか二週間後の部長会までに私は三社の偏差値のメカニズムを調べてレポートにした。

    「ベネッセの進研模試、河合塾の全統模試、代々木ゼミナールの代ゼミ模試が発表している偏差値による合格可能性判定は、いずれも “模試受験者の得点データ” と “過去の入試結果データ” を統計的に結びつけて算出したものです」

     二週間後の部長会で、レポートの最初に書いた言葉をそのまま読んだ。

    「ただし、三社で計算方法は異なり、受験者層も違うため、同じ大学・学部でも偏差値は一致しません」

    とそのメカニズムを述べた。

    「進研模試の偏差値は“高校生全体の中での位置”に近い。河合塾の全統模試は、受験者層が進学校寄りのため、偏差値は進研模試より高めに出る傾向がある。受験者層が私大文系に強く、偏差値は河合塾よりやや高めに出ることが多い。」

     この当時の進研模試の受験者数は一回あたり約40〜60万人だった。河合塾の全統模試は1回あたり30〜40万人だった。代ゼミ模試はこの頃が全盛期だったが、それでも約20〜30万人だった。代ゼミの受験者数はその後、減り続け、2014年を最後に撤退した。

     部長会で私の報告の後、小西は「どなたか質問はありますか?」と聞いた。

     沼上学部長は、

    「偏差値の小さな窓から見ても文化共生学部の優秀さは証明されています」

    と前回と同じことようなことを言った。
     これにはみんな呆れて物が言えないという表情だった。事実を認められなければ、同じことを何度も繰り返すしかすべがないのがわかった。
     初田凡児はじっと下を向いたまま無言だった。

     小西が仕掛けた対決に勝っても私は暗い気持ちでいた。
     私の提案した改革がうまくいくと、それは海野や赤井の手柄に映るのでこの二人の横暴だと嫌っている職員たちは快く思っていないようだった。たぶん初田もそのひとりなんだろう。
     それはときに私への反発として返ってきた。
     その先輩たちの反発を抑えるには海野と赤井の続投しかないと思い、私は二人に残ってほしいと懇願したのだ。

     そんなとき、職員採用試験でキラリと光る人物がいた。
     地方の国立大学出身で、厚生労働省に就職した後、千葉県の私立大学に転職した阿久津祐介だった。企画で設置認可を担当していた。

    「厚労省を辞めたのは残業が多く、それで体調を崩したからです。今の大学から貴学に転職したいと思うのは、貴学には改革する力に未来があると思ったからです」

     私は二次面接まで担当したが、質問に明確に答える頭脳の明晰さと設置認可申請の確かな知識から、実務ができる人材だと思った。

    「あなたは今、看護学部の設置を担当していると言いましたね。あなたの大学には有名な理事長・学長の平田淳三先生がいらっしゃいますね。先生はあなたがこの大学の採用試験を受けているのを知っているのですか?」

     私がそう質問すると、彼の答えが急に精彩を欠き始めた。

    「えーっと、その・・・」

    と、いったんは黙った。

    「どうしたの?」

    「実は平田先生には話していないのです」

    「そうか。話していないのか? もし採用通知が届いたら話さないとね」と私。

    「え、ええ」

     彼は二次試験も通過した。
     しかし、最終面接の日、彼は現れなかった。
     「今日は行けません」という電話が人事課にあったらしい。

    「どうするの? あなたの代わりはどこかにいるの? 広告代理店でもいいのよ」

    と海野が私に聞いた。
     入試課の仕事からかなり離れていたので、採用年齢の30歳代までの人物を私は誰も知らなかった。

    「もう一度、会ったらどう? あの阿久津祐介とかいう元公務員に」

    と赤井が言った。

    「もう一度ですか?」

     私は弱気がわかる返事をした。でもそれ以外に思いつく候補はいなかった。

     彼に電話して、日曜委に地元まで私が行けば会ってくれることになった。
     前の晩、私はよく眠れなかった。
     というより、この日に限らず、眠れない日々が続いていた。

