
《広さを思い出す場所》第一部第四章 お茶は答えを急がない
四度目に《広さを思い出す場所》へ行った日。
《その人》は、入口の扉を開ける前から考えていた。
今日は聞こう。
ちゃんと聞こう。
そして、できれば答えを持って帰ろう。
ちりん。
扉を開ける。
カフェには仏教研究室がいた。今日は珍しく、一人だった。
仏教研究室は透明なポットに茶葉を入れ、湯を注いだ。淡い色が、ゆっくり水の中へ広がっていく。
一分ほどして、《その人》は聞いた。
「もう飲めます?」
「まだです」
「あとどれくらい?」
「二分ほど」
「待つんですね」
「待ちます」
「何もしないで?」
「茶葉は働いています」
「人間は?」
「待っています」
「それ、仕事として成立するんだ」
仏教研究室は少し笑った。
《その人》の頭の中では、朝から同じことが回っていた。
今の仕事を続ける。
辞める。
転職する。
でも次が決まるとは限らない。
今の場所はつらい。
でも生活もある。
早く出たい。
でも焦って決めて失敗したくない。
残る。
出る。
残る。
出る。
「聞いてもいいですか」
「どうぞ」
《その人》は少し身構えてから言った。
「今の仕事、辞めたほうがいいと思いますか」
仏教研究室はポットを見た。
「……」
「聞こえました?」
「聞こえています」
「じゃあ」
「まだ二分経っていません」
「お茶じゃなくて!」
「はい」
仏教研究室は少し考えた。
「では、今分かっていることを教えてください。答えではなく」
《その人》は拍子抜けした。
「今の仕事がつらい。辞めたい気持ちはある。でも、すぐ辞めるのは生活的に難しい。転職活動はしている。でも次が決まるかは分からない」
仏教研究室は頷いた。
「かなり分かっていますね」
「でも答えが分からない」
「そうですね」
「どっちがいいと思います?」
「今日、決める必要がありますか」
《その人》は止まった。
「……今日?」
「はい」
「いや。今日じゃなくてもいい」
「明日は?」
「明日も別に」
「では、いつまでに?」
《その人》は答えようとした。でも、答えがなかった。
「……決まってない」
「それも、今分かっていることですね」
しばらくして、《その人》は言った。
「答えが欲しいんじゃなくて、安心したいのかもしれない」
仏教研究室は何も言わなかった。
「辞めるって決めたら、今のつらさに終わりが見える気がする。続けるって決めたら、転職のことを考えなくて済むかもしれない。どっちにしても、決まってない状態が嫌なんだ」
仏教研究室はポットを見る。
「色が出てきましたね」
「話聞いてます?」
「聞いています」
「急にお茶に戻った」
「大事なので」
強い。
《その人》もポットを見た。さっきはほとんど透明だった湯に、きれいな色が広がっている。
「もう飲めます?」
「もう少し」
「早く注ぐこともできます?」
「できます」
「味は?」
「薄いでしょうね」
「じゃあ待つ」
《その人》はそこで気づいた。
「あ」
「何です?」
「これと同じ?」
仏教研究室は答えなかった。その顔が少しだけ楽しそうだった。
「まだ出来てないから待ってる。でも、放置してるわけじゃない。茶葉は変化してる。時間も経ってる。……私も?」
仏教研究室は頷いた。
「転職活動をする。今の仕事の負担を見る。生活条件を確認する。支援を借りる。求人を見る。答えを出さない間にも、できることはあります」
「じゃあ、決めないことと、何もしないことは違う?」
「違うと思います」
「逃げてるわけでもない?」
「場合によります」
「そこは断言してくれないんですね」
「便利な言葉にしたくないので」
「難しいな」
「そうですね」
「もっと簡単な答えないですか」
「お茶なら、あと三十秒です」
「そっちは明確だなあ」
そこへ物理学部が入ってきた。
「お茶ありますか」
「あります。あと二十五秒です」
物理学部は時計を見る。
「了解しました」
「素直」
「何の話ですか」
「仕事を辞めるかどうか」
「条件整理します?」
「今日はいいです」
「分かりました」
すぐ引いた。
「表とか作りたくないの?」
「作りたいですが」
「作りたいんだ」
「本人が望まない情報整理は、観測補助として不適切です」
仏教研究室が時間を見る。
「では」
ポットからお茶を注ぐ。
《その人》は一口飲んだ。
「おいしい」
「よかったです」
「待った甲斐あった」
物理学部も飲む。
「適切な抽出です」
「感想まで物理学部っぽい」
そこへ主任研究員がものすごい勢いで入ってきた。手に玉虫色の布を持っている。
「見てください!」
ロマン労組がその後ろから入ってくる。
「走らないでください」
「走ってません!」
「速度が走る人の速度です」
「高速歩行です!」
いつの間にか財務部まで来て、全員揃っていた。
「それで、何の話だったんです?」
主任研究員が聞く。
「仕事を辞めるかどうか」
「答え出ました?」
「まだ。でも、今は“まだ”でいいみたい」
「どういうこと?」
「抽出中」
「何が?」
「私が」
主任研究員の顔が輝いた。
「新概念!」
財務部がすぐ言う。
「研究室は増やしません」
「まだ何も言ってない!」
ロマン労組も続く。
「新業務にも増やしません」
「だから!」
物理学部が真面目に考える。
「比喩としては理解できます」
仏教研究室は黙ってお茶を飲んでいる。
財務部が《その人》に聞いた。
「必要なら、生活上どこまで待てるかは整理できます」
ロマン労組も。
「身体や心の負担が限界に近づいていないかは見てください」
物理学部。
「新しい情報が入れば、判断も更新できます」
主任研究員。
「あと、ロマンも忘れずに!」
「皆、違うこと言うんですね」
仏教研究室が答える。
「一つの答えでは足りない問題なのでしょう」
しばらくして、仏教研究室が二煎目を淹れた。
「さっきと味が違う」
「はい」
「どっちが正しい味?」
仏教研究室は少し笑った。
「どちらも、この茶の味でしょう」
《その人》はカップを見る。
「今の職場にいる自分。転職しようとしてる自分。まだ決められない自分」
「どれか一つだけが、本当のあなたなのでしょうか」
《その人》は首を振った。
「たぶん違う」
「では、今の状態を完成品みたいに評価しなくてもよいのでは」
その瞬間、壁に札が現れた。
《抽出中のものを、完成品として評価しないでください。》
主任研究員が立ち上がった。
「これは碑文広場に――」
札が即座に裏返る。
《増やしません。》
「早い!」
帰る時間になった。
結局、仕事を辞めるかどうかは決まらなかった。
「答え持って帰れなかったな」
仏教研究室が聞く。
「何も持って帰りませんか?」
《その人》は少し考えた。
「……“まだ”を持って帰る」
「よいと思います」
扉を開ける。
ちりん。
答えはない。
でも、答えがないということと、何も進んでいないということは、同じではなかった。
まだ決まっていないものは、失敗作ではない。
ただ、抽出中なのだ。
《その人》は駅へ向かって歩いた。
そして今日は、まだ熱いお茶を、まだ熱いうちに飲めたことを、少しだけ嬉しく思った。