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《広さを思い出す場所》第一部第五章 ロマンには予算がある

    五度目に《広さを思い出す場所》へ行った日、入口からすでに様子がおかしかった。

    ちりん。
    扉を開ける。
    いつものカウンターには仏教研究室がいる。お茶を淹れている。そこまでは普通だった。

    その向こうで、主任研究員が床いっぱいに紙を広げていた。
    「これと、これと……あとこれも必要です」
    財務部が腕を組んでいる。
    「必要ではありません」
    「必要です」
    「欲しい、でしょう」
    「ロマン研究上、必要です」
    「欲しい、ですね」
    「……はい」
    早かった。

    床には、蓄光する小さなトレー、虹色に光を返すガラス、角度によって青から紫へ変わる布、星空を投影する小型照明、謎の結晶、用途の分からない金属製の箱。

    「これは?」
    《その人》が最後の一枚を指した。
    主任研究員が目を輝かせる。
    「分かりません!」
    「分からない物まで買おうとしてるんですか」
    「でも、いいでしょう?」
    「よくないです」
    財務部が即答した。

    主任研究員は一枚の紙を胸に抱えた。
    「この蓄光トレーはですね、昼間は普通なのに、暗くすると光るんですよ。つまり《潜在相顕現型ロマン》です」
    「名前をつけても予算は増えません」
    「ぐっ」

    財務部が帳簿を置く。
    《ロマン予算 今期》
    「そんな項目、本当にあるんですね」
    「あります。ロマンを完全に予算外へ追い出すと、主任研究員が独断で購入し始めるので」
    主任研究員が目を逸らした。

    そこへロマン労組が現れた。
    「予算会議、長引いてません?」
    財務部が時計を見た。
    「まだ二十二分です」
    「主任研究員の集中力がそろそろ危ないです」
    「私、元気です!」
    「昨日『十五分眺めても飽きない布は業務上重要』と言って一時間眺めていた人の自己申告は参考程度です」
    「ぐぬぬ」

    物理学部まで顔を出した。
    「何を買うんですか?」
    「あなたはこっち側でしょう! 光学関係ですよ!」
    物理学部は床を見る。
    「このプリズムは既存設備で代用可能ですね」
    「敵だった!」
    仏教研究室がお茶を出した。
    「まあまあ」
    「仏教研究室は!?」
    「私は買わなくても眺めることはできると思います」
    「四面楚歌!」

    《その人》は声を上げて笑った。
    でも主任研究員は、少しだけ本気でしょんぼりしていた。
    財務部はそれに気づいたらしい。
    「買ってはいけない、と言っているわけではありません」
    「でも全部却下するでしょう」
    「全部欲しいと言うからです」
    「全部きれいなんです」
    「分かっています。だから選ぶんです」

    財務部は床の紙を三つに分けた。
    《今、買う》
    《あとで考える》
    《見て楽しむ》
    主任研究員が三つ目を見た。
    「買わないんですか」
    「はい」
    「なのに楽しむ?」
    「はい」
    「そんなことできます?」

    物理学部が言った。
    「できますよ。私は天体の大部分を所有していません」
    「スケールがでかい」
    「土星が好きでも買いません」
    「買えません」
    「結果は同じです」

    仏教研究室がお茶を飲んだ。
    「道端の花を美しいと思っても、全部摘んで持ち帰る必要はないでしょう」

    主任研究員が紙を見つめる。
    「……ロマンって、所有しないと減りませんか」
    財務部が答えた。
    「場合によると思います。でも、所有しなくても残るロマンはあります」

    《その人》は、ふと昔見たものを思い出した。
    名前も知らない服。遠くから見たら、光の角度で色が変わった。何だったのか分からなくて、何度も調べた。長い時間がかかった。でも、その時間まで含めて覚えている。

    「持ってないものなのに、ずっと覚えてることってありますね」
    「あるでしょう!」
    主任研究員が勢いづく。
    「そこで全部買う方向に戻らない」
    財務部が止めた。

