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《広さを思い出す場所》第一部第六章 心の飛躍にも休憩がいる

    六度目に《広さを思い出す場所》を訪れた日。
    入口の床に、妙な印がついていた。

    《いま》
    《一歩先》
    《休憩》

    「最後、進んでないな」
    《その人》が呟く。
    扉を開ける。
    ちりん。
    「その理解で正しいです!」
    主任研究員が飛び出してきた。
    「今日は新しい実習の日です。《心跳び》です!」
    「……こころとび?」
    「はい!」
    「また新しい言葉作った」
    「登録済みです!」
    奥から財務部の声。
    「登録していません」
    「概念上です!」
    ロマン労組が続ける。
    「業務としても追加承認していません」
    「今日は既存業務の範囲です!」
    すでに賑やかだった。

    カフェの奥の広い部屋では、演劇研究班が床にテープを貼っていた。
    《いま》から一歩ほど離れて《一歩先》。その横に《休憩》と書かれ、椅子が一脚置いてある。
    「休憩だけ設備が豪華」
    ロマン労組が頷いた。
    「重要なので」
    仏教研究室は、その椅子にもう座ってお茶を飲んでいた。
    「実習前から休んでる」
    「空いていたので」
    物理学部は床を観察している。
    「《いま》から《一歩先》まで八十七センチです」
    主任研究員が言う。
    「測ったの!?」
    「観測対象があったので」
    演劇研究班が説明する。
    「八十七センチである必要はありません」
    物理学部がメモを消した。少し寂しそうだった。

    「では、《いま》に立って、《一歩先》へ行ってください」
    「普通に歩けば?」
    「歩いてもいいです」
    「飛んでも?」
    主任研究員の目が輝く。
    「飛んでもいいです!」
    ロマン労組。
    「無理のない範囲で」
    物理学部。
    「床面は乾燥しています」
    財務部。
    「設備破損がなければ」
    仏教研究室。
    「終わったらお茶があります」
    《その人》は笑った。

    一歩進む。
    《一歩先》。
    「はい。終わりです」
    「え?」
    「一回目は」
    「これだけ?」
    「はい」
    主任研究員が不満そうに腕を広げる。
    「もっとこう……心がばーっと!」
    ロマン労組が見る。
    主任研究員は腕を下ろした。
    「……個人の感想です」
    演劇研究班は、《その人》を《いま》へ戻した。
    「今度は、あなたが最近“変わらなきゃ”と思っていることを一つ考えてください」
    《その人》の身体が少し固くなった。
    もっと人とうまく話せるようにならなければ。
    もっと緊張しなくなれば。
    もっと傷つかなくなれば。
    もっと早く切り替えられれば。
    もっと自信があれば。
    もっと。
    もっと。

    「……人の反応を、もっと気にしない人になりたい。嫌なことがあっても、すぐ戻れるようになりたい。面接でも、もっとちゃんと話せるように」
    言葉にするたび、《一歩先》が遠く見えた。たった八十七センチなのに。
    「じゃあ、そこまで行けば、その自分になれる?」
    演劇研究班は首を振った。
    「なれません。ここには“理想の自分”とは書いてありません」
    確かに。
    《一歩先》
    だけ。
    「では、今のあなたにできる“一歩先”は何でしょう」
    《その人》は考えた。
    「緊張しても、メモを見ながら話す。分からなかったら聞き返す。嫌なことがあった日に、全部を自分のせいにしない。……休む」
    ロマン労組が大きく頷いた。
    「非常に良い」
    主任研究員が口を挟む。
    「でもそれ、前進してないように見えません?」
    ロマン労組が答えた。
    「休憩を前進の反対に置かないでください」
    《その人》も少し引っかかった。
    「でも、休んだら止まるでしょう」
    ロマン労組は即答した。
    「止まります」
    「それでいいの?」
    ロマン労組が言った。
    「止まれないものは壊れます」
    強かった。
    物理学部まで頷く。
    「多くの系では冷却・回復・再調整が必要です」

