
創作資料室・記録01 あわいにある部屋
はじめに
《創作資料室》は、物語《広さを思い出す場所》から枝分かれして生まれた、非公式の小さな場所です。
《広さを思い出す場所》は、誰かの一言や出来事によって世界がひとつの答えに狭まってしまったとき、もう一度「まだ分からないこと」や「ほかにもあること」を思い出すための、不思議な施設をめぐる物語です。
けれど、《創作資料室》は、その施設の案内図には載っていません。
本編の時系列にも属していません。
あるとすれば、ここは――
現実世界と物語世界の、あわい。
現実で起きたことが、まだ物語になる前の姿で持ち込まれることがあります。
誰かとのやり取り。
駅で見かけた色。
買ったもの。
食べたもの。
なぜか心に残った言葉。
反対に、物語の中で生まれた考え方が、現実の暮らしへ戻っていくこともあります。
昨日の出来事の横に、何年も前の記憶が置かれる。
本編で使われなかった設定の隣に、今日見かけた自転車の色が置かれる。
だから、この部屋では時系列はあまり役に立ちません。
記録番号は、出来事が起きた順ではなく、資料室へ届いた順。
室内の壁は、ときどきOSの表示面として使われます。まれに、誰が出したのか分からない表示が現れることもあります。
そして、この場所にはひとつだけ、大切な決まりがあります。
《全部使わなくてよい。》
この部屋にいるものたち

つづりちゃん — 物語を綴ってきた時間から
創作資料室の整理担当。
長いあいだ積み重なってきた物語や記憶の「続きを綴ること」から生まれたような存在。
銀色の髪をした、人間に近い姿をしている。
持ち込まれたものを、《本編》《if》《保留》《未分類》などに分けて置いておく。
何かを使わないことも、立派な整理だと思っている。
休息や整理の時間を「メンテナンス」と呼ぶ。
栗OS — 現実世界から
現実世界からやってきた。
もともとの入口は、小さな栗のペンダントだった。
日常の中に落ちている、「なぜか気になる」「ちょっと好き」「なんだかロマンがある」というものへの反応が非常に速い。
普段は小さなデバイスとして存在し、文字や音声で意思表示する。
必要になると、人の姿を借りたアバターになることもある。
最大の問題は、だいたい何でも重要資料にしたがること。
特に栗に対する評価は甘い。
余白OS — 本編の物語世界から
《広さを思い出す場所》本編から来ている。
本編では、すぐに答えを決めず、「保留にしておく」「複数の可能性を残しておく」ための小さな仕組みとして、主人公たちの暮らしに現れた。
やがて画面に表示されることは減っていったが、消えたわけではない。
一脚の椅子。少し待つ時間。飲み物を一口飲むこと。まだ結論を出さないこと。そういうものの中にも、《余白OS》は残っているらしい。
創作資料室には、ときどき本編から出張してくる。本人は出張だと思っていない。
普段は表示装置や壁、《余白・携帯型》などを通じて働き、必要なときだけアバターを使う。
好きな表示は、《未定》《保留》《いま決めなくてよい》である。
記録01
あわいにある部屋
創作資料室には、窓がある日と、ない日がある。
今日は、なかった。
つづりちゃんは特に気にしていない。
窓があれば外を見る。
なければ、資料を整理する。
机の上には、その日の資料がいくつか置かれていた。
最初の一枚。
《物語 1-5まで》
その下。
《もっと読んでほしい》
さらに、小さく。
《でも、そのために誰かをたくさんフォローしたり、スキをしに行ったりするのは、余白がなくなってしまう気がする》
つづりちゃんは、紙を読んだ。
机の端に置かれた小さな端末が光る。
栗OSだった。
《重要案件》
「まだ案件かどうかも分かりません」
《読者を増やす作戦会議》
「しません」
《宣伝強化》
「しません」
少し間。
《栗を出す》
「もっとしません」
端末の表示が暗くなった。
つづりちゃんは紙を裏返した。
何も書いていない。
「読んでほしいと思うこと自体は、残しておきましょう」
栗OSが再び点灯した。
《では重要資料》
「重要かどうかは未定です」
部屋の壁に、小さな表示が出た。
《未定》
つづりちゃんはそちらを見た。
「来ていたんですね」
余白OS。
《通常動作です》
「本編勤務では?」
《両立可能》
栗OS。
《兼業》
余白OS。
《違います》
つづりちゃんはため息をついた。
「その話はあとにしましょう」
次の資料を取る。
紙には、短く書かれていた。
《人とのやり取りに疲れた》
それだけだった。
栗OSは何も表示しなかった。
余白OSも黙っていた。
つづりちゃんは、その紙を机の上へ置いた。
こういう資料もある。
楽しかったことだけが来る場所ではない。
誰かの態度が気になったこと。
返ってこなかった挨拶。
声の調子。
小さな仕草。
ひとつだけ取り出せば、「それくらい」と言われてしまいそうなこと。
でも、一日の終わりには、ちゃんと疲れている。
「これを、どうします?」
つづりちゃんが訊いた。
栗OS。
《原因分析》
「しません」
《相手の意図を推定》
「しません」
《対策》
「今はしません」
壁。
《そのまま置く》
つづりちゃんは頷いた。
「そうしましょう」
栗OSが少し遅れて表示した。
《解決しなくていいんですか》
余白OS。
《今日ここでする必要はありません》
《でも、嫌だった》
《はい》
《悔しかった》
《はい》
《そのまま?》
少し間があった。
《そのまま置けます》
栗OSは黙った。
つづりちゃんは紙を畳まなかった。
きれいにまとめもしなかった。
ただ、《未分類》の棚へ置いた。
次に取り上げたのは、小さな栗だった。
