
マーキングする男
( 6,725文字 所要時間約10分 )
朝、電車に乗る前いつも立ち寄る駅前の喫煙所での事だった。
10人ほど入れば窮屈感を感じる小さな喫煙所だ。最近は煙の出ない便利な煙草を嗜む人も多いので、ひと昔前のモクモクと煙る不健康な雰囲気はあまりしない。
私は毎朝そこで一本吸いながら、その日の予定や直近片付けなけらばならない雑事などを整理確認する。
今日中にデータまとめないと間に合わんな
靴汚れてんなぁ
次の休み買わなきゃならない物、あれ、なんだっけか、あれ、忘れてもうたな…
その日、煙を吹かしながら考えてたのは、
風呂の排水溝の事だった。わずかに匂いを放つようになって来たので洗浄せねばならない。
網に絡まる毛の塊を思い浮かべていた時、それは聞こえた。
ブフォッ
隣で私に背を向けて喫煙している男のだった。
放屁の音だった。
社会という公衆の空間。にも関わらずおかまいなしに屁をこく殿方は多い。下品な生き物である。
そんな時、こいた男もこいてない男もたいがい平然としている。「うわっ」とか「はいぃ⁈」とか
驚いたり喚いたりする者もいないし、いやんっとか言って口を押さえながら内股気味に立ち去る者もいない。少なくとも私は見た事がない。
明日は我が身、誰しも事を荒げずにしれっとやり過ごす。
ただ、香気を伴うケースであればいくらかの防衛策は必要だろう。私もその時は念のため煙を吸う力を弱め、万が一にも吸引してしまわぬよう鼻と神経を研ぎ澄ます。そんなものは体内に摂り込みたくないのだ。
その男はキャスケットというのだろうか、紺色のそんなのをかぶっているズングリした男だった。
私は念のため鼻をひくつかせ、それが香気を含まない暴発であった事を確認すると、
まあ…、まあまあよかろう。不慮の突発事故、
そういうことにしようや。見逃したるわ。
そんな風に半ば思いを仕向けながら、一度頭から離れかけた排水溝の絵柄をもう1度呼び戻す。
屁だの毛だので始まった1日の始まり、あまり気分はよろしくないが、違う事を考えよう。
煙草を揉み消し、気を取り直して喫煙所を出た。
改札を通り、階段で下階のホームへ降りる。
だいたいの通勤者がそうであるように、私も乗車口は決めている、先頭車両の3つ目のドアだ。
ホームに降り立ちその位置へ向けて歩いていると5〜6メートル前方に同じ方向へ歩くズングリ体型の男がいた。キャスケットをかぶっている。
さっきの放屁男だった。
心で「ぬわっ」と呟く。よりによって。
私と同じスピードリズムを刻み歩いているので、距離は縮まらない。見なきゃ良いものを、背後から見える尻周辺には先ほどの余韻がチラついて見える様な気がした。
嫌な予感がした。
いつもの乗車ポイントが近づいてくる。予感は当たった。キャスケットは「この辺りでいっか」みたいな軽い様子で、あろうことか私がいつも乗るその乗車口に立ったのだ。
マジっすか… そこっすか
長年に亘り体に染み付いた慣習は正直だ、同じ乗車口が憚れるのであれば、ひとつやふたつ場所をずらせばそれで済むものを、私の足はキャスケットの真後で当然のように動きを止めた
デジャヴ。その後ろ姿はついさっき見た残像に寸分の狂いもなく重なる。なにやら不潔な空気に自分が包まれてる様な気がして来た。
慎重にひとつ、でも浅く深呼吸をする。
待て待て。なんてことないではないか。このいくらかの不快感違和感の原因はたかがひとつの屁。屁ごとき、時間にして0.5秒程度の空気の噴出、ただそれだけのことだ。サブリミナル効果でももう少しあらうかという刹那一瞬、その幻のやうな瞬間にたまたま、たまたま私が居合わせた、ただそれだけではないか。
たまたま居合わせたと言い聞かせといて、いやいやそれじゃ不運極まりないやないかいっとツッこみ、針が不運側にグインと振りかけたのを必死で引き戻す。
大丈夫、なんてことない、なんてことないのだ。平気平気。
少し、いくらか、なんとなく落ち着いて来た。
気を取り直しスマホでnoteを覗いてみたりする。
ふうぅ… やれやれ
お、コメントがひとつ入ってるやあん、嬉し
この時は思考が平常運転に戻りつつあった。
キンコン
ホーム天井のスピーカーから電車が入って来る合図音が流れる。
「まもなく3番線にはぁ… 」
立っている乗車口には私とキャスケット他7〜8人が並んでいたはずだ。
左奥から来る電車の先頭が見え始めた。スマホをポケットにしまう。
