
#20「出雲神話のかたち」 大国主命視点から見た出雲神話④ ー神在祭とは何だったのか その2〈十九拠点の同盟者たち〉ー
さて、大国主命たちの遠距離交易船団とはいったいどういう編成だったのか。神庭荒神谷遺跡の銅剣数から弥生時代、358氏族が出雲にいたという仮説を立てた。
まさか358氏族がすべて一緒に交易に出かけたとは考えにくい。西回り航路、東回り航路、そして出雲を守る氏族たちと少なくとも3編成に分けたと考えるべきであろう。そうすると1編成約120氏族の遠距離交易船団ができることになる。1氏族に2艘の交易船があるとして、1艘に左右合わせて6人から10人が乗り合わせるとする。それだけで1氏族12~20人になる。120氏族集まれば240艘の船団が編成され、1440人~2400人の移動ということになる。これでは多すぎるというのであれば、1氏族に1艘の交易船で考えることもできる。すると720人~1200人の移動ということになる。これでも相当な人数である。いきなり交易にこられても、来られる側としては大迷惑であったであろう。
遠距離交易は当然ながら、相手が必要である。船の安全な船着き場、食事、寝床も相手が用意しないといけない。そのため、初めのうちはいついつに何艘、何人で交易に来るという事前の打ち合わせが交渉の時にあったはずである。さらには相手側も交易に見合った物産、特産品を事前に準備する必要がある。その他もろもろのことをしっかり打ち合わせしておかないと大変なことになってしまうのは自明であった。よって神在祭のように1年の交易の終わりに一度出雲に集まって、情報を交換する必要があったと考える。ではその交易相手はどのような集団であったであろう。
日本海沿岸地域は潟湖が多いことで有名である。そしてその周辺にその地域最大の弥生環濠集落とか、最大の前方後円墳或いは円墳、奈良時代寺院址や一宮が集中していることがしばしば見られる。このような潟湖は中世か近世に海への出口を失い湖(池)になる場合も多く、今では形の残らない場所も少なくない。
潟湖は、海岸線にほぼ平行して延びる細長い砂洲の背後に横たわる浅い水域のことである。これらは扇状地,氾濫原,三角州などより一回り小さい地形単位で、自然堤防、後背低地、旧河道などと呼ばれる地形型と同じにランクされる。潟湖は、海水と淡水の混じる場所であり、付近に開けた土地が広がっている。そのため、四季を通じて海の幸、山の幸が豊富であり、人が集まるのに最適な環境が整っていたといえる。
潟湖をつつむ海岸砂洲は、最終氷期末(約2万年前)以降の海面上昇が緩やかとなり遠浅の海が広がった、およそ6000~5000年前頃にスタートした。このころ、砕ける波の背丈くらいの深さのところに砂の高まりができ、やがて水面上に顔を出して砂洲となった。そして元の陸地と新しい砂洲との間に、かなり奥行のある入り江や湾ができた。規模の大きい例として福井平野、酒田平野(山形県)、紀ノ川平野(和歌山県)、大阪(河内)平野などが挙げられる。両側を山地に囲まれた地溝状の低地が、砂洲によって塞がれた例としては出雲平野、邑知潟平野(石川県)、佐渡島の国中平野などがある。規模の小さい潟湖は砂質海岸の何処にでも発達した。
6000年前には海水面のレベルがあまり動かず、むしろ若干低下するいっぽう、上流から運び出されてきた土砂が河口付近に堆積して、水域は少しずつ浅くそして狭くなっていき、入り江や湾が潟湖に変化し始めた。そして1500~2000年前に、最も潟湖が増えた。特に日本海沿岸に多く見られる。つまり弥生時代から古墳時代にかけては、いわば潟湖の壮年期に当たるといえる。
そのような潟湖に集まる遠距離交易集団を交易相手に選んだか、または出雲から直接それぞれの潟湖に移り住み交易集団の中心となったかのどちらかであったであろう。それではその各地に広がった遠距離交易集団の拠点はどれくらいあったであろうか。そのことを考える時に神在祭の伝統がここで活きて来る。
十九社とは何だったのか?
