
《広さを思い出す場所》第一部第九章 選ばれなかった日の帰り道
九度目に《広さを思い出す場所》へ向かった日、《その人》は、いつもより歩くのが遅かった。
ポケットの中には、スマートフォンが入っていた。画面は消えている。けれど、そこに書かれていた言葉を、《その人》はもう何度も頭の中で読んでいた。
慎重に選考を進めました結果――
その後は、もう覚えている。覚えたくなくても覚えてしまう。
ご希望に添えない結果となりました。
今後のご活躍を。
丁寧な言葉。
悪意なんて何もない。
だからこそ、どこに怒りを置けばいいのかも分からない。
《その人》は道端で立ち止まった。
「あそこ、行きたかったな」
小さく言った。
《広さを思い出す場所》の前に着く。
今日は看板に、何も追加されていなかった。慰めの言葉もない。格言もない。
それが少しありがたかった。
今、「大丈夫」とか「次があります」とか書かれていたら、たぶん腹が立っていた。
扉を開ける。
ちりん。
仏教研究室がカウンターにいた。《その人》を見る。何も聞かなかった。ただ、いつもの席を指した。
「どうぞ」
お茶が置かれる。
「何茶ですか」
「今日は名前を聞かないほうがいい気がします」
「そんな日あるんですね」
「あります」
《その人》は一口飲んだ。
「落ちました」
仏教研究室は頷いた。
「そうですか」
それだけだった。
「……そこ、“残念でしたね”とか言うところじゃないんですか」
「残念でした?」
「残念ですよ」
「では、残念でしたね」
「なんか後付けだなあ」
少しだけ笑った。でも、すぐ戻った。
「行きたかったんです。条件もよかったし、仕事内容もよさそうだった。今のところから出られるかもしれないと思った。だから……出口みたいだったんです」
仏教研究室はお茶を足した。今度も何も言わなかった。
しばらくして、主任研究員が入ってきた。
「……行きたかったんですね」
「うん」
「悔しいですね」
「うん」
「悲しい?」
「うん」
「腹も立つ?」
「ちょっと」
「全部ありですね」
主任研究員は、そのまま隣に座った。励まさなかった。次の求人の話もしなかった。
「何も言わないんですか」
「何を言えばいいか、まだ決めてません」
「余白?」
「余白です」
そこへ物理学部が来た。手に紙を持っている。
「統計とか出さないでくださいね」
「出しません。今日は必要ないと思います。ただ、一つだけ分けておきたいものがあります」
紙に二つの言葉を書く。
《選ばれなかった》
《価値がなかった》
その間に大きな線。
「この二つは、同じではありません」
「でも、選ばれなかったのは事実ですよ。他の人のほうがよかったんでしょう」
「その可能性はあります。でも、選考は、その場、その募集、その条件、《その人》数、その比較の中で決まります。それがあなたという人全体の測定になっているわけではありません」
《その人》は少し苛立った。
「落ちた側からすると、そんなふうに切り分けられないですよ。“今回は縁がなかっただけ”とか、“もっといいところが”とか、今は聞きたくない」
「言いません。ただ、“選考結果”という一つの測定値を、“人格全体の測定結果”として扱うのは、測定設計として誤っています」
主任研究員が小声で言う。
「ものすごく物理学部らしい」
「科学一般の話です」
《その人》は湯呑みを見る。
「だって、何度も落ちたらそう思うよ」
誰も否定しなかった。
そこへ財務部が一冊の帳簿を持ってきた。
《採用記録》
中には架空の事例が並んでいる。
経験が募集と合わず不採用。
募集枠一名のため不採用。
面接官とは相性が悪かったが、別部署で後に採用。
今回は不採用、半年後に別求人で採用。
「でも私の理由は分からない」
「はい」
「じゃあ意味なくない?」
「理由が分からないからこそ、自分にとって最も厳しい理由を、勝手に採用しないほうがいいと思います」
《その人》は黙った。