車両が音を立てながら我々の前に差し掛かかろうとするその時だった。
バウッ
…
人間の脳というのは極めて複雑である。空前絶後、理解不能な現象に遭遇した時、混乱した脳は思いもよらぬ信号を全身に送信するのだ。
その瞬間、自分の体がグルっと180度時計回りに反転、ホーム地面と頭の間に10cmほどの隙間を残してふわり浮いているような、とってもシュールな感覚に陥った。なぜか小学校時代に見た運動会の日の曇り空が一瞬掠める。
紛れもない放屁の音、とぅーびーこんてにゅー
パート2、キャスケットがまたこいたのだった。
見も知らぬレッドな他人から2発の屁、しかも5分間程度というわずかな間に、五万といる群衆の中の私1人だけが直にそれを続けて浴びるという、おそらく世界広しと言えどそんな希少な体験をしたのは今ここにいる私くらいではないのか。
そんな自負が猛烈に内から込み上げて来た。選ばれし英雄、唯一無二の。いやそれは孤高の人か。
反転していた風景から意識が戻りつつ我に帰ると私は憤慨という名の壺の中にいた。
なんという、なんという男なのだこいつは。
いささか乃木坂あり得ない。
何を平然としとるのだ。こらお前だ。お前のことだよキャスケット。わかってるのかお前。
停車した車両の扉が開く。
降りる乗客がいるので、我々は一度左右に避けるその時、気のせいかパート2は香気を伴って私の鼻腔を通過した様な気がした。急に不快感が迫り上がって来る。
分からない、それは線路から昇る鉄の匂いだったのかもしれない。もうどちらでも良かった。
もうまっぴらゴメンだ。電車に乗り込む。
もうキャスケットとの関わりを断絶するべく、乗込む方向を見極める。キャスケットが左奥へ乗込むのを確認し、私は当然ながら右へ傾れ込む。奥へ進み空いたスペースに身を滑らすと、目の前で座っていた若者が急いで下車して行ったのを見てその勢いのままタイミングよく着座した
わずかなご褒美か。いやいや全然釣り合わん。
絡みついてるような気がする邪気を取り払いたかったのだろう、座ると同時にひとつ大きく息を吐いた。上を向きながらだと臭い息を撒き散らしてしまう。俯きながらだ。そんな時でも私は配慮というものを忘れはしない。
キャスケットがいるであろう右方向に目を向けてみる。犇く乗客の群れの向こう側、もう姿も顔も見えない。
繰り返すが、見知らぬ男がどこで屁をここうが、どうでも良いのだ。フリーダムオブ放屁だ。
だがそれは、間近で被る他者がいない事が前提である。私は被った。ニア、超ニアでだ。久保建英のコーナーキックでさえこうはいかない。
負の選ばれし人間。雷雨の中、人混みの繁華街を皆と同じ様に歩いてただけなのに、自分だけが落雷を受け倒れ伏す、そんな気分だった。
キャスケット、お前にモラルはあるのか。
もうひとつ息を吐く、少し軽めに。目を閉じる。
喫煙所に足を踏み入れた時から、いまここに座るまでのシーンが再現フィルムのように流れる。
勝手に流れる反芻したくもないそんなフィルムを脳で眺めているうちに、私は犬のマーキングというやつを思い出していた。
犬が自分のテリトリーを明確に印すための放尿。
しかし、犬のそれには生き抜いて行くためという確固たる理由があるではないか。
人間が自分の存在痕跡を誇示する、知らしめるために屁を放つ。
喫煙所でプッ、改札でプッ、並んでプッ、ついでに車内で、あプップップッ
馬鹿げていた。最後リズムなどもつけてしまった自分のアホ加減にも嫌気がさす。
尿ならともかく、というかそれは法に触れるし、気体でマーキング、そんなものは物理上成り立たない。
あ、思い出したぁー。次の休みに買わなければならない物、そうそう、愛犬のドッグフードだよ。それだぁー あぁー良かった
目先が少し変わったついでに、愛犬の顔を思い起こすことにした。少しばかり偏屈な性格が玉に瑕だが、あいにくメスなので玉はない。その偏屈が難点ではあるのだが、愛嬌のある賢い犬なのだ。
キャスケットよ。うちの犬だってご主人の前では屁などこかんぞ。わかるかおい。わかってるのか。見も知らぬ人様に向けて2つも放屁するなぞ、もっての他だ。あかんぞまったく。恥を知れぇ。
電車が鉄橋を渡るその振動音で我に帰った。
お、いかんと車窓から外を見る、お、大丈夫だ。
まだだ。私が下車する駅はまだこの先2つ目だ。
空が青い。すこしだけ救われた様な気がした。