    《その人》は《いま》に立った。
    今度は少し膝を曲げた。
    「飛んでみようかなって」
    ほんの少しだけ。
    ぴょん。
    足が床から離れ、《一歩先》へ着地した。
    それだけ。
    「なんか楽しい」
    主任研究員も飛んだ。少し高い。
    ロマン労組が低い声で呼んだ。
    「主任研究員」
    「今のは安全範囲です!」
    物理学部は妙に合理的なフォームで着地し、仏教研究室も静かに一度だけ飛んだ。
    財務部は飛ばなかった。
    「見ているだけで十分です」
    主任研究員が言う。
    「皆でやったほうが!」
    財務部は首を振る。
    「参加しない自由も含めて実習では?」
    演劇研究班が頷いた。
    「その通りです」
    主任研究員が敗北した。

    《その人》はもう一度《いま》へ戻った。
    「一歩って言われると出来るけど、“人生を変えてください”って言われると無理な気がする」
    主任研究員が言った。
    「人生の跳躍幅、大きすぎますからね。心って時々、《いま》からいきなり十年後くらいへ飛ぼうとしますよね」
    転職できなかったら一生ここなのか。
    人間関係がうまくいかなかったら、どこへ行っても同じなのか。
    今つらい。
    だから未来もつらい。
    一瞬で、《いま》から、ものすごく遠くへ。
    「それ、着地地点見えてないですね」
    物理学部が頷く。
    「予測可能範囲を越えています」
    演劇研究班が言う。
    「足元が見えるところまで戻る」
    《いま》。
    「今できる一歩だけ?」
    「はい」
    「疲れたら?」
    ロマン労組が椅子を指す。
    《休憩》
    「強い」
    ちょうどそのとき、ロマン労組が時計を見る。
    「十五時です」
    主任研究員が叫んだ。
    「今すごくいいところ!」
    「休憩です」
    「あと十分!」
    「休憩です」
    「五分!」
    「休憩」
    財務部が言った。
    「交渉対象ではありません」
    全員カフェへ移動する。
    「本当に止めるんですね」
    ロマン労組が答えた。
    「止めます」
    「楽しいのに?」
    ロマン労組は当然のように言った。
    「楽しいことも疲れます」
    主任研究員が言う。
    「私はまだいけます」
    ロマン労組が返した。
    「自己申告は受理しました」
    「採用は?」
    ロマン労組が答えた。
    「しません」

    お茶を飲みながら、《その人》が聞いた。
    「心の飛躍って、結局なんなんでしょう」
    主任研究員は、珍しくすぐには答えず、少し考えた。
    「昨日まで絶対だと思っていたものから、一ミリ離れること?」
    物理学部が言う。
    「比喩ですね」
    「今日は許して」
    「許可します」
    主任研究員は続ける。
    「“私は駄目だ”から、“今、駄目だと思ってる”へ。“ずっとこうだ”から――」
    「“今日はこう見える”へ」
    《その人》が続けた。
    仏教研究室も言う。
    「大きく飛ばなくても、見える景色は変わることがありますね」
    「でも、ずっと飛び続ける必要はない」
    ロマン労組が答える。
    「ありません」
    「着地する」
    「はい」
    「休む」
    「はい」
    「また行きたくなったら?」
    主任研究員が笑う。
    「また《心跳び》」

    壁に札が現れた。

    《飛躍には、着地点を用意してください。》

    主任研究員が目を輝かせる。
    「これ――」
    全員が見る。
    「……碑文にはしません」
    建物の札が変わった。

    《学習しましたね。》

    「上からだなあ!」
    帰り際、演劇研究班は床の印を剥がしていた。
    「残しておけば便利なのに」
    「外にはありませんから」
    「え?」
    「明日、“ここから一歩先です”って床に書いてあるとは限らないでしょう。だから自分で決めるんです。どこまでが一歩か、どこで休むかも」
    ロマン労組が遠くから言う。
    「休憩地点は広めに設定してください!」
    外へ出る。
    夕方。
    《その人》は歩きながら足元を見た。
    一歩。
    一歩。
    ただ歩いているだけ。人生が変わる音なんてしない。光も出ない。劇的な音楽もない。
    それでも、大きく変われない自分を失敗だと思わなくてもいいのかもしれない。
    今いる場所から、見える範囲へ。
    一歩。
    そして、疲れたら座る。
    駅のベンチを見つけ、《その人》は座った。
    「……休憩地点」
    誰も聞いていない。
    それでよかった。
    心の飛躍には、翼より先に、ちゃんと帰ってこられる地面が必要だった。

    #広さを思い出す場所

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    物語と、日々の中で拾ったものを書いています。 《広さを思い出す場所》を連載予定。 余白/いまここ/光/ロマン。🌰 お茶一杯くらいの滞在を。

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