
水彩詩集!拝啓文芸部/雨の日の傘~なんだか「シェルブールの雨傘」みたい…
雨の降る港町・神戸は、煙るような灰色の霧の中に沈んでいた。埠頭に打ち寄せる波音が、静かに響いている。
洋菓子店でパティシエ見習いとして働く一真(かずま)と、異人館街にある叔母のアンティークショップの手伝いをする美咲。
二人が出会ったのは、一筋の強い雨が降り出した、三宮のアーケードの切れ目だった。
一本のビニール傘を分け合い、濡れたショルダーバッグをかばい合いながら走ったあの日から、二人の世界は雨の匂いと共にあり続けた。
「俺、一流のパティシエになって、絶対に自分の店を持つんだ!」
「私もいずれは、京都の母のアンティークショップを引き継ぐつもりよ。そうだ!アンティークショップで、珈琲とスイーツが出せるお店にしたら、きっと上手くいって、大繁盛するはずよ♡」
二人は将来を見据えて、淡い未来予想図を描いていた。
美咲の祖父は骨董の世界で財を成した人で、神戸の老舗は叔母(祖父の長女)が切り盛りし、京都の店は美咲の母(祖父の次女)に任せていた。
そんな美咲に転機が訪れる。
祖父が事業の将来性を見込んで、美咲にヨーロッパで、アンティーク勉強をさせて呉れると提案したのだ。それは美咲にとって願ってもない話だった。
「私、フランスに行くことになったの。アンティークの目利きを本格的に学ぶために」
ポートタワーの灯りが雨の海に滲(にじ)む夜、美咲は小さな声で告げた。
一真の手には、彼女の誕生日に贈るはずだった、深緑色の高級な長傘が握られていた。
「行くな」と言えば、美咲は留まって呉れたかもしれない。
だが、修行中の身である一真には、彼女の未来を縛る権利も、パリでの生活を支える蓄えもなかった。不器用な愛しさは言葉にならず、ただ雨音だけが二人の隙間を埋めていく。
「応援するよ。美咲の念願の夢だから…」
無理に作った笑顔は、傘の影に隠した。

出発日の新神戸駅の新幹線ホーム。
土砂降りの雨の中、美咲は深緑の傘を持っていた。振り返り、何度も手を振る彼女の姿が、雨の幕の向こうへ消えていく。
それが、ふたりの最後の記憶だった。
… …それから、五年。
神戸の街は変わらず、季節ごとに優しい雨を降らせていた。
一真は念願の小さな自分の店を持ち、かつての傷も、日々の忙しさの中に穏やかな記憶へと変わりつつあった。
晩秋の冷たい雨が降る午後。
一真は仕入れの帰りに、元町商店街の軒先で雨宿りをしていた。ふと目線を上げると、通りを横切る一人の女性の姿があった。
仕立ての良いコートに身を包み、幼い男の子の手を引く女性。その手に握られていたのは、使い込まれた深緑色のあの長傘だった。
「……美咲?」
声にはならなかった。彼女はふと立ち止まり、吸い寄せられるように一真のいる軒先へと視線を向けた。
一瞬、息が止まった… 時が止まった。
美咲の瞳が揺れ、言葉にならない驚きと悲しみが走る。
その傍らで、小さな男の子が「ママ、早く行こう」とスカートの裾を引っ張った。美咲の薬指には、小さく光る銀色の指輪。
一真は察した。彼女は帰って来たのだ。自分の知らない時間と、新しい人生を携えて。
歩み寄ることも、言葉を交わすことも出来なかった。近づけば、互いが築いて来たそれぞれの現実が崩れてしまうことを、二人は痛いほど分かっていた。
一真は静かに微笑み、小さく頷(うなず)いた。美咲もまた、溢れそうになる涙を堪えるように唇を噛み締め、深く、深く、一礼した。
再び走り出した雨の中、深緑の傘が遠ざかっていく。
二度と交わることのない二人の人生。
けれど、あの日に、分け合った一本の傘の温もりだけは、降りしきる雨の音と共に、いつまでも胸の奥で静かに鳴り続けていた。
なんだか「シェルブールの雨傘」みたい… …。
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