
普通に殺される僕ら│最終話
まるで嘘みたいなあっという間の出来事。
広瀬を突き落としたはずなのに、何を見てもいつも通りで、あれは夢だったのかと思いさえした。
今日も帰ってこない両親。ご飯を温めている間にお風呂掃除をして、お湯はりをする。ピーッと鳴る電子音を聞きながら冷たくなった洗濯物を取り入れて畳めば、ちょうどよくご飯が冷める。よく分からないお笑い番組の笑い声を聞きながらご飯を食べて、ユラユラ揺れるテレビの映像を見続ける。食べ終わったあとは食器を洗って、着替えを用意したら階段から降りて、お風呂に入る。
すべてがいつも通り。
手を見ても、なにも残っていない。
なにもなかった。
なにも。
──広瀬が自殺したんだって。
教室にいた友人が、僕を見るなり駆け寄ってきて、開口一番にそう言った。
その瞬間、僕は、夢から覚めた。辺りを見渡すと、ショッキングなニュースに不安や戸惑いが見て取れたけど、誰も僕を見ていない。次から次へと最新とされる情報が流れる──その中に、僕の話はない。
──広瀬、笑ってたんだってよ。
笑っていた。
その通りだ。
でも、誰がそんなことを言ったんだろう。管理人さん以外にも誰かいた?
──隆明ごめん。お前ってさ、思ってたより広瀬と仲が良かった感じ?さっきすげえ嫌な言い方しちゃったよな。ごめん。
いいんだよ。仲は良くなかったんだ。僕も君と同じぐらい、彼女にとってどうでもいい奴だった。本当に仲が良かったら、僕は彼女の未練になれたのにね。僕はただのその他の一人だったんだよ。
──広瀬さん、可哀想。
お前が広瀬のなにを知ってるんだよ。……もしかして、広瀬が言っていたあの子? それなら……縁が切れたと広瀬が思い込んでいただけで、そうじゃなかった。もしそうなら……でもそれって。
──広瀬さんのために、皆で一緒に祈りましょう。
広瀬の一番嫌がっていたことをして、それを手向けとするんだ。見て見ぬふりしていたのに、こうなって初めて広瀬のことを口にしてるんだから笑える。ああ、でもそうしとかないと、次の広瀬になるんだ。
だから皆こうやって目を閉じるんだろう。
めんどくさいね、広瀬。
そうだろ。
そうだよね。
──実は一人が寂しかった、とか──君は馬鹿だね──なんか、俺らとは違うなーみたいな感じで──君は息が詰まらないの?──変なこと言ったな──君も来る?──じゃあまた明日!
たくさんの声が聞こえる。
喉は枯れて、ふらふらの足、ズキズキ痛む脇腹、吐瀉物がついた手。
最悪の気分だ。
まとわりついてくるたくさんの出来事が、夢を現実にする。そればかりか、考えもしなかった可能性を浮かび上がらせた。
嫌だ嘘だ、そんなはずない。
馬鹿な僕は必死に否定して歩き続ける。認めたら生きていられない。許せない。
目尻から流れる涙は、なんのために泣いているのか分からない。広瀬を殺してしまったことなのか、勘違いしていた自分の馬鹿さに泣いているのか、取り返しのつかないことをしてしまった罪悪感と恐怖なのか、広瀬にもう会えないからなのか──もう、なにもかも分からない。
「ははっ」
辿り着いた灯台への入り口を見て、僕は思わず笑ってしまった。
現実が、目の前に現れた。
ザザン。
波の音。
灯台に続く一本道は、あの崖を思わせた。崖を隠す灯台の先はどうだろう。
僕は道に置かれた真新しいロープに近づく。崖の入り口に引かれた黄色と黒の縞模様のロープには、立ち入り禁止の看板が吊り下げられ、揺れている。
僕が欲しかった首輪に紐があるとしたら、これだろう。ユラユラ、ゆらゆら。
──これ意味ないと思うんだよね。
「僕もそう思う」
僕はロープを跨いだ。
顔をあげれば、薄暗いだけなのに、まるで別の世界のような景色が広がっていた。
それでも、ロープを跨いだ瞬間、ぐちゃぐちゃになっていた心が嘘のように静かになる。
トク、トク、トク。
心臓の音が聞こえる。風の音と波の音が耳に響く。海の香りを吸い込んで大きく息を吐けば、太陽に照らされた景色が見えるようだった。
──たすけて。
広瀬の最期の声が聞こえて、僕は歩き出す。
あなたの驚いた顔が頭の中から離れない。
あなたの顔は見えなかった。
笑っていた。笑っていたはずだ。彼女はそうなることを望んでいたはずだった。
でもあなたは、まるで溺れているように手を大きく動かして何かを掴もうとした。あなたの手は、僕の手も地面も掴めなかった。そればかりか、自分の身体を支えようとした足が滑り、崖の端に打ち付けてしまう。悲鳴のように上がった「助けて」という言葉はほとんど形になっていなかった。最後の言葉の切れ端は崖の下に吸い込まれていったからだ。
あなたは、広瀬は、彼女は──死にたくなかった?
あなたは、死ぬことに憧れめいたものを持っていたとしても、死にたくなかった? そうならないように、吐き出していただけ? どうなんだろう。もう、分からない。分からないんだ。
ねえ、広瀬。
僕はね、僕があなたにとってどうでもいい奴らの一人でしかないのなら、せめて、僕をおいて一人になろうと、すべてを終わらせようとするあなたを、この手で終わらせたかった。
ねえ、広瀬。
どうなんだろう。
もしあなたが死にたくなかったのなら、あなたを突き落とした僕は?
……ただ、あなたを殺しただけになる。
驚いた顔。
あなたは自分を突き落とした僕を見てなにを思っただろう。あの子のことで心に傷を負っていたのを知っていたのに、僕が、僕は。
──君はどっちが好きだろ。
どっちでもいいよ。それよりも、あなたと一緒にいたかった。
──君は不思議だね。
「馬鹿なだけだよ」
フェンスを越えながら、笑って答える。
「僕、もう駄目だろうね」
関係が崩れるのは、一瞬だ。
興味本位で飛び交う噂や憶測が、次の広瀬を探している。僕はうってつけのネタになるだろう。誰もが認める選ばれた排除対象として、裁くのを待っている。
簡単に思い描ける光景に、顔が歪んだ。
「めんどくさいね」
目の前は何もない。
眩しい青空も白波立てる青い海も、薄暗く塗り潰されている。けれど冷たい風が昨日とまるで同じで、すぐ近くに彼女がいるような気がした。
──ねえ、死んじゃうよ。
彼女の言葉に笑う。
僕は手を広げて見た。彼女がしたように、全てから解放されたように両手を広げて、何も考えずに深呼吸をした。目を閉じれば、眩しいほどに照らされた青空に青い海。
崖の端では、あなたが背中を向けて立っている。
「広瀬」
──なんだい、君。
あなたが振り返って、笑った。
ジャリ。
足元から聞こえてきた音は拍手のようだ。
僕は今度こそ間違えたくなくて、広瀬の手を取り、そのまま抱きしめる。
風が、背中を押してくれた。
- 完 -
最後まで読んでくださってありがとうございました。