人は一人では生きられない|舟の語り#9🐯🛶
一人で漕ぐ舟には、自由がある。
二人で漕ぐ舟には、支え合う強さがある。
では、二人でいれば、それだけで長い航海を続けられるのだろうか。
男がその答えを考えることになったのは、舟が動かなくなった夜だった。
---
その日の湖は、いつもより風が強かった。
男は舟のへさきに座り、月明かりに揺れる水面を眺めていた。
船頭が櫂を入れるたび、細かな波が舟べりを叩く。
「船頭さん。」
「なんだ。」
「前に、一人で生きることと、誰かと一緒に生きることを話しましたよね。」
「ああ。」
「一緒に進む相手がいれば、それで十分なんでしょうか。」
船頭はすぐには答えなかった。
藍色の袖からのぞく虎縞の腕が、ゆっくりと櫂を押し出す。
「お前は、どう思う。」
「うーん……。」
男が考えようとした、そのときだった。
――ゴン。
舟の底から鈍い音が響いた。
舟が大きく傾く。
「うわっ。」
男は慌てて舟べりにつかまった。
船頭はすぐに櫂を止める。
「何かに当たった。」
「大丈夫ですか?」
船頭は舟の後ろへ移り、舵に手を伸ばした。
何度か動かしてみる。
しかし、舵は途中で引っかかり、ほとんど動かなかった。
「壊れたな。」
「え。」
男は周囲を見回した。
夜の湖には、自分たちの舟しか見えない。
「直せないんですか?」
「簡単なものならな。」
船頭は壊れた部分を確かめる。
「これは俺の仕事ではない。」
男は少し意外に思った。
これまで船頭は、迷うたびに何かしら道を示してくれた。
そんな船頭にも、できないことがあるらしい。
「じゃあ、どうするんです?」
船頭は湖岸へ目を向けた。
遠くに、小さな灯りが見える。
「風に任せる。」
「流されるってことですか。」
「ああ。今はな。」
男は少し不安になった。
けれど船頭は、いつもと変わらない顔で座っている。
二人を乗せた舟は、風に押されながらゆっくりと湖岸へ向かっていった。
---
しばらくすると、小さな船着場が見えてきた。
岸には作業小屋が一軒あり、窓から橙色の灯りが漏れている。
舟が岸へ近づくと、小屋の扉が開いた。
「おいおい。ずいぶん妙な入り方だな。」
低い声とともに、一人の獣人が姿を現した。
茶褐色の毛並み。
袖をまくった太い腕。
腰にはいくつもの工具がぶら下がっている。
男が目を向けると、その後ろで幅の広い平たい尾が地面を軽く叩いた。
船頭が舟から降りる。
「舵をやった。」
「見りゃ分かるよ。」
獣人は舟をのぞき込み、すぐにしゃがみこんだ。
「派手にぶつけたな。」
「直せるか。」
「誰に聞いてるんだ。」
そう言うと、作業小屋から道具箱を持って戻ってくる。
男は船頭に小声で尋ねた。
「知り合いなんですか。」
「まあな。」
獣人は耳をぴくりと動かした。
「聞こえてるぞ。」
「あ、すみません。」
「謝るほどのことじゃない。」
大きな前歯を見せて笑うと、すぐに舵へ向き直った。
金槌の音が、静かな港に響き始める。
男はその手元を眺めた。
迷いがない。
壊れた板を外し、削り、新しい木を当てていく。
船頭が舟を漕ぐときと同じように、
その手つきには長い時間をかけて身につけたものがあった。
「すごいですね。」
男が言う。
「何がだ。」
「すぐに直せるんですね。」
獣人は手を止めずに答えた。
「そりゃ、これが仕事だからな。」
しばらくして、今度は獣人の方から口を開いた。
「こいつだって同じだぞ。」
顎で船頭を示す。
「え?」
「舟は漕げても、何でもできるわけじゃねえ。」
船頭は黙って腕を組んでいる。
「俺は舟なら直せる。」
獣人は金槌を置いた。
「でも、舟を漕ぐのはからっきしだ。」
「そうなんですか?」
「ああ。昔、調子に乗って湖へ出てな。」
獣人が船頭を見る。
「帰れなくなったところを、こいつに拾われた。」
男は船頭を見る。
「船頭さんが?」
「ああ。」
船頭はそれだけ答えた。
獣人は鼻で笑う。
「だから今日は、俺の番ってだけだ。」
再び金槌の音が響く。
しばらくすると、獣人は舵を何度か動かしてから立ち上がった。
「よし。」
「直ったんですか。」
「これなら問題ねえ。」
船頭も舵を確かめる。
「助かった。」
「今度はもう少し丁寧に扱えよ。」
男も頭を下げた。