キャスケットはもういない。どこで降りてどこへ向かったのか知る由もないが、降り立ったそのホームでも懲りずに放っているのだろうか。階段を上りながら、コンビニの前を通過しながら意味のない不毛なマーキングを続けているのか。
思う存分放つが良い。私がいない見知らぬ地で、お前が何をしようと、もう私には関係ない。
まもなく下車だ。
何があろうと仕事はせねばならん。駅に到着するこのあたりから、いつも私はなんとなく気持ちを仕事モードに切り替え始める。
憂鬱とまでは言わないが、愉快な要素などびた一文無い冴えない気分だ。
俺はいつまでこんな事を続けるのだろう。
電車がホームに差し掛かる。バッグを抱え直しシートから腰を上げた時に胸ポケットのスマホが震えた。着信だ。取り出して画面を見ると「西村」
と出ている。部下の西村武からだった。
もうすぐ電車が停まる。ホームに降りてから話そうと、しばらく震えたままにしておく。朝に飛び込んでくる同僚部下からの電話にはあまり良い知らせはない。問題事でなければ良いのだが。
扉が開きホームへ降り立ち通話ボタンを押した。
「 おはよう西村くん、どした? 」
ホームを歩きながら話す。
「 あ、椎名さん…、おはようございます 」
声のトーンが低い。何かあったか。
「 申し訳ないんですけどぅ、実は今朝から娘が
熱出しちゃいまして… 」
不謹慎だが少しだけホッとする。業務の面倒事、そんな類の連絡ではなかった。息が漏れた。
娘さんが発熱。西村の娘はいくつだったろうか。
反射的に、今日は休みを貰いたいといった趣旨の話だろうと見当が付いた。週末に向けた物流との連携業務が手薄になりそうだが、補佐の岸田との調整でなんとかなるだろう。
「 あら、そうなのか、そりゃ大変だな… 」
そう西村に返答して顔を上げる。
その後のやりとりは、正直あまり覚えてない。
前にキャスケットが歩いていた。
目の前にいるキャリーバッグを引いてのろのろ歩く女、その前を手を繋いで歩く老夫婦、縦縞のシャツを着た男がいて、リュックを背負っている男のその前、距離にして15メートルほど前を奴、
キャスケットが歩いていた。
西村の声は無機質にただ耳のそばで鳴っているだけで、スマホを耳に当てながら、私はなぜか当たり前の様に歩くスピードを上げた。
上げてどうする。分からなかったが、咄嗟に私はキャスケットに追いつこうとしていた。なぜだ。
キャリーバッグを迂回して追い越し、老夫婦の右横を大きく回り込む。キャスケットの歩調は早かった。
どこへ行くのだ、なぜ急ぐ。
距離が縮まらないのを察っして焦り、私はさらにスピードを上げていた。
息がだんだんと荒くなり始める。
何をしているんだ俺は。あんなにも嫌悪していた奴の姿を、いま見失いたくないと必死になっている。もうまっぴらごめんではなかったのか。不意に見つけ、追いつこうとしてスピードを上げている。はぁ? なんなんだこれは。
キャスケットの歩調は緩まなかった。
都心の各線が合流する中心駅、ホームは幅も広くそして長い。我々が進む先には上階に上がるエスカレーターがあるが、もっと先の出口を目指して直進する者もいる。私はいつも間もなく見えるはずの上りエスカレーターに乗るのだ。
自分の呼吸が、早く荒くなっていく。
バッグの中で水筒が揺れる。重い。
キャスケット、お前はどっちに行くんだ。
見失わないよう、紺色のその帽子を凝視し続ける上るのか、はぁ、それとも直進かっ。
上るんだろ、上るんだよなそこをっ 上れっ
なかなか追いつかない。キャスケットの足はエスカレーターの方へ向いていた。私と同じだ。
よし、そうだっ、はぁ、上るんだ、俺も今から、上るのだっ
距離が縮まって来たが、息が苦しい。
わけが分からない。追いついて俺はどうしようというのだ。
キャスケットがエスカレーターに差し掛かろうとする時には距離は車1台分くらいになった。その時左向かいから2人の間に入ろうかというタイミングで、ロン毛に黒眼鏡、全身黒のダボついた服飾を着たスタイリストみたいな男が現れた。スマホを見ながら歩いている。
私は咄嗟にアクセルを踏んで男の前に滑り込む。
そんな私の慌ただしさに男が私の顔を見たのがわかった。「なんだ、このおっさん」と思ったに違いない。構わない、なんとでも思え。
捉えた。キャスケットに追いついた。
私が乗ったステップの4段上に背を向