同じ舟で進むという約束|結婚について | 舟の語り#8 🐯🛶
誰かと並んで進むことと、
誰かと同じ舟に乗ることは、少し違う。
隣を進んでいるときには見えなかったものが、
同じ舟に乗ると、見えてくることがある。
今夜、男が船頭に尋ねたのは、
「結婚する」ということについてだった。
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その夜も、湖は静かだった。
月明かりの下を、一艘の舟がゆっくりと進んでいる。
男はへさきに座りながら、少し離れた水面を眺めていた。
そこには二艘の小舟が浮かんでいる。
同じ方向へ、並ぶように進んでいた。
「船頭さん。」
「なんだ。」
「ああやって二人で進むのと、結婚するのって、何が違うんでしょう。」
船頭は櫂を水に入れた。
藍色の袖の奥からのぞく虎の毛並みが、月の光を淡く受ける。
「お前は、どう思う。」
「また僕に聞くんですか。」
「考えている顔をしているからな。」
男は苦笑して、もう一度二艘の舟を眺めた。
「……隣を進んでいるだけなら、それぞれ自分の舟ですよね。」
「そうだな。」
「行きたいところが同じ間は、一緒にいられる。」
男は少し考える。
「でも、行き先が変われば、それぞれ別の方角にも行ける。」
船頭は何も言わず、櫂を動かした。
舟の横を、小さな波が流れていく。
「結婚すると……。」
男は今度は、自分たちが乗っている舟へ目を落とした。
「一つの舟に乗る、みたいなものなのかな。」
「ほう。」
「一人だけ右へ進みたくても、もう一人が左へ漕いだら……。」
男は両手で櫂を握る真似をした。
「舟は前に進みませんよね。」
「回るかもしれんな。」
「ずっと同じところを、ぐるぐると。」
男は笑った。
けれど、その表情はすぐに真剣なものへ変わった。
「そう考えると、結婚って不自由ですね。」
「不自由か。」
「だって、一人なら好きなところへ行けるじゃないですか。」
「疲れたら止まることだってできる。誰にも相談しなくていい。」
言葉にしているうちに、男は少し寂しそうに笑った。
「……でも、それだけじゃないんですよね。」
船頭がちらりと男を見る。
「何がだ。」
男は舟の床板に手を置いた。
「同じ舟なら、誰かが疲れた時、もう一人が漕げる。」
船頭は黙っている。
「病気になって、櫂を握れない時だってあるかもしれない。」
「迷って、どこへ進めばいいか分からなくなる時も。」
男は湖の先へ目を向けた。
「そんな時、一人の舟だったら止まってしまうけど……。」
「二人なら、もう一人が漕いでくれることもある。」
しばらくして、船頭が口を開いた。
「いつも二人で漕げるとは限らん。」
「え?」
「二人とも疲れている日もある。」
男は「ああ」と小さく頷いた。
「ありますね。」
「相手が漕いでくれると思っていたのに、向こうも同じことを考えている日もある。」
「……それも、ありそうです。」
「同じ舟だからこそ、揺れも伝わる。」
船頭は櫂を一度止めた。
舟が静かに揺れた。
「片方が迷えば、舟も揺れる。」
「黙り込めば、その沈黙も同じ舟の上に残る。」
男は何も言わなかった。
少しの間、湖を渡る水音だけが続いた。
「それでも、一緒の舟に乗るんですね。」
船頭は男を見た。
「お前なら、なぜ乗る。」
男はすぐには答えなかった。
家にいる妻の顔を思い浮かべた。
一緒に笑った日。
くだらないことで喧嘩した日。
どちらも疲れて、ほとんど言葉を交わさなかった夜。
それでも朝になれば、
台所から聞こえる物音があり、
眠そうな声で交わす「おはよう」がある。
そんな毎日を、もう何度繰り返してきただろう。
「……好きだから、だけじゃない気がします。」
「ほう。」
「もちろん、それもありますけど。」
男は少し考えながら続けた。
「好きっていう気持ちは、ずっと同じ強さじゃないですよね。」
「穏やかな日もあれば、腹が立つ日もある。」
「相手のことを考える余裕がない日だってある。」
男は自分の手を見た。
「それでも、この人と進んでいこうって決めたから。」
船頭は櫂を水へ戻した。
ちゃぷん。
小さな音が夜の湖に響いた。
「約束というのは、気持ちを縛ることではない。」
船頭が言った。
「進む方角を確かめるためにあるのかもしれんな。」
男はその言葉を聞きながら、暗い湖の先を見た。
同じ舟に乗ったからといって、
ずっと同じ景色を見られるわけではない。
行きたい場所がずれることもある。
相手の櫂の音が、鬱陶しく聞こえる夜だってあるかもしれない。
だからこそ、ときどき櫂を止める。
「今、どこへ向かっている?」
「このままでいい?」
そう確かめながら、また漕ぎ始める。
結婚とは、
同じ気持ちでい続けることではない。
何度ずれても、
二人で方角を確かめ直していくことなのかもしれない。
男はふと笑った。
「結婚した日に、一度だけ約束するんじゃないんですね。」
船頭が眉を上げる。
「というと?」
「今日もこの舟で進もうって。」
「たぶん、毎日少しずつ決め直している。」
船頭は何も答えなかった。
ただ、わずかに口元を緩めたように見えた。
やがて舟は、静かな船着場へ近づいていく。
男は岸に降りる前に、もう一度舟を振り返った。
一人で漕げば、自由に進める。
二人で乗れば、思い通りにならないことも増える。
それでも――
一人では見られなかった景色を、
誰かと同じ舟の上から見ることができる。
男は家へ帰る道を歩きながら思った。
今夜は少しだけ、
妻と話をしてみよう。
「これから、どこへ行きたい?」
月明かりの向こうで、
舟を漕ぐ音が静かに遠ざかっていった。
この舟旅をもう少し考えてみたい方へ
今回のテーマを、日常に引き寄せて考えた解説記事があります。
夫婦の関係について、こちらの記事でも書いています。
「人生の船頭」を最初から読みたい方はこちら。
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