「ありがとうございました。」
獣人は片手を上げた。
「困ったときは、お互いさ。」
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舟は再び湖へ出た。
船着場の灯りが、少しずつ遠くなっていく。
男はしばらく、その灯りを眺めていた。
「船頭さん。」
「なんだ。」
「船頭さんも、誰かに助けてもらうんですね。」
「ああ。」
「何でも自分でできるわけじゃない。」
「そうだな。」
男は少し笑った。
「当たり前なんですけど、なんだか意外でした。」
風が湖の上を抜けていく。
男は自分の手を見た。
「僕は、人に助けてもらうのが苦手なんです。」
船頭は何も言わない。
「迷惑をかける気がするし、自分でできることなら、自分でやった方がいいと思っていました。」
男は遠くなった港を振り返った。
「でも、さっきの人を見ていたら……少し違うのかなって。」
「何がだ。」
「助けてもらうことって、ただ借りを作ることじゃないのかもしれない。」
男は考えながら言葉を続けた。
「あの人は昔、船頭さんに助けてもらった。」
「今日は船頭さんが助けてもらった。」
「じゃあ、貸し借りだと思うか。」
船頭が尋ねる。
男は少し考えた。
「……最初は。」
水面に映る月が、舟の揺れに合わせて崩れていく。
「でも、いつも同じ人に返すとは限らないですよね。」
船頭は黙っている。
男は湖を見渡した。
遠くに、いくつもの舟の灯りが見える。
「人とのつながりって、縄みたいなものだと思っていました。」
「縄?」
「一人と一人が、一本の縄で結ばれているみたいな。」
男は少し考える。
「でも……網なのかもしれません。」
船頭が男を見る。
「網か。」
「一本だけで舟を支えるんじゃなくて、たくさんの糸がつながっている。」
「どこか一本が切れても、別の糸が支えてくれる。」
男は自分の胸元へ視線を落とした。
「それに、自分も誰かを支えている一本なのかもしれない。」
船頭は少しだけ口元を緩めた。
「そう思えるなら、お前も少しは周りが見えるようになったらしい。」
「少しは、ですか。」
「少しだ。」
男は苦笑した。
---
舟は湖の中央へ戻っていく。
男は遠くに浮かぶ灯りを眺めた。
漁をする舟。
荷を運ぶ舟。
港へ帰る舟。
どれも別々の場所へ向かっている。
けれど、本当に一艘だけで進んでいる舟などないのかもしれない。
誰かが作った舟に乗り、
誰かが作った道具を使い、
誰かから聞いた道を進み、
誰かが灯した港へ帰る。
一人で漕いでいるように見えても、
その航海は、見えないところで多くの人に支えられている。
「船頭さん。」
「なんだ。」
「人って、一人では生きられないんですね。」
船頭は櫂を水へ入れた。
「一人で漕げる日はある。」
櫂が水を押す。
「二人だけで進める日もある。」
舟の後ろに、小さな波が広がっていく。
「だが――」
船頭は前を向いた。
「長い航海だからな。」
男も前を向く。
困ったときに、「助けて」と言えること。
誰かが困っているときに、できる範囲で手を差し出すこと。
すべての人と深くつながる必要はない。
ただ、自分の舟だけで海ができていると思わないこと。
「船頭さん。」
「なんだ。」
「次にあの港へ行ったら、僕にも何か手伝えるかな。」
「さあな。」
「そこは『できる』って言ってくださいよ。」
船頭は少し考えた。
「舟を押すくらいなら、できるだろう。」
男は笑った。
「それくらいなら。」
夜の湖には、
いくつもの舟の灯りが揺れている。
一艘だけなら、小さな灯り。
けれど、その一つひとつがあるからこそ、
暗い湖の中でも、
誰かは進む先を見失わずにいられる。
男たちの舟もまた、
その小さな灯りの一つとして、
静かに湖を進んでいった。
この舟旅をもう少し考えてみたい方へ
今回のテーマを、日常に引き寄せて考えた解説記事があります。
→誰かの舟を少し押す|「助けて」と言えることも自立のひとつ|船頭の道しるべ#9
前回の舟の語りはコチラから
→同じ舟で進むという約束|結婚について | 舟の語り#8 🐯🛶
「人生の船頭」を最初から読みたい方はこちら。
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