空の水筒から、水は注げない舟の語り#5🐯🛶
誰かのために頑張ることは、大切なことです。
けれど、その「誰か」の中に、自分は入っているでしょうか。
いつもの舟の上で、男は以前から気になっていたことを口にした。
「船頭さん。」
「今日は何だ。」
「最近、『自利利他』という言葉を知ったんです。」
船頭は櫂を動かしたまま答える。
「ほう。」
「自分のため、人のため……そんな意味らしいんですが、いまいち分からなくて。」
男は少し言葉を探した。
「自分を大切にすることと、人を大切にすることって、両立するんでしょうか。」
船頭はそこで櫂を止めた。
「お前は、どう思う。」
「僕は……どちらかを選ぶものだと思っていました。」
「自分を優先すれば、誰かを後回しにする。人のために動けば、自分を後回しにする。」
男は湖面に目を落とした。
「両方なんて、できるんでしょうか。」
船頭は何も答えず、舟の中から二つの水筒を取り出した。
一つは水で満たされ、もう一つは空だった。
「空の水筒から、水は注げるか?」
「……無理ですね。」
船頭は満たされた水筒から、空の水筒へ水を注いだ。
「じゃあ、これは?」
男は二つの水筒を見つめる。
「自分に水があるから……誰かに分けられる。」
船頭は何も言わず、水筒を舟に戻した。
男はしばらく考えてから、もう一度口を開く。
「自分を満たすことも、必要なんですね。」
「そうだな。」
船頭は再び櫂を握った。
櫂が湖面を押し、小さな波紋が舟の外へ広がっていく。
男はその波紋を眺めながら、二つの水筒を思い返していた。
「自分のためと、人のため。どちらかじゃないのか……。」
そして、小さくつぶやく。
「これが……自利利他なんでしょうか。」
船頭は穏やかに笑った。
「舟も同じだ。」
「え?」
「漕ぐ者が倒れたら?」
男は少し考える。
「……向こう岸へ行けない。」
「そうだ。」
男は舟の中に置かれた水筒を見る。
「だったら……まず、自分が漕げる状態でいないといけない。」
船頭は小さく頷いた。
「そういうことだ。」
男はこれまでを思い返した。
家族のためだからと、眠る時間を削った夜。
自分の時間が欲しくて、家族との会話を上の空で聞いていた日。
自分だけでも。
誰かだけでもない。
どちらか一方だけを見ていては、舟は真っすぐ進まないのかもしれない。
船頭は何事もなかったように、再び櫂をゆっくりと動かす。
男はその背中を見つめていた。
「船頭さんは、どうなんですか?」
「何がだ。」
「こうして誰かを舟に乗せるのも……船頭さんなりの利他なんですか?」
船頭は答えず、しばらく舟を漕いでいた。
水をかく櫂の音だけが、静かな湖に響く。
やがて、船頭が口を開いた。
「私は道を知っているわけではない。」
男は黙って聞いている。
「少し先を漕いできただけだ。」
船頭は遠くの湖面へ目を向けた。
「だから、渡せる景色がある。」
男はその言葉を胸の中で繰り返した。
――渡せる景色。
自分にも、そんなものがあるのだろうか。
いつの間にか、湖に白い霧が立ち込めていた。
舟も。
湖も。
船頭の背中も。
少しずつ白の中へ溶けていく。
櫂が水をかく音だけが、遠くに聞こえていた。
男が目を開ける。
そこは、自宅の机の前だった。
目の前には、開いたままのパソコンがある。
男はしばらく画面を見つめていた。
そして、ゆっくりと文字を打ち始める。
『私の経験は、誰かの航路を照らす灯りになれるだろうか。』
答えは、まだ分からない。
けれど、その問いから、新しい物語が生まれようとしていた。
船頭が男に見せた、二つの水筒。
誰かに水を分け続けて、自分の水筒が空になっていないでしょうか。
あるいは、自分の水筒を満たすことだけに夢中になっていないでしょうか。
今のあなたの水筒には、どれくらい水が入っていますか?
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自分を大切にすることは、誰かのためにもなる|船頭の道しるべ#5
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→「人生の航海図」
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