神在祭の時期、出雲大社に八百万の神が宿所として使われるのが十九社である。みなさんは八百万の神が一堂に会するのに十九社では少なすぎるのではないかと思わないだろうか。
そして神在祭が終わり、八百万の神がお立ちになるときに最後に寄られる万九千神社も19000と19の数が出て来る。
なぜ、十九という数字が使われているのか、今となっては誰も説明できなくなっているようである。そこでこう考える。
これはひょっとして弥生時代に遠距離交易の同盟を結んだ十九の潟湖の拠点を表しているのではなかろうか。
そう考えると十九社が今に残っていることや、万九千神社(出雲と同じように十九拠点でも多くの神々がいたであろう)の名前の由来も納得できる。それではその十九拠点とはどこであったのか。それは古事記や風土記での大国主命の軌跡から想像できる。
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筑 紫: この大国主の神、宗像の奥津宮にます神、多紀理比売命と結婚して生んだ子は阿遅須伎高日子根神、次に高比売命、またの名は下光比売命であります。この阿遅須伎高日子根神は今加茂の大御神と申す神様であります。(古事記-大国主命・系譜-)
伊予、豊後: 伊予の国風土記にいう、-湯の郡。大穴持命は、見て後悔し恥じて、宿奈比古奈命を活かしたいと思い、大分の速見の湯を下樋(地下樋)によって(海底を渡して)持ってきて宿奈比古奈命に浴びさせたので、しばらくして生き返って起き上がられて、いとものんびりと長大息して「ほんのちょっと寝たわい」といって四股を踏んだが、その踏んだところは、今直温泉の中の石に残っている。(伊予国風土記逸文-温泉-)
伯 耆: 兎の言った通り、八上比売は大勢の神に答えて「わたくしはあなた達の言うことは聞きません。大国主命と結婚しようと思います」と言いました。そこで大勢の神が怒って、大国主命を殺そうと相談して伯耆の国の手間の山本に行って「この山には赤い猪がいる。わたしたちが追い下すからお前が待ち受けて捕らえろ。もしそうしないと、きっとお前を殺してしまう」と言って、猪に似ている大きな石を火で焼いて転がし落としました。そこで追い下して取ろうとするときに、その石に焼きつかれて死んでしまいました。そこで母神が泣き悲しんで、天に上って行って神産巣日命のもとに参ったので、さき貝比売と蛤貝比売とをやって行きかえらしめなさいました。それでさき貝比売が掻きけずり集め、蛤貝比売がこれを受けて母の乳汁として塗りましたから、立派な男になって出歩くようになりました。(古事記-さき貝比売と蛤貝比売-)
因 幡: 大国主命の兄弟はたくさんおいでになりました。しかし国は皆大国主命にお譲り申しました。お譲り申し上げたわけは、その大勢の神が皆因幡の八上比売と結婚しようという心があって、一緒に因幡に行きました。時に、大国主命に袋を負わせ従者として連れて行きました。そして気多の埼に行きましたときに裸になった兎が伏しておりました。大勢の神がその兎に「お前はこの海水を浴びて風の吹くのにあたって高山の尾上に寝ているとよい」と言いました。それでこの兎が大勢の神の教えたとおりにして寝ておりました。ところがその海水の乾くままに身の皮がことごとく風に吹き裂かれたから痛んで泣き伏しておりますと、最後に来た大国主命がその兎を見て「何だって泣き伏しているのですか」とお尋ねになったので、兎は「わたしは隠岐の島にいてこの国に渉りたいと思っていましたけど渉るすべがございませんでしたから、海の鰐を欺いて、私とあなたたちとどちらが一族が多いか比べてみましょう。あなたは一族をことごとく連れて来てこの島から気多の埼まで皆並んで伏していらっしゃい。私はその上を走りながら勘定しましょう。そうしたならば私の一族とどちらが多いかということがわかるでしょうと言いましたから、欺かれて並んで伏しているときに「お前はすっかり私に騙された」と言うわ言わないときに、一番端に伏していた鰐が私を捕まえてすっかり着物を剥いでしまいました。それで困って泣いて悲しんでおりましたところ、先においでになった大勢の神様が「海水を浴びて風にあったって寝ておれ」とお教えになりましたからその教えのとおりにしましたところすっかり身体をこわしました」と申しました。