    財務部は《今、買う》の札の前へ一枚置いた。
    玉虫色の布で仕立てられたコートだった。
    主任研究員の目が輝く。
    「これは!」
    財務部が答えた。
    「今期の大型ロマン枠です」
    「通った!」
    「すでに購入済みでしょう」
    「あ、そうだった」
    「じゃあ蓄光トレーは?」
    財務部は《あとで考える》へ置いた。
    主任研究員が悲しそうな顔をする。
    財務部が説明した。
    「今月は大きな買い物を一つしています。今買わなくても困らない。代替品もある。そして、今いちばん欲しい物は別にある」
    主任研究員は玉虫コートの写真を見た。
    「……こっちです」
    「でしょう」
    「でも、蓄光トレーも欲しい」
    財務部が言った。
    「欲しいままでいてください」
    「え?」
    財務部はその紙を捨てなかった。
    「欲しいという気持ちまで削る必要はありません」
    「買わないって、諦めることじゃないんですか」
    「少なくとも、今日買わないことと、永遠に諦めることは同じではありません」

    《その人》は、その言葉に引っかかった。
    「……それ、仕事とかにも似てますね。今すぐ辞められない。でも、ずっと辞められないとは限らない」

    物理学部も言う。
    「時間軸を無限に延長して解釈する必要はありません」
    主任研究員が笑った。
    「物理学部っぽい言い方だなあ」
    「時間の話なので」

    財務部は三つの札を指した。
    「人は時々、《今じゃない》を《手に入らない》と読み替えます」
    「今うまくいかないと、ずっと駄目だって」
    「そうです」
    《その人》は《あとで考える》の札を見た。
    「でも、本当は保留?」
    「はい」

    主任研究員が突然立ち上がった。
    「《余白》だ!」
    ロマン労組が言う。
    「急に大声を出さない」
    「買うか、諦めるか、じゃない。ここ、余白だ!」

    財務部が少し笑った。
    「ようやく気づきましたか」
    「財務部、余白OSと連携してたの!?」
    「当然です」
    「私だけ知らなかった……」

    仏教研究室がお茶を差し出す。
    「お茶どうぞ」
    「いただきます……」

    財務部は蓄光トレーの紙をファイルへ入れた。
    《未購入ロマン》
    「こんなファイルもあるんですね」
    「かなり厚いです」
    中には、珍しい色の文房具、光る雑貨、変わった布、美術館の図録、正体不明の器。
    主任研究員が一枚ずつ見る。
    「ああ、これ欲しかったなあ」
    財務部が聞いた。
    「今も欲しいですか」
    「……いや」
    次。
    「あ、これも」
    「今は?」
    「別に」
    また次。
    「これは……ちょっとまだ欲しい」
    「では残します」
    「消さないんですか」
    「欲しいなら」

    財務部は穏やかに言った。
    「欲しいものを全部手に入れる必要はありません。でも、欲しいと思ったことまで否定する必要もないでしょう」

    《その人》は、自分の中にも似たファイルがある気がした。
    行きたかった場所。
    なりたかったもの。
    仲良くなりたかった人。
    買いたかったもの。
    やってみたかったこと。
    叶わなかったものもある。もう欲しくなくなったものもある。まだ少し残っているものもある。
    全部を「失敗」と書く必要はないのかもしれない。

    そのとき、壁に札が現れた。

    《保留は、喪失ではありません。》

    主任研究員が立ち上がる。
    「これ、碑文広場に――」
    札がすぐ裏返った。
    《増やしません。》
    「まだ言い終わってない!」

    財務部が言う。
    「心の中に置けば無料です」
    「財務部らしい!」
    皆が笑った。

    帰る前に、《その人》は《未購入ロマン》のファイルをもう一度見た。
    欲しいものがある。まだ叶っていないものがある。
    それは欠けているということだけではない。未来に何かが入ってくるための空席でもある。
    「ロマンって、持ってる物の数じゃないんですね」
    主任研究員は少し考えた。
    「たぶん。世界に“まだ欲しいものがある”って思えること自体が、ロマンなのかもしれません」

    外は晴れていた。
    夕方の光の中で、建物の窓が少しだけ虹色に光った。
    世界には、空いている欄がたくさんあった。
    そしてその空欄は、足りなさではなく、これから何かを書ける場所なのかもしれなかった。

    #広さを思い出す場所

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    物語と、日々の中で拾ったものを書いています。 《広さを思い出す場所》を連載予定。 余白/いまここ/光/ロマン。🌰 お茶一杯くらいの滞在を。

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