
《広さを思い出す場所》第一部第八章 光は一色ではない
八度目に《広さを思い出す場所》へ行った日、《その人》は入口で妙な注意書きを見つけた。
《本日、館内の一部で色が安定しません。》
その下に、もっと小さく、
《故障ではありません。たぶん。》
と書いてある。
「たぶん、なの……?」
扉を開ける。
ちりん。
その瞬間、廊下の壁が青く光った。
一歩進む。
今度は紫。
さらに角度を変えると、緑。
「何これ」
「動かないでください!」
奥から物理学部が飛び出してきた。
「そこです。その角度です。いま紫が最も強く出ています」
「私、実験台?」
「観測協力者です」
「言い換えた」
物理学部は満足そうにノートへ何かを書き込んだ。今日は白衣のポケットから赤ペンではなく、小さな分光器らしきものが出ている。
「珍しく楽しそうですね」
「珍しく、は余計です」
「部屋もらえたから?」
「優先席です」
「まだそこ厳密なんだ」
「重要です」
少し離れたところで仏教研究室がお茶を飲んでいた。
「今日は物理学部の日です」
「そんな日あるんですか」
「主任研究員が決めました」
「施設公式?」
「財務部は認めていません」
「非公式なんだ」
そのとき、主任研究員が大きな布を抱えて現れた。
「来ましたね! これを見てください」
ぱっと見は、落ち着いた深い緑。
窓のそばへ移動し、少し傾ける。
緑。
青。
紫。
また緑。
《その人》は思わず近づいた。
「……色が変わる」
主任研究員が得意げに笑う。
「でしょう!」
物理学部が、ここぞとばかりに前へ出た。
「説明しても?」
「今日はあなたの日です!」
物理学部の眼鏡が光った気がした。
「色というのは、物体に単純に“貼りついている”ものではありません。光源の性質、表面の構造、吸収、反射、見る角度、観測者との位置関係――そういった条件によって、見える色は変わります」
主任研究員が布を揺らす。
青。
紫。
緑。
物理学部は言った。
「いま見えている色は本物です。でも、それだけがその物体の色ではない」
《その人》は布を見た。
「……本物だけど、全部じゃない」
「はい」
「なんか物理学部っぽくないくらい哲学的ですね」
「物理学です」
「そこは譲らない」
その日は《光相転移観察会》というものが開かれていた。
観測室には、光を蓄えて暗闇で淡く光るもの、見る角度で色が変わる布、虹を作るプリズム、蝶の羽を拡大した写真、雨上がりの道路の写真、古い器の表面に青や紫の斑点が浮かぶ写真が並んでいた。
「主任研究員の趣味部屋みたい」
「研究資料です!」
《その人》は、一枚の蝶の羽の写真の前で止まった。
「これ、青い色を塗ってるんですか?」
物理学部が嬉しそうに答える。
「こうした色の中には、色素だけではなく微細な構造によって生じるものがあります。光の波長と同程度の細かな構造が、光を選択的に反射したり干渉させたりします」
主任研究員が横から言う。
「つまり《塗られた青》じゃなくて、《現れる青》!」
物理学部が少し考えた。
「……詩的ですが、概念としては悪くありません」
主任研究員が固まった。
「いま褒めた?」
「概念としては」
「物理学部にロマンが侵食している……!」
「侵食ではありません」
仏教研究室が後ろから声をかけた。
「共存では?」
「それだ!」
「そうかもしれません」
《その人》は窓辺の椅子へ座った。
少し疲れていた。
朝、職場で誰かの声を聞いた。自分への声だけ冷たかったように感じた。目も合わなかった。
そのことを、ここへ来るまでずっと考えていた。
また嫌われた。
やっぱり自分には、人と普通に関わることが難しい。
主任研究員が気づいた。
「今日は何かありました?」
《その人》は話した。相手の態度。自分がどう感じたか。腹が立ったこと。それでも「自分の受け取り方かもしれない」と考えていること。
物理学部が近くに来た。
《その人》は先に言った。
「表にしなくていいです」
「まだ何も言ってません」
「顔に書いてあります」
物理学部は、さっきの布を持ってきた。
「これは何色ですか」
「緑」
一歩動く。
「では?」
「青っぽい」
また動く。
「紫」
「最初の緑は間違いでしたか?」
「違う」
「紫が出たから、青は嘘になりましたか?」
「ならない」
「そうですね。人間関係がこの布と同じだ、とは言いません」
「言わないんだ」
「乱暴な比喩は嫌いなので。ですが、ある一つの場面で見えたものを、相手との関係全体に拡張するときには、慎重でいいと思います」
仏教研究室が近くへ来て、お茶を置いた。
「感情は、観測された色のようなものかもしれませんね」
物理学部が少し考える。
「……悪くないです」
主任研究員が口を押さえた。
「今日どうしたの、物理学部」
「普通です」
仏教研究室は笑った。
「今、冷たく見えた」
《その人》も笑った。
「でも、それが、《その人》について見える唯一の色だと決める必要はない」
「でも何度も冷たかったら?」
仏教研究室は穏やかに続けた。
「そのときは、何度も冷たかったという事実を扱えばいい」
ロマン労組が奥から加わる。
「負荷が大きければ距離も取る」
財務部まで現れた。
「環境変更に必要な資源も検討します」
《その人》は笑った。
「また皆集まってきた」
主任研究員が胸を張る。
「学際研究です!」
財務部が言った。
「偶然通りかかっただけです」
《その人》はお茶を一口飲んだ。
「じゃあ、“全部違って見える可能性があるから気にしなくていい”ってことではない?」
物理学部がすぐ答えた。
「違います。今見えている色を、“どうせ別の色もあるから”と無視したら、観測ではありません」
「嫌だったものは嫌だった」
「はい」
「冷たく感じたなら、それをなかったことにしない」
「はい」
「でも、それだけで全部を決めない」
「そうです」
主任研究員が嬉しそうに言う。
「《一色で塗りつぶさない》!」
「その表現なら、私は支持します」
観察会の最後に、部屋の照明が消された。
数秒すると、部屋のあちこちに小さな緑の光が浮かび始めた。
瓶の縁。
時計の針。
小さな星。
棚の端。
主任研究員が暗闇の中で小声で言った。
「蓄光です」
《その人》は暗闇の中で目を凝らした。
明るいときには、そこにあることすら忘れていたものたちだった。でも光がなくなったことで、逆に見えるものがあった。
「人にも、そういうのあるのかな」
物理学部は少し黙った。
「物理学としては答えられません。でも、人間について、明るい場所で見えているものだけが全部だとは、私は思いません」
建物の札が、暗闇でぼんやり光った。
《見えないことと、ないことは違います。》
ロマン労組が言う。
「ただし暗所での歩行には注意してください」
財務部が続く。
「誘導灯は予算確保済みです」
ロマンと現実。相変わらず仲良く同居していた。
帰り際、《その人》は玄関の鏡を見た。
「別の色が出るかなと思って」
主任研究員が笑った。
「出ました?」
「今のところ、疲れた色」
「それも一色ですね」
「そうだね。でも、全部じゃない」
外へ出る。
雨上がりの道路には、信号の光が長く伸びていた。
赤。
黄色。
緑。
同じ水たまりの中に、いくつもの色がある。
嫌なことがあった。今日は確かに嫌だった。
でも、今日はそれだけではなかった。
お茶がおいしかった。
物理学部が楽しそうだった。
暗闇の中で、小さな星が光った。
笑った。
一日は、一色ではなかった。
いま見えている色は、確かに本物だ。
でも、それがすべての色だとは限らない。
《その人》は駅へ向かって歩き始めた。