
普通に殺される僕ら|2話
初めて彼女と話をしたのは、去年の秋ごろだった。ブレザーを着用する人が増えてきたころで、僕はこの服の移行期間が苦手だった。カッターシャツ、ベスト、セーター、ブレザー。この組み合わせをちょうどよく考えないと、指摘をされる。例えば、日付で有無を言わさず衣替えが強制されるなら、どんなに楽だろうと思う。
その日、僕は正解が分からなくて、シャツの上にベストとブレザーを着用していた。友人たちに「暑くない?」と聞かれ、笑ってやり過ごしていた。汗をかいて濡れたシャツは気持ちが悪かったけれど、脱ぐこともできない。
学校の終わりを告げるチャイムが鳴ったときは、ようやく家に帰れると安心したのを覚えている。部活に入っている友人たちと別れ、一人でいつもの道を歩いていた。下校時の道は静かで、風がとても気持ちよかった。
「ねえ、君」
アルトの落ち着いた声が、はっきりと僕の耳に届いた。目の前には僕以外誰もいない。念のため振り返ってみると、茶髪の女子が僕を見ていた。胸元まである長い髪が風で揺れている。顔にかかる髪を指ですくって耳にかける女子は、クラスにいる女子と違って高い声を出して寄ってくることはなかった。
違うクラスだったが、彼女のことは知っていた。というより友人たちの会話で何度か話題になった人だから覚えていた。人を「君」と呼ぶ、変わった女子だ。
「これ落としたよ」
無言のままの僕に構わず、彼女は見覚えのあるハンカチを僕に差し出した。反射的にポケットを探り、それが僕のだと確信する。
「ありがとう。えっと」
「どういたしまして」
ハンカチを受け取ったあと、彼女を見れば、既に用は終わったとばかりに僕の横を通り過ぎようとしていた。通り過ぎざまに刺さる僕の視線に気がついたんだろう。「なに?」と面白くなさそうに口元をつりあげる。
特に用事はない。ただ、つい見てしまった……それを言葉にするのは、恥ずかしい。
なにを想像したのか、彼女は嗤った。短く切られた前髪は彼女の表情を隠さない。彼女は意地悪い笑みを浮かべながら僕の顔を覗き込む。
「君、もしかして私のことが分からないの?」
もしかして前に話したことがあっただろうか。ドキリとして、僕の口はつりあがる。
「え? 分かるけど、ね」
「名前が分からないってとこ?」
「そうだね」
それだけだ。僕は頷いて、彼女は「ふうん」と答える。気がつくと、僕と彼女は並んで歩いていた。
「君はもしかして、私に限らず人の名前を覚えるのが苦手?」
「まあ、そうだね。覚えようとしても、覚えられないんだ」
「馬鹿だね」
聞き間違いかと思って彼女を見れば、悪びれることもせずに笑みを浮かべている。
「覚えられないんじゃなくて覚えるつもりもないんでしょ。興味ないだけだよ」
きっとここは否定するか、彼女に対して嫌悪感を覚えるべきだった。でも、納得してしまって、反応が遅れてしまった。
「興味がない……そっか、そうかも」
「つまるところ、どうでもいいってところ」
攻撃的な言葉を口にする彼女は、じっと僕の目を見る。女子にしては背が高く、視線が近いのは新鮮だった。先に視線を逸らしたのは彼女。僕はその背が離れる前に、歩き出した。
「君は変わってるね」
「あなたがそれを言う?」
彼女は足を止め、今度は僕が彼女を追い越してしまった。彼女は不思議そうな顔をしていて、気まずくなってしまう。空気にあてられて、馴れ馴れしく話しかけてしまっただろうか。彼女は小さく首を傾げた。
「あなた、って。それ、私のこと?」
「ええ? そう、だね。名前知らないし」
「ふうん……いいね。それでいいや」
「何が?」
「別に?」
彼女は歩き出して、簡単に僕を追い越そうとする。だから僕もまた歩き出して、不思議になった。ただ見送ればいいだけなのに、なぜこうして一緒に歩こうとしているんだろう。まるで──そう考えて思い出した友人の笑顔に、僕はすべきことが分かった。
「僕は森本(もりもと)って言うんだ。あなたは?」
「私はあなた、君は君だね。それだけでよくない?」
当たり前の自己紹介を拒否する彼女は普段からこうなんだろうか。きっと眉を寄せる人が多いだろう言葉を、抵抗なく、それどころかまっすぐに目を見て口にする。不思議で、思わず口が滑る。
「君を森本に変えるだけなのに?」
「……あはっ!いいの」
彼女が、笑った。そして「やっぱり君は変だ」と言って、楽しそうに歩き出す。僕は足を止めて、彼女の背中を見てしまった。そして、気がつけば早足で隣に並んでいた。別れ道にさしかかるまでのとりとめのない会話では、僕は彼女のことを「あなた」と呼んで、あなたは僕のことを「君」と呼んだ。
それは僕の代わり映えのない日常に大きな変化があった日だった。
そして次の日、廊下で出会った彼女に声をかけようとして、どう呼べばいいのか悩んでしまった。他にも生徒がいるなか「あなた」と声をかけるのに抵抗を覚えている間に、彼女は僕の隣を通り過ぎていく。友人たちとの会話で、彼女が広瀬奈津という名前だったことを知っても、僕は声をかけることができなかった。
僕はすっかり日常に戻ってしまった。ときどき見かける彼女の姿を目で追うようになったぐらいが関の山で、心に引っかかりはあるけれど、どうにかしようともなれなかった。授業の合間に思い出す彼女の「どうでもいい」という言葉が妙に苦しくなるだけだ。きっと彼女にはそうだったんだろう。だからこそ、彼女はまた悪びれなく、突然僕に話しかけてきたんだ。
「君、また一人?」
いつもの下校時に、あなたはまた現れて、僕に話しかけた。
「あなたもそうでしょ」
「それもそうだね」
君は笑った。
そして彼女と、学校では関わることのない奇妙な関係が、僕の日常になった。