そこで大国主命は、その兎に「急いであの河口に行って、水で身体を洗ってその河口の蒲の花粉を取って、敷き散らしてその上にころがり廻ったなら、お前の身は元の肌のようにきっと治るだろう」とお教えになりました。よって教えたとおりにしましたから、その身はもとのとおりになりました。これが因幡の白兎というものです。今でも兎神といっております。そこで兎が大国主命に「あの大勢の神はきっと八上比売を得られないでしょう。袋を背負っておられても、きっとあなたが得るでしょう」と申しました。(古事記-兎と鰐-)
但 馬: 御方と呼ぶわけは、大国主命は天日槍命と黒土の志爾嵩にお行きになりそれぞれ黒葛(葛草)を三条足に着けて投げ合いなされた。その時大国主命の黒葛は、一条は但馬の気多郡に落ち、一条は夜夫の郡に落ち、一条はこの村に落ちた。故に、三条と言う。天日槍命の黒葛はみな但馬国に落ちた、故に、但馬の伊都志(出石)の地を占めておいでになる。(播磨国風土記-穴禾郡・御方里-)
播 磨:
昔、大国主命の子・火明命は、強情で行状も非常に猛々しかった。そのため父神はこれを思い悩んで、棄てて逃れようとした。すなわち因達の神山まで来て、その子を水汲みにやって、まだ帰ってこないうちに、すぐさま船を出して逃げ去った。さて火明命は、水を汲んで帰ってきて、船が出て去ってゆくのを見て大いに怨み怒った。それで風波を巻き起こしてその船に追い迫った。父神は前に進むことができないので、ついに打ち壊された。(播磨国風土記-しかま郡・伊和里-)
大汝命が俵を積んで橋(梯子)をお立てになった。山の石が橋(梯子)に似ている。だから御橋山とよぶ。(播磨国風土記-揖保郡・越部里・御橋山-)
大汝命と少日子根命と二柱の神が神前の郡のはに丘里の生野の峰にいて、この山を望み見て「あの山には稲種を置くことにしよう」と仰せられ、ただちに稲種をやってこの山に積んだ。山の形もまた稲種の形に似ている。だから名づけて稲種山という。(播磨国風土記-揖保郡・林田里・稲種山-)
粒丘と呼ぶわけは、天日槍命が韓国から渡って来て宇頭川下流の川口に着いて、宿所を大国主命にお乞いになって「汝はこの国の主たる方である。私の泊まるところを与えてほしい」と申された。そこで大国主命は海上にいることを許した。その時天日槍命は剣をもって海水をかき回してこれに宿った。すなわち大国主命は天日槍命の猛々しく盛んな行為に恐れかしこんで、天日槍命よりも先に国を占めようと思い、巡り上がって粒丘まで来て急いで食事した。すると口から飯粒が落ちた。故に、粒の丘と呼ぶ。その丘の小石は皆よく粒に似ている。また杖を持って地面に刺した。するとその杖のところから冷たい泉が湧き出てついに南と北とに流れ通った。北のは冷たく、南のは温かい。(播磨国風土記-揖保郡・揖保里・粒丘-)
葦原志許乎命が国を占められたとき、詔をして「この地は小さく狭くまるで室戸(穴倉の入口)のようだ」と仰せられた。故に表戸という。(播磨国風土記-穴禾郡・比治里・宇波良の村-)
葦原志許乎命と天日槍命と2人の神がこの谷を奪い合った。故に奪谷という。それを奪い合ったことによって、その形は曲がりくねった藤蔓のようになっている。(播磨国風土記-穴禾郡・比治里・奪谷-)
葦原志許乎命が天日槍命と(競争で)国を占められたとき、嘶く馬があって、この川で出逢った。故に、伊奈加川という。(播磨国風土記-穴禾郡・柏野里・伊奈加川-)
御方と呼ぶわけは、大国主命は天日槍命と黒土の志爾嵩にお行きになりそれぞれ黒葛(葛草)を三条足に着けて投げ合いなされた。その時大国主命の黒葛は、一条は但馬の気多郡に落ち、一条は夜夫の郡に落ち、一条はこの村に落ちた。故に、三条と言う。天日槍命の黒葛はみな但馬国に落ちた、故に、但馬の伊都志(出石)の地を占めておいでになる。(播磨国風土記-穴禾郡・御方里-)