理由が分からないと、自分が劣っていたから、魅力がなかったから、扱いにくそうに見えたから――そんな理由を、頭の中で勝手に採用していた。
「でも、厳しい理由のほうが、納得できるんです。理由が分からないより、分かったほうが楽だから」
仏教研究室がゆっくり言った。
「前にも、似たことがありましたね」
「嫌われていると確定したくなるのと?」
「はい」
「またか」
「またです」
主任研究員が言う。
「人って同じ場所を何度も通るんですね」
「学んでないのかな」
「違うと思います。同じ道を歩いていても、前とまったく同じ場所にいるとは限らないでしょう」
《その人》は、自分から空いている椅子を一脚引いた。
紙を置く。
《選ばれなかった理由:未確定》
主任研究員が笑った。
「自分で展開できるようになりましたね」
「携帯型だから」
そこへロマン労組がやってきた。
事情を聞いて、少し考える。
「今日は転職活動、しないほうがいいんじゃないですか」
「でも、次探さないと」
「今日?」
「早いほうが」
「今日?」
「……今日じゃなくてもいい」
「でしょう。不採用通知を受けた日に、さらに求人検索して、自分の経歴を見直して、自己PRを修正して、反省会まで始めると――心理的残業です」
主任研究員が笑った。
「正式認定?」
ロマン労組が答えた。
「正式認定です」
「じゃあ今日は何すればいいの」
「悔しがる」
「それ業務?」
「業務じゃないから、自由にやってください」
仏教研究室が言う。
「お茶でも」
しばらく皆でお茶を飲んだ。
妙だった。転職の相談をしているのに、履歴書も求人サイトも開かない。ただ、落ちたことを落ちたまま置いている。
《その人》は窓の外を見た。
「行きたかったなあ」
主任研究員が言った。
「行きたかったですね。そこで働いてる自分、想像してました?」
「した」
朝、そこへ通う自分。
新しい机。
仕事を教わる自分。
昼休み。
帰宅。
今の職場ではない日々。
「……楽しみにしてたのかも。だから、落ちると、その未来までなくなるんだ」
「不採用って、仕事だけじゃなくて、頭の中で少し住んでた未来から、退去させられる感じがする」
部屋が静かになった。
財務部が、小さく言った。
「それは、喪失ですね」
その言葉が、思ったより優しかった。
「大げさじゃない?」
「大きさはともかく、存在していた期待がなくなったなら、喪失でしょう」
《その人》は目の奥が少し熱くなった。
「そっか」
自分が駄目だから、こんなに辛いのではなく。
行きたかったから。
期待したから。
新しい生活を少し想像したから。
だから痛い。
主任研究員は、《その人》を碑文広場へ連れていった。
広場に、まだ何も刻まれていない石が一つある。
「今日は、あなたが行きたかった未来を、ここに少し置いて帰りましょう」
目を閉じる。
行きたかった職場。
そこで働く自分。
まだ会っていない同僚。
やっていたかもしれない仕事。
全部、存在しなかった未来。
でも、自分の中では少しだけ存在していた。
「……さよなら」
胸が痛かった。
でも、少しだけ形になった。
「これで終わり?」
「終わりにしなくてもいいです。また思い出してもいい。置いていくためというより、あったことを認めるため、かな」
広場を出ようとすると、建物の壁に小さな札が現れた。
《選ばれなかった未来も、あなたが願った未来でした。》
物理学部が少し後ろから来た。
「ただし、“願った未来”と“最善の未来”は同義ではありません」
主任研究員が頭を抱えた。
「余韻!」
「重要な区別です」
《その人》は少し考えて、笑った。
夕方。
駅のホームへ着く。
電車が一台入ってきた。混んでいる。
乗ろうと思えば乗れた。
でも、《その人》は見送った。
次の電車なら座れる。
数分待つ。
ベンチへ腰を下ろした。
ふと笑った。
「これも余白か」
一本の電車を見送っても、帰る道までなくなるわけではない。
一つの未来が閉じても、未来そのものが終わるわけではない。
次の電車が来るまで、《その人》はただ、そこに座っていた。