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《広さを思い出す場所》第一部第三章 私は、嫌われる人間なのでしょうか

    三度目の来館は、雨の日だった。
    入口に新しい札が出ていた。

    《濡れた傘は入口の傘立てへ。濡れた心は、そのままお持ち込みいただけます。》

    《その人》はしばらく読んだ。
    「これ、建物?」
    扉を開ける。
    ちりん。
    「私です!」
    主任研究員が得意げに言った。
    「やっぱり」

    物理学部の優先席を見ると、本が十二冊積まれていた。
    「余白なくなってますよ」
    物理学部が本を見る。
    「必要資料です」
    「十二冊全部?」
    沈黙。
    物理学部は二冊だけ棚へ戻した。
    「ちょっとだけ戻った」

    《その人》はカフェへ座った。今日は、お茶が出るより先に言葉が出た。
    「私、どこに行っても嫌われる人間なのかな」
    全員の動きが少し止まった。
    主任研究員が聞く。
    「どうしてそう思いました?」
    「返事が遅いことがある。人といると、雰囲気が違う気がする。距離を置かれるように感じることもある。集団にいると、浮いてる気がする」
    「はい」
    「だから、もうそういう人なんじゃないかって」

    物理学部が赤いペンを出した。
    「何するんです?」
    「推論の距離を確認します」
    紙に書く。
    《返事が遅かった》
    《雰囲気が違うと感じた》
    《距離を置かれたように感じた》
    そして少し離れたところに、
    《私は、どこに行っても嫌われる人間だ》
    と書いた。
    「遠いですね」
    「距離があります」
    「でも、感じたことは本当です」
    《その人》は言った。
    物理学部は頷く。
    「はい。そこは消しません」

    主任研究員が、折りたたみ椅子を一脚持ってきた。
    「何それ」
    「本日登録されました。《余白・携帯型》です」
    財務部が言う。
    「二千九百八十円でした」
    「本当に買ったの?」
    主任研究員は椅子を広げた。
    ぱたん。

    座面に紙を置く。
    《まだ分からない》
    「ここに何を座らせます?」
    《その人》は考えた。
    「“嫌われた気がする”」
    「どうぞ」
    「“あの人は私を嫌っている”」
    「まだこちら」
    《まだ分からない》
    「“私は嫌われる人間だ”」
    主任研究員は首を振った。
    「それは、追加資料をお願いします」
    《その人》は少し笑った。

    そこへロマン労組がやってきた。
    「なお、仮に誰かに嫌われていた場合でも、相手に好かれることを、あなたの業務目標にしないでください」
    《その人》は瞬きをした。
    「そんなこと言っていいの?」
    「仕事上必要な挨拶、連絡、配慮はする。必要なら距離を取る。管理者へ相談する。環境も調整する」
    「でも好かれなくていい?」
    「好かれるかどうかは、あなた一人では管理できません」

    財務部が頷いた。
    「他者の内心は成果指標として不適切です」

    物理学部も。
    「直接測定できません」

    仏教研究室が湯呑みを置いた。
    「疲れますしね」
    《その人》は笑った。

    主任研究員が椅子の横にしゃがむ。
    「余白は、悲しくなくなる魔法じゃないです。本当に誰かに嫌われていたら、悲しいかもしれない。でも、一人の反応で世界全部を同じ色に塗らないための場所にはなれます」

    物理学部が窓辺へプリズムを置いた。雨の日の弱い光でも、小さな虹が出た。
    主任研究員は指をさす。
    「この人には嫌われているかもしれない」
    一色。
    「別の人とは普通に話せている」
    もう一色。
    「ある人の反応は、まだ分からない」
    まだ色のついていない場所。
    「全部、一色じゃない」
    《その人》は虹を見た。
    「本当に嫌われていても、それで私の全部が決まるわけじゃない」
    「はい」
    その瞬間、壁に文字が浮かんだ。
    《あなたは、誰かの評価より広い。》
    主任研究員が立ち上がる。
    「今の誰!?」
    物理学部が壁を見る。
    「建物でしょう」
    主任研究員が悔しそうにする。
    「私が言いたかった」
    文字が変わった。
    《今回は私です。》
    物理学部が頷く。
    「確認が取れました」
    《その人》は笑った。

    帰る前、《余白・携帯型》を指した。
    「これ、貸してもらえます?」
    主任研究員は首を振った。
    「施設備品なので」
    「残念」
    「でも」
    主任研究員は、《その人》の胸のあたりを指した。
    「もう一脚、持ってるでしょう」

    帰りの電車で、また不安が浮かんだ。
    ――やっぱり、あの人は私を嫌っているのでは。
    《その人》は、心の中で椅子を一脚広げた。
    《私は今、嫌われていると確定したくなるほど不安なんだ》
    そこまでは座らせる。
    その先は、空けておく。
    空いている椅子が一脚あるだけで、別の色が入ってこられる気がした。

    #広さを思い出す場所

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    物語と、日々の中で拾ったものを書いています。 《広さを思い出す場所》を連載予定。 余白/いまここ/光/ロマン。🌰 お茶一杯くらいの滞在を。

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