     その晩、ミーロに話があると言われ、少し話した。

    「家を出て行ってほしいの」

    とミーロは言った。

    「ホントは私が出て行けばいいのだと思うけど、私は今そんな元気もない。生きているだけで精一杯。でもあなたとはいっしょに住みたくないの」

    「それは離婚したいってこと?」

     ミーロは黙っていた。
     でも、私はなんとなくそうなるような気がしていた。もう二か月は一言も話していない。
     眠れないのはそれが大きかった。
     精神科で精神安定剤をもらっていた。それでも眠れない日があった。

    「わかった。出て行く。部屋を探さないといけないし、引っ越しの準備もある。一ヶ月後に出て行く」

     私にとっても会話もないのだったら二人で暮らす意味もないし、一人になった方が眠れるんじゃないかと思ったのだ。

     日曜日に阿久津祐介の地元の喫茶店で待ち合わせた。

     待っている間にスマホを見た。
     この前久しぶりに行った「にしネット」の集会のニュースがあった。
     大きな集会をしたことが書かれていた。
     私はその集会に久しぶりに行ってみたのだ。
     みんなが歓迎してくれた。

    「元気にやってる?」

    「ええ」

    「奥さん、元気」

    「まあ」

     そういう意味のない会話があった。会話ではないのかもしれない。
     集会には人があふれていた。
     審議会は建設を承認したのだが、反対運動はまだ続いていた。
     柳生哲夫が長い報告をしていた。
     柳生と私は『童夢の教育』学習会でちょっと言い合いをしてから会話をしたことはなかった。
     その日も私は柳生の演説の途中で会場を出た。
     もう、ここは私がいる場所ではない。
     そう感じた。

     阿久津祐介が店に来た。

    「あっ、どうも」と阿久津。

    「今日は済みません。お休みのところ」

    と私が言って、休みの日はいつも何をしているの?とか適当に意味のない話をした。
     日曜の朝、千葉市の街は店に差し込む太陽が眩しく、ヨーロッパ調のインテリアが本当にヨーロッパのどこかの街にいるような気がする。

    「どうして最終面接に来なかったんですか?」

    と私は切り出した。

    「いえ、学長の平田淳三先生に貴学を受けていて、最終面接だと言うと、『行かないでくれ』と引き留められたんです」

    「ああ、やっぱりそうか」

    「本学にとっては今回の看護学部は学園の運命がかかっているんです」

    「そうでしょうね。それはわかります。街なかじゃなくて、田園地帯って言うか、田舎の方に作るんだよね」

    「公立病院が全面的に協力するので、実習場所とかは心配ないんですけど」

    「けど、何?」と私。

    「内部留保資産が十分じゃないので、コケると危ないんです」

     私は千葉市のこの街に来る前に阿久津の大学法人の決算書を見てきた。

    「借り入れはするの?」

     ブレンドコーヒーを二つ頼んだあとで私がそう聞いた。

    「ええ、申請に通る上限のギリギリまで借り入れをするって財務部長が言っていました」

    「お互いお金がないのは大変だね」

     コーヒーが来て、ウエイトレスが私たちの席から離れると阿久津が聞いた。

    「白鳥大学の学部学科の構想は好木さんが発案しているんですか?」

    「ああ、だいたいはそうだけどどうして?」

    「救急救命士の養成コースって、どっから考えたんですか?」

    「ああ、あれは、ひどい上司が二人いてね。どちらも女性なんだけど。あの学科に受験生が集まるように、逆立ちして鼻血が出るくらい考えろって言うんだよ。二次面接でいた二人の女性。それで私も必死で考えた。医療職のなかで施設設備が一番安上がりで、教員数が少なくていいのは何かをすべて洗った」

    「ああ、そうなんですか」

    「それで、コストがわからないので二校に見学に行った。それで施設設備を積算した」

    「ええ」

    「極めて合理的でまっとうなやり方」

    「でも、奇想天外に見えました」

    「でも、私の後、企画課長を出来る人がいない」

    「そうなんですか?」

    「だからあなたに来てほしい。だからここまで来た」

    「それは申し訳ないと思っています」

    「会ってくれるから脈がまだあるんだと思った」

    「申し訳ありません。私なしではうちの大学では看護学部が作れないんです」

    「じゃあ、どうして会ってくれたの?」

    「私ももう一度好木さんにお会いしたかったんです」

    「えっ、どうして?」

    「実際にどんな人なのか知りたかったんです。面接の場ではなく外で、どんな人なのか?」

     その喫茶店には鳥かごがあって、緑と黄色の鳥がいた。何という鳥なんだろうと思った。この鳥は鳥かごの中と外では何か違うのだろうか?