はに丘と呼ぶわけは、昔、大汝命と少日子根命とが互いにいい争って「はに(粘土)を担いで遠くまで行くのと糞をしないで遠くまで行くのと、この2つのうちどちらがやり通せるだろうか」といった。そこで大汝命は「私は糞をしないで行こう」といい、少日子根命は「私ははにの荷を持っていこう」といった。そしてこんなふうにお互い争って行ったが、数日過ぎて、大汝命は「わたしはもう我慢することができない」といって、その場にしゃがみこんで糞をした。そのとき少日子根命は笑って言うには「御同様、私も苦しい」と言ってこれまたそのはにをこの岡に放り投げた。故に、はに岡と呼ぶ。また、糞を垂れたとき、小竹がその糞を弾き上げて衣服にくっついた。故に、波自賀の村と呼ぶ。(播磨国風土記-神前郡・はに丘里-)
大汝命の御飯をこの嵩(山)で盛った。故に、飯盛嵩という。(播磨国風土記-賀毛郡・楢原里・飯盛嵩-)
大汝命が稲を下鴨の村でつかせると、粳が散ってこの岡に飛んできた。故に、粳岡という。(播磨国風土記-賀毛郡・楢原里・粳岡-)
大 和:
八千矛神のお妃須勢理比売命はたいへん嫉妬深い方でございました。それを夫の君は心憂く思って、出雲から大和の国にお上りになろうとして、お支度遊ばされましたときに、片手は馬の鞍に懸け、片足はその鐙に踏み入れて、御歌い遊ばされた歌は・・・・・(古事記-八千矛神の歌物語-)
大国主命が心憂く思って「わたしは少日子根命亡き今、一人でどのようにして国を造れようか。どの神様と一緒に私はこの国を造りましょうか」と仰せられました。このときに海上を照らして寄ってくる神様があります。その神が「私に対してよくお祭をしたら、私が一緒になって国を造りましょう。そうしなければ国はできにくいでしょう」と仰せられました。そこで大国主命が申されたことには「それならどのようにしてお祭いたしましょう」と申されましたら「私を大和の国の青々と取り囲んでいる東の山上にお祭なさい」と仰せられました。これが御諸の山においでになる神様・大物主命です。(古事記-御諸の山の神-)
紀 伊: 大勢の神が欺いて大国主命を山に連れて行って、大きな樹を切り伏せて楔を打っておいて、そのなかに大国主命をはいらせて、楔を打ち放って打ち殺してしまいました。そこでまた母神が泣きながら捜したので、見つけてその木を裂いて取り出して生かして、その子に「お前がここにいるとしまいには大勢の神に殺されるだろう」と仰せられて、紀伊の国の大屋比古神のもとに逃がしてやりました。(古事記-根の堅州国-)
伊 豆: 北畠親房が書いたものの中に、伊豆国風土記を引用して言う、温泉の由来を考察すると、大昔、天孫がまだ天下りなさらないとき、大己貴と少彦名とが、わが秋津島の人民が若死にするのを哀れに思って、始めて禁薬(医療)と温泉の法を定めた。伊津の神の湯もまたその中の一つで、箱根の元湯がそうである。(伊豆国風土記逸文-温泉-)
越:
八千矛神(大国主命)が、越の国の沼河比売と結婚しようとしておいでになりました時に、その沼河比売の家に行ってお詠みになりました歌は・・・・・(古事記-八千矛神の歌物語-)
天の下をお造りになった大神大穴持命が、越の八口を平定なさって、お帰りになるときに、長江山においでになって「わたしが造って治めている国は、天つ神の御子孫である天皇が、平安に世をお治めになるよう、お任せする。ただ、八雲立つ出雲の国はわたしが鎮座する国として、青々とした山を垣としてめぐりなさり、玉をお置きになって、お守りする」とおっしゃった。ゆえに文理という。726年、字を母理と改めた。(出雲国風土記-意宇郡・母理郷-)
天の下をお造りになった大神大穴持命が、越の八口を平定しようとしてお出かけになったときに、ここの林が盛んに茂っていた。そのとき「わたしの御心をはやしたてる」とおっしゃった。ゆえに、林という。726年、字を拝志と改めた。(出雲国風土記-意宇郡・拝志郷-)
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十九拠点がどこにあったか、想像するのも楽しいが、出雲から離れてしまうので、そちらは後世のみなさんの楽しみのために残しておこう。
長くなったので、そろそろ出雲史上最大の発見の、もうひとつの青銅器群である加茂岩倉遺跡が何であったのかを考察したい。この加茂岩倉遺跡の銅鐸群が十九拠点と関係していることも証明してみせたい。