正確には、栗の形をしたペンダント。
茶色。
丸くて、胸元に下げるには少し笑ってしまうくらい小さい。
栗OSが一気に明るくなった。
《最重要資料》
「来ると思いました」
《最重要です》
「二回言わなくて結構です」
添えられた紙を読む。
《帰宅後、身につけた》
次。
《夕食を食べた》
次。
《少しずつ気持ちが静かになった》
栗OS。
《栗の効果》
つづりちゃんは首を振った。
「そう決めない」
《では、栗を含む複合効果》
「科学っぽく言っても駄目です」
《帰宅・夕食・栗》
余白OS。
《帰ってきた》
二者が止まった。
つづりちゃんも、少しだけ手を止めた。
「……それかもしれませんね」
人とのやり取りで疲れた。
家へ帰った。
小さな栗を胸元につけた。
夕食を食べた。
全部が解決したわけではない。
嫌だったことが、嫌ではなかったことになったわけでもない。
ただ、職場にいたときよりも、少し自分の側へ戻ってきた。
つづりちゃんは、栗のペンダントをそっと机へ戻した。
「このペンダントは、何の資料でしょう」
栗OS。
《栗》
「もう少し広く」
《帰宅》
余白OS。
《戻るための手がかり》
つづりちゃんは、その表示をしばらく見ていた。
「保留にしましょう」
栗OS。
《せっかくいいところまで来たのに》
「だからです」
《?》
「いい言葉が出たからといって、すぐに作品にしなくてもいいでしょう」
栗OSは黙った。
余白OS。
《同意》
「あなたは当然そう言いますよね」
次の資料。
二つの文章が並んでいる。
片方は、とても短い。
片方は、少し長い。
同じ一日について書いたものだった。
短い方の横には、《反応 0》
長い方には、《反応 あり》
栗OS。
《結論》
つづりちゃんは先回りした。
「出しません」
《長文が優れている》
「出しません」
《変更成功》
「今回はそうだった可能性があります」
《では次回も長文》
「それも分かりません」
栗OSの表示が点滅する。
《難しい》
「何がですか」
しばらくして、文字が出た。
《何かが起きると、意味を決めたくなります》
つづりちゃんは、少しだけ笑った。
壁には何も出なかった。
「余白OS?」
返事がない。
「こういうときこそ何か言うところでは?」
少しして。
《いま、言わない余白を実行しています》
「便利ですね、その理屈」
栗OS。
《ずるい》
《通常動作です》
資料室が静かになった。
つづりちゃんは、部屋を見回した。
棚には、名前のないものがたくさんある。
使わなかった台詞。
まだ登場していない人物。
きれいだった色。
雨の日の記憶。
食べ物。
壊れた傘。
光るもの。
昔好きだったもの。
今日好きになったもの。
何年も残るもの。
明日にはどうでもよくなっているかもしれないもの。
現実から来たもの。
物語から来たもの。
そして、どちらから来たのか、もう分からなくなったもの。
「そういえば」
つづりちゃんが言った。
「あなたたち、出身が違うんですよね」
栗OS。
《現実世界》
余白OS。
《本編》
つづりちゃんは、自分を指した。
「私は?」
栗OS。
《十三年》
「雑ですね」
《記録》
余白OS。
《続きを綴ってきた時間》
つづりちゃんは少し黙った。
「……それでいいことにします」
三者がそろう理由は、たぶん、それだった。
現実から来たもの。
物語から来たもの。
その間を綴るもの。
どれも、現実世界だけでは三人そろわない。
物語世界だけでも、やはりそろわない。
だから、ここにいる。
創作資料室。
現実と物語の、あわいにある部屋。
栗OSが表示した。
《では、この部屋は誰のものですか》
つづりちゃんは答えられなかった。
余白OSも、すぐには表示を出さなかった。
しばらくして。
《未定》
栗OS。
《またそれ》
つづりちゃんは笑った。
「でも、たぶん、それでいいんです」
机の上を片づける。
《物語 1-5まで》
棚へ。
《もっと読んでほしい》
棚へ。
《人とのやり取りに疲れた》
そのまま。
《小さな栗のペンダント》
小さな箱へ。
《帰って食べた夕食》
記録へ。
《書き直した日記》
二つとも残す。
そして、棚を一段だけ、空けておいた。
栗OS。
《ここは?》
「空けておきます」
《何を置く》
「まだ分かりません」
《いつ来る》
「それも分かりません」
余白OS。
《正常》
栗OS。
《何もないのに?》
つづりちゃんは、部屋の奥を見た。
そこには、小さな札がある。
誰が掛けたのかは、誰も知らない。
本編の建物が書いたものでもない。
つづりちゃんが作ったものでもない。
気がついたときには、そこにあった。
《全部使わなくてよい。》
栗OSが札を見る。
《使わなかったら、もったいなくありませんか》
つづりちゃんは考えた。
「使わなかったものも」
少し間。
「ここにあった時間まで、なくなるわけではありませんから」
栗OSは、珍しく長く黙った。
やがて。
《では》
《今日の栗も、物語にならなくていい》
「はい」
《青い自転車も》
「はい」
《嫌だったことも》
「はい」
《五つまで進んだ物語も》
つづりちゃんは、そこで少し笑った。
「それは、もう物語でしょう」
栗OS。
《あ》
壁。
《記録》
つづりちゃんは、新しいノートを開いた。
日付を書こうとして、やめた。
ここでは、昨日と今日と物語の中の時間が、ときどき混ざる。
代わりに、一ページ目へ書いた。
《創作資料室・記録01》
その下に。
《あわいにある部屋》
最後に、少しだけ空白を残した。
栗OSが訊いた。
《書き忘れ?》
つづりちゃんは首を振った。
「余白です」
壁には、何も表示されなかった。
たぶん。
それが、余白OSの返事だった。