
《広さを思い出す場所》第一部第七章 そこに道があるなら
七度目に《広さを思い出す場所》を訪れた日。
入口に、見慣れない札が立っていた。
《本日、館内に通れない場所があります。》
その下に、
《実際には通れます。》
と書いてある。
「……どっち?」
扉を開ける。
ちりん。
「入口の札、何ですか」
主任研究員が楽しそうに笑う。
「ああ、演劇研究班です。行けば分かります」
「一番信用できない答えだ」
奥から物理学部が顔を出した。
「物理的な通行障害はありません」
「じゃあ本当に何なの」
「私は説明を禁じられています」
仏教研究室はカフェでお茶を飲んでいた。
「仏教研究室は?」
「見学です」
「また?」
「観るのも研究です」
この人は強い。
演劇研究班の部屋へ行く。
床には、薄い灰色の布が何枚も置かれていた。布と布の間には床が見えている。その配置は飛び石のようで、入口から反対側の壁まで細い道になっている。
「今日の実習は《条件歩行》です」
主任研究員が横から言う。
「私が《境界世界横断》という名前を提案しました」
演劇研究班が即答した。
「却下しました」
財務部が廊下から言う。
「《条件歩行》を支持します」
「名前をつけるだけで財務部が来る!」
ロマン労組も顔を出す。
「危険な移動はありませんね?」
「ありません」
「では見学します」
いつの間にか全員いた。
演劇研究班が《その人》を入口へ立たせる。
「灰色の布だけを踏んで、向こうまで行ってください」
《その人》は歩いた。
一枚。
次。
次。
すぐ反対側へ着いた。
「簡単ですね」
「では二回目です。今度は、布のない場所には深い水があると考えてください」
《その人》は床を見る。
「実際には床ですよね」
「はい。でも、もし本当に深い水だったら、どう歩きますか」
《その人》は両腕を大きく広げ、身体を左右に揺らしながら恐る恐る一歩進んだ。
「うわー、落ちる」
主任研究員が喜ぶ。
「それっぽい!」
演劇研究班が止めた。
「今、何をしていました?」
「深い水に落ちないように」
「本当に?」
《その人》は黙った。
「本当に深い水があったら、そんなに身体を左右へ振りますか? 声を出して“落ちる”と言います?」
「……たぶんしない」
「なぜ、今はやったのでしょう」
「そう見えるように?」
「はい」
主任研究員が手を挙げる。
「でも観客的には分かりやすいです!」
「分かりやすさが必要な場面もあります。でも今日は、“それらしく見せる”実習ではありません」
主任研究員は座った。
「はい……」
もう一度。
床を見る。
もちろん水なんてない。
でも、本当に深い水があるなら。
次の灰色の布までどれくらいある。
足は届く。
滑らないだろうか。
重心をどこへ置く。
次の足場はどこだ。
《その人》は、さっきより静かになった。
一歩。
次を見る。
一歩。
少し遠い。
腰を落とす。
足を伸ばす。
着く。
そこで止まる。
呼吸。
向こう岸へ着いた。
「さっきより地味。でも、こっちのほうが本当に歩いてた感じがする」
「何が違いました?」
「見せることを考えてなかった。次の足場とか、身体の位置とか、どうすれば落ちないかを見てた」
「そうです」
物理学部が遠くから言った。
「なお、実際には水はありません」
「今そこ確認する?」
「事実関係として」
《その人》はもう一度歩いた。
途中で演劇研究班が言う。
「止まってください。今必要なのは?」
《その人》は足元を見る。
「次の一枚」
「はい」
前回の《心跳び》を思い出した。
「また一歩だ」
「似ていますね。でも前回は“どこまで進めばいいか”。今回は“何を見て動くか”です」
《その人》は次の布へ足を置いた。
「私、人と話してるとき、こんなふうになってるかも」
「どういうふうに?」
「ちゃんとして見えなきゃ。普通に見えなきゃ。変だと思われないように。嫌われないように。“うまく人と話している人”を演じようとしてるのかもしれない」