    「女子大を共学にして、ここまでやってきたけど、これからが見えない。だからあなたが救世主に見えた。若く賢く、ガッツもある。あなたが白鳥学園を救ってくれると思った」

     そういうと私の頬に涙が伝った。
     すぐに手で拭った。

    「最近、私生活でもいろいろあってね。ちょっと涙もろいんだ」

    と私はハンカチで涙を拭きながら言った。
     それから五分間くらい私が阿久津の大学の学長、平田淳三の話を聞いた。阿久津はこう言った。

    「平田先生は財務のことはわかりません。教育についても最近はコメンテーターになりたなんておっしゃっています」

    「コメンテーター? それ何?」

    「平田先生はあんまり責任ある立場に身を置きたくないみたいです」

    「えっ、そんな平田先生をあなたが支える必要があるの?」

    「私が無職のときに拾っていただいたのが平田先生です。恩があります」

     恩。恩なんて言葉を聞いたのはいつ以来だろうか?
     阿久津は私にはまだ魅力的だったが、白鳥大学の救世主ではないことは理解した。うちには来ない。
     阿久津と別れて、電車で家に帰るとき、どうして涙が出たのだろうかと思った。阿久津の前では泣きたくなかった。でも涙が出た。情緒不安定になっている。うつ病のせいだろう。 

     それから一ヶ月後、私はマンションの近くの「ハイツ」と名の付いたワンルームのアパートみたいな物件に移った。タクシーで家に帰るときにはミーロのいるマンションで降りて歩いて行けるところにした。同僚とタクシーに乗り合わせると、前と違う場所で降りると変に思われるからだ。実際にそんな場面もあった。
     引っ越しの荷物を一人で詰めて引っ越し業者が運んだ。本が多いので段ボールに入れるのには時間がかかった。引っ越してから本の段ボールはまったく開けなかった。

     引っ越してからミーロに電話をかけてみた。
     「はい」というミーロの声が聞こえた。そしてすぐに切れた。もう一度掛けると今度は出なかった。翌日かけると着信拒否の音声が流れた。
     着信拒否?
     誰かからそんなことをされたのは初めてだった。初めての着信拒否がミーロだなんて、私の住む世界がだんだん形を変えていっているのがわかった。

     翌週には弁護士事務所から通知があった。

    「好木呂美氏に電話等での連絡をしないこと、周囲五十メートル以内に近づかないこと。もしそれを貴殿が遵守しなかった場合には法的措置を執ります」

    と書かれていた。
     法的措置か。
     呂美の周りには法律のバリアーが張られているのだ。
     球形の透明なバリアーに守られているアニメの主人公を思い浮かべた。
     もう私はあのバリアーのなかには入れないのだ。
     だんだん気分が沈んでいた。
     でも、自分がうつ病であることを認めたくなかった。だから医師から勧められても抗うつ剤を服用しなかった。仕事も休まなかった。精神安定剤には抵抗がないのにどうして抗うつ剤を飲まなかったのかといえば、それはうつ病に対する偏見があったからに他ならない。うつ病になったら薬を常用しないといけないとか、もう普通の生活はできないとか、仕事を休んだら二度度その職場にもどれないとか。メンタル不全で誰かが休むたびにそういう話が職場でも交わされていた。私もそれを信じ込んでいた。
     医者にかかるのも躊躇していた私が通院するようになったのは、心理学科の教員から近所に名医がいるという話を聞いたからだ。
     アパートから地下鉄で四駅のところにその精神科の医院はあった。予約は医院の前にあるリスト表に書く仕組みだったので早く起きていったんそこに書き込まないといけなかった。
     診察室に入るとそこは南側に窓があり、ベランダに出られた。それはカウンセラーにとって危険な患者から避難できるようにドアを付けているのだろうと思った。心理臨床センターという施設を作ったときにそういう話を聞いたからだ。
     ただ、その医院の南側のベランダは開放的で、とても避難用には見えなかった。机と椅子があるだけの普通の精神科の診察室だった。
     最初は二週間に一回睡眠導入剤をもらいに行ったときに診察を受けただけだったのだが、そのうちうつ状態がひどくなり、毎晩ほとんど睡眠できなくなってきた。
     うつになった人ならわかると思うが、新聞の字も読めなくなる。自分の健康状態がわからなくなる。本好きの私にとって文字が読めないことは、さらにストレスを募らせた。自分の健康状態を確かめるために車に乗ったときに、ラジオを聞きながら運転できるか、音楽ならどうかなど二つ一緒にできることの限界を確かめたりした。
     そのうち判断力が鈍くなってきて、死にたいという独り言が癖になった。
     その医者は森村伸太と言った。森村は夜、診察時間が終わってからでも会ってくれた。

    「死にたいんです。このままでは仕事もできないし、一生このままだと思うと頭が回りません」

     ある夜、私は森村にそう言った。森村は、

    「あなたは信じるものが何かありませんか? 神様でもいいし、お父さんとか肉親のかたでもいいです」

    と私に尋ねた。

    「母親は私が27歳の時に亡くなりました。父親も五年前に亡くなりました」

    「お父さんの写真は持っていませんか。こんなふうに」

    と森村は言うと、机の引き出しからモノクロの古い写真を取り出して、私に見せた。
     森村の父親らしき人物が一人で写っていた。少し笑っているようにも見えたが、ほとんど無表情だった。

    「仕事を休んだらどうかな?」

     森村がそう言った。

    「いいえ、それは出来ません。通信教育の入学者は定員の半分にもならなかったのです。そんなときに休むわけにいきません」

    「あなたはこれまでよく働いた。こんなときは部下に甘えればいいんだよ」

    「甘える?」

    「そう、甘える。部下に仕事をやってもらうんだ。あなたは楽にしていればいい」

     実際に私は睡眠導入剤と精神安定剤を多くのみ、それまでも昼間はぼうっとしていた。ほとんど役に立っていなかったと思う。
     ただ、仕事には毎日出かけた。
     まるで自分で自分を人体実験しているようだった。
     どこまで我慢できるか?
     それを試しているみたいだったのだ。

     その日は帰ったが、数日後の夜、また、不安でいっぱいになり、森村に会ってほしいと電話した。
     森村は「すぐ来なさい」と言った。
    森村の医院に着くと、診察時間は一時間ほど過ぎていて、患者は誰もいなかった。

     診察室に入った。
     森村の前に座った。
     森村は私の顔を見た。表情で診断しているみたいだった。そして、引き出しから、ピンポン球より少し大きいくらいの水晶玉を取り出した。

    「今度ここに来るまでこれを預かっておいてください」

    と言って私に渡した。
     水晶玉はずしりと重かった。
     しばらく私はその水晶玉を眺めていた。
     私とこの部屋の一切が球形に歪んで映っていた。

    「いや、いいです」

    と私はそれを森村に返した。
     森村はこれを渡せば、戻ってくるまで私は死なないと思ったのかもしれない。
     名医と呼ばれるのはこういうことをするからなのだろう。

    「どうして? どうして受け取ってくれないんですか?」

    「先生、私は死にません」

     私はそう言った。

    「そう?」

    「ええ」

    「じゃあ、いい」

     私は森村に礼を言い、その医院を出た。

     部屋に帰って、シャワーを浴びた。狭いユニットバスの浴槽のなかだった。
     シャワーを思い切り出していた。
     水の騒音のなかで、

    「ミーロー」

    と大声で叫んだ。
     ミーロの顔が浮かんだ。
     もう会えない。
     シャワーのなかで涙か鼻汁かわからないものが流れていた。
     死に場所は見つけていた。
     七階建ての公団だった。その建物の最上階の外に面した廊下だった。
     そこから飛び降りれば死ねる。
     一度そこに上がって下を見た。
     気を失いそうだった。
     明日の夜、そこへ行こう。

     その公団まで地下鉄で一駅だった。
     次の夜、地下鉄のホームで私は次の電車に乗ろうとしていた。
     午後十一時を過ぎていた。
     一つ乗り過ごした。
     乗れなかった。
     今度こそ、次の電車に乗る。
     そう思って歩こうとしたら足から根が生えたようにびくともしなかった。
     頭では足に歩くように命令を出している。
     でも、もうひとりの一人の私が、行っちゃダメと言っているような気がした。
     そのうちその声だけになった。私は樹になっていた。地下鉄のホームに生えた樹になっていた。一歩も動けなかった。
     私は思った。
     結局、私は、ただ生きていたいのだ。

    *****

     正月を一人で迎えた。
     初めての一人だけの正月だった。
     兄に電話した。
     
    「それで陣ちゃんは、なんで別居することになったの?」

     義理の姉の好木俊子が電気こたつの前で私に聞いた。
     俊子は兄の好木翔太と国立大学で出会い結婚した。
     翔太は技術系の職員、俊子は附属病院の看護師。どちらも教職員組合の執行委員だったことがある。お互い40歳を過ぎて独身だった。
     義姉は私のことを、陣ちゃんと呼ぶ。

    「それがよくわからないんです。たぶん童夢サイエンス教の学校建設反対の運動に私がのめりすぎたので、嫌気がさしたんじゃないですか」

    「でも、もう止めて引っ越したんでしょ」と俊子が聞いた。

    「ええ、でももう呂美の心は離れていたんでしょ。あるとき妻が『私はやっとあなたから脱会した』と言ったことがあります」

    「脱会?」と俊子。

    「『私はそれまであなたのことを賢いと尊敬していた。でもそれは幻想だってわかった。だから脱会した』と」

    「う~ん、よくわかんないわね。今回の運動も陣ちゃんは地域の人のためにやったのよね」

    「ええ、でも…」

     義姉の俊子に言われてしばらく考えた。

    「でも?」

    「でも、自己満足のためかもしれません。私は人からよく見られたいって自己承認欲求が強いのでしょう。建築関係や学校設置関係の法律もわかるし、マスコミ対策もわかる。いろいろ出来ちゃうのでそこでは英雄視される。それで自分がヒーローになったつもりで、それが気持ち良かったんです。ミーロのことを一番に考えなかった。それをミーロは感じ取ったんでしょう。ミーロは頭のいい女性だから」

    「でも、あんなに仲がいい夫婦だったのにね」

     俊子はそう言った。いやむしろ仲がいいのは兄夫婦だと思う。両方の夫婦とも子どもがいなかった。義姉は兄のことを「ダーリン」と呼ぶ。半年に一度、両夫婦での食事会は欠かさなかった。夫婦揃わなくなったのは、今年の正月が初めてだった。

    「犬を飼わなくなったのがいけなかったんじゃない?」

     それまで黙っていた兄が言った。

    「そうかもね」と私。

    「呂美さんは犬のことが好きでアメリカまで訓練士の合宿に行ったんだよね」と兄。

    「ああ、そう。一人で二週間行ってた。

    「その間、ワンちゃんはどうしてたの?」と俊子。

    「私が朝、ごはんをあげてから出かけて、昼は近所の呂身の犬仲間の奥さんがごはんをあげてくれたんです。それで私は仕事が終わると残業せずに帰って散歩して、ごはんを上げる。そんな感じでした」

    「奥さんに尽くしたんだ」と兄。

    「いや、レモンとモモは私にとっても子どもみたいなもんだったから、当然だと思っていた」

    「呂美ちゃんが悪いわね。陣ちゃんの気持ちもわからずに」と俊子。

     この夫婦の近くにいると自分は一人ではないと思う。
     でも。
     でも、呂美はひとりだ。実家とは長らく付き合いがなかった。お金持ちの家族は家族なりにいろいろある。
     呂美は一人でどうしているんだろうか。呂美と無性に話がしたかった。

     部屋に帰って、呂美に電話をした。
     着信拒否だった。
     着信拒否はもう一年以上になる。
     やっぱりだめか。
     私はまだストーカー扱いなのだ。
     弁護士事務所の「警告文」は私が呂美につきまとうと、警察に通報するとか、民事的に訴えるとかそういうことなんだろう。
     ミーロと私はもうすでに法的に対立する関係になっているのだ。
     ミーロと急ぎの話があるときは弁護士を通じてすることとも「警告文」には書かれていた。
     一年と二ヶ月過ぎたとき、相手の弁護士に会おうと思った。
     もう昔みたいに戻るのは無理かもしれない。
     私もそう思い始めていた。

    ****

    「それで用件は?」と弁護士は言った。

     弁護士事務所は裁判所の近くにあった。雑居ビルだった。一階には小料理屋があった。

    「妻の呂美は離婚したいのですか」

    「というと?」

    「私は今でも呂美のことを愛しています。できれば別れたくない。でも対話はおろか、電話もできないし、メールも禁止されています」

    「はい。奥様の意志ですから」

    「だから、離婚する協議も必要かと」

    「ああ、そうですね。そう考えますよね」

    「でも、別れても、やっぱり呂美のことは忘れることはできないと思っています。困ったときには助けになりたい。たぶん私が再婚したとしてもその気持ちは変わらない。一生面倒をみたいと思うでしょう」

     弁護士はそれを聞くと黙った。しばらく沈黙が続いた。

    「一年以上別居が続くと離婚する確率は八割以上だという統計があります。好木さんの場合も例外ではないかもしれません。でも不思議なんです」

     弁護士が言う不思議という言葉が不思議だった。

    「不思議というと?」

    「ええ、不思議なのは好木様も奥様もお互いを尊敬されています。奥様は『夫のことを尊敬しています』とおっしゃいます」

    「えっ? 妻がそう言うんですか?」

    「ええ、そう言われます。でもいっしょにいるのが嫌だと」

     私は「尊敬している」という言葉を聞いて少し嬉しかった。でもそれだけで愛していると言われたわけではないことに気づいた。

    「離婚となると慰謝料の問題や財産分与の問題があります」

    「ええ」

    「浮気をしたとかの不貞はないということですので、慰謝料の協議は必要ないと思います。でも財産分与の問題はあります」

    「ああ、そうですね」

    「郊外にある自宅はまだ売れていないとか」

    「そうです。買い手が見つからなくて。ああいう宗教の学校ができると地価が下がりましたが、気味が悪いのか買い手はいない」

    「それをどうするかも問題ですね」
     
     郊外の家は、最初反対運動をしているある人に借りてもらった。子どもが独立して家が広すぎるので、私の家を貸してほしいと言っていた。その人に一年ほど貸していた。やがてその人も引っ越して、その後は空き家になっていた。

     翌週、その家の賃貸契約をしてくれた不動産屋に頼んで、離婚協議ができる弁護士を紹介してもらった。
     その弁護士に、呂美の女性弁護士とほぼ同じことを言われた。

    「そうですね。どうしようもないんですね」と私。

    「別居したまま、籍だけそのままにされるケースもあります。お子さんがいらっしゃる場合なんかに多いですが。それぞれ法的には配偶者ではないパートナーと暮らされることがあります。でも好木さんの場合、お子さんがいらっしゃるわけでもない」

     不動産屋が紹介してくれた弁護士はそう言うと自分の言う案もけっして勧められる案ではないと思ったようだ。

     呂美側の弁護士とこちら側の弁護士、二人の弁護士に会った。解決への進展は何もなかった。でも、呂美の女性弁護士には会ってみてよかったと思った。やさしそうだし、呂美にも相談する相手がいる。呂美は孤独ではないのだ。それだけでも安心した。
     結局今すぐに動くこともできず、家が売れるのを待ってからということになった。

    ******

     兄に勧められ、いっしょに両親の墓参りに行くことにした。
     精神科医に「信じる人はいるか?」と問われ、「両親は亡くなって、信じる人でもない」と言ったことがあった。その二人が故郷の墓に眠っていた。
     兄と墓の掃除をした。兄が線香に火を付け、消した。
     煙が風に煽られていた。
     二人で手を合わせた。
     兄が真言宗のお経の一部分を覚えていた。兄は両親のどちらが亡くなったときも喪主だった。何度もお経を唱えているうちに覚えた方がいいと思って、お経のCDを買って覚えたらしい。努力家の兄らしい。
     
     帰りは兄の車で八王子まで送ってもらった。

    「また、ギターでも弾いたらどう?」

     兄は車の中でアイドルグループの音楽を掛けながらそう言った。兄は大学時代に軽音楽部に入り、卒業後もずっとバンドでベースをやっている。兄は私より二つ歳上だが、工業高校を出た後、電気店に就職し、そのあと公務員試験を受けて国立大学に就職した。働きながら夜間の大学に通った。それはたまたま私と同じ大学だった。いや、たまたまではないのかもしれない。でも兄は私にそのことを相談もしなかった。
     同じ大学でも昼間部と夜間部との違い、文学部と工学部の違いはあったが、ふたりは同級生だったのだ。夜間の大学は昼間部と違って、偏差値ランキングで序列化されない。それに学んでいる内容は同じでも昼間部より低く見られることがある。でも、私は兄と同級生になれたことが嬉しかった。私は夜間部で学ぶ兄を、努力家である兄を心から尊敬している。

    「でも、もうギターを手放して久しい。指の先も柔らかくなってコードも弾けない。それにFのコードを弾けるほど人差し指でフラットを押さえる力がない」

     私はそう言った。
     中学から高校にかけて兄と私はよく一緒にギターを弾いた。私はギターを弾くことより自分で詩を書き、メロディを付ける方が好きだった。オリジナル曲が十曲くらいあった。どこかで披露することもなかったが、いつか武道館でライブができると思っていた。
     あるとき、私が曲を作っていることが教室で話題になって、女子生徒から、

    「好木くん、教室でギターを弾いて聴かせてよ、好木くんが作った歌」

    と言われた。何人かの女子生徒が「ああ、聴きたい、聴きたい」と笑顔で言っていた。
     でも私は「いや、聴かせるほどの曲ではないから」と体よく断った。
     しかし、実際には、「お前たちにオレの歌がわかるか!」と心の中で思っていた。「この曲は武道館で演奏されるために作ったんだ!」と。私はそんな男子高校生だったのだ。

    「使わないギターを持ってきたんで、陣ちゃんに預けるよ」と兄。

    「いや、いい。遠慮しとく。どうせ弾かないから」と私。

    「まあ、家に置いてくれるだけでもいい。陣がこの世からいなくなると・・」

    「ん?」

     兄が言葉に詰まったのはなぜかと思った。

    「きみがいなくなると、淋しいから」

     兄はそう言った。
     その言葉はそのときはなんとも思わなかった。
     兄はその後、地下の市営駐車場に車を止めて

    「ギターを弾いてみて」

    とまた言って、アコスティックギターのケースを開けた。
     ヤマハのギターだった。

    「合板だけど赤ラベル。実はビンテージものなんだ」

    と言った。

    「なんか弾いたら?」と兄。

    「えっ、何も覚えていない。でもディープパープルならわかるかな」

    と私は言って、ディープパープルの有名な「スモーク・オン・ザ・ウォーター」を弾こうと思った。
     弦をポロンポロンと鳴らしたが、次の音がわからなかった。

    「じゃあ、貸して」

    と兄が言って、スモーク・オン・ザ・ウォーターを弾いた。
     途中でベースを親指で弾く奏法に変えたりした。ベースを長く弾いているのがそれだけでわかった。

    「へえ~、さすがに上手いね」と私。

     兄と別れ、そこからバスで部屋まで帰った。
     手にはギターケース。頭のなかにはスモーク・オン・ザウォーターがずっと繰り返し流れていた。
     精神科医が渡した水晶玉は、受け取らずにその場で返した。
     でも、兄のギターは預かった。
     それはなぜだろう?
     兄は「きみがいなくなると淋しいから」と言った。
     だからだ、とバスのなかで気づいた。また兄と一緒に私のオリジナル曲を演奏したい。そう思った。
     私は孤独ではない。私がいなくなると淋しいと言ってくれる人がこの世にいる。
     生きている価値。
     それは誰か、いや飼っている愛犬でもいい。私がいなくなると淋しいと思ってくれる存在。それがこの世にいること。それだけで生きていることに意味があるように思えた。ただ生きているだけでいい。それは地下鉄のホームで樹になったときに思った。でも、誰かに淋しいと感じてもらえること。それがただ生きていることに意味を与えてくれるのだと思った。

    #創作大賞2026 #お仕事小説部門

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    学校法人の職員です。 知を愛することが好きです。 読書が趣味ってことです。 「書肆じんたろ」って読書記録ブログがあります。 ぜひ、読んでね。 http://jintaro4649.livedoor.blog/ 読書を広めるためなら何でも喜んで引き受けます。 ハードワーク以外ね。

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