メインコンテンツへスキップ
見出し画像

地味な恋愛|境界の翻訳ー上海⑤ー



    夜、玄関前の鉄格子。
    踊り場で頬が触れる。

    行き来する言葉。
    一歩遅れる返事。

    不自由さに酔う。
    肺が熱い。

    ひんやりした口元。
    止まらない。

    けたたましい音。
    止まない工事。

    古いレンガを割っている。

    ⸻

    vickyというイングリッシュネーム。
    チャットの絵文字。

    ノートPCの左隅で、
    音が鳴る。

    使っていなかったhotmail
    Microsoftのチャット。


    ピョコつく顔文字。
    髭のメガネ。

    日本ではもう古い顔。

    迷いがない言葉が
    流れ落ちる。

    ⸻

    言葉が落ち着く。

    指でなぞる
    手の圧を返す。

    電気を消す。

    ベッドに寝転ぶ。
    半裸のまま。

    インインは最後を拒んだ。
    何度も。

    熱が引いていく。
    僕にはよく分からなかった。

    「バル イーガ」

    おねだりに近い上海語。

    僕が言うと変な言葉。
    語尾にバをつける。

    バルイーガ バ

    何度も言うと、
    口元を押さえて笑う。

    線が引かれる。

    笑うと安心した。

    ⸻

    教科書を閉じる。
    Tシャツが落ちる。

    処理をしていない脇から、
    か細い毛が伸びている。

    暮らす姿は、浮かばない。

    好きという言葉は
    交換し終わっている。


    ⸻

    ある日、
    父のマンションに、
    大きな壺が届いた。

    インインの母
    センスーからの贈り物だった。

    朱さんは言った。

    センスーは娘を使って、
    あなたの父親に金をせびろうとしているのよ。

    あんな大きいだけの安物を
    送り付けて
    親類にでもなったみたいじゃない。

    何も返せない。

    父は中国人と付き合うってことは
    覚悟がいると脅してきた。

    70年代末の北京、
    会社の後輩が中国人と結婚した時は

    奥さんの親戚全員に
    トランジスタラジオを
    配った話を聞かされた。


    何が満ちれば
    父の繰り返す覚悟が
    出てくるのか。

    僕にはわからなかった。


    ← 前の話 | 全話一覧 | 次の話 →