演劇研究班はすぐには答えなかった。
「社会的な場では、ある程度の型があります。挨拶や必要な連絡のように。でも、型を守ることと、相手の反応を全部制御しようとすることは違います」
「じゃあ、本当に目の前に人がいたら、何をする?」
「今、目の前に私がいます」
「あ」
「何をしています?」
「話を聞いてる。聞かれたことに答えてる。分からなければ聞く」
「今は、それで会話になっています」
《その人》は少し驚いた。
自分は「自然な人に見えているか」なんて考えていなかった。実習について話していた。だから、普通に話せていた。
「でも、相手が私を嫌ってたら?」
ロマン労組の声が飛ぶ。
「好かれることを業務目標にしない」
「待ってましたみたいに言う」
「重要案件なので」
財務部も。
「相手の内心を成果指標にすると評価不能です」
物理学部。
「直接観測できません」
仏教研究室が言う。
「目の前の人と関わることと、頭の中にいる“相手らしきもの”と関わることは、違うのかもしれませんね」
《その人》は止まった。
「あの人はきっと怒ってる。迷惑だと思ってる。本当は話したくない」
物理学部が口を挟む。
「観測されていない台詞が増えていますね」
「私、相手の役までやってる?」
主任研究員が言う。
「かなり大人数の一人芝居」
「嫌だなあ」
「私もやりますよ。“財務部はきっと反対する”とか」
財務部が答える。
「反対することは多いです」
「ほら!」
「でも、反対理由まで主任研究員が決めないでください」
《その人》は笑った。
演劇研究班が聞く。
「相手の心を想像すること自体は、悪いことでしょうか」
「悪くはない。人の気持ちを考えるの、大事だし。でも、想像を事実にしたら危ない」
「そうですね」
「水がある“という設定”と、本当に水があるのを混同するみたいに?」
物理学部の顔が明るくなる。
「非常に良い区別です」
主任研究員も立ち上がる。
「つまり! 《想像は仮設足場》!」
物理学部が少し考える。
「……比喩として可」
主任研究員が両手を上げた。
「やった!」
実習の最後、演劇研究班は灰色の布を並べ替えた。
今度は正面の足場が途切れている。
「これ届かない」
「どうしましょう」
《その人》は前を見る。
でも、よく見ると横に布が一枚あった。
「あ」
横へ一歩。
そして前へ。
向こう岸へ着いた。
主任研究員が拍手する。
「第三の道!」
演劇研究班が聞く。
「最初に何を見ていました?」
「正面」
「そこに道がなかったら?」
「横を見る」
《その人》は笑った。
「これも《余白》?」
主任研究員の顔が輝く。
「そう!」
建物の札が出た。
《今回は許可します。》
カフェへ戻ると、仏教研究室がほうじ茶を淹れた。
仏教研究室が湯呑みを置いて言った。
「“あると思うもの”によって、世界の歩き方は変わりますね」
物理学部が慎重になる。
「認知的側面の話なら」
「そうです」
「なら同意します」
《その人》はカップを見る。
「じゃあ、“私は嫌われる人間だ”って思って歩く世界と、“まだ分からない”って思って歩く世界は」
「同じ世界でも、歩き方が変わるかもしれませんね」
帰り際、演劇研究班が入口の札を外していた。
《本日、館内に通れない場所があります。》
「結局、通れましたね」
「はい」
「嘘だった?」
研究班は札の裏を見せた。
《正面からは。》
《その人》は笑った。
演劇研究班が言った。
「道がないことと、進めないことは、同じではありません」
外へ出る。
ちりん。
夜が近づいていた。
誰かと目が合う。少し緊張する。
でも、相手の頭の中に台詞を書かない。
今あるものを見る。
道路。
信号。
人。
足。
呼吸。
次の一歩。
もし正面に道がなければ、少し横を見る。
足元には、ただの舗装された道があった。
《その人》はそこへ一歩、足を置いた。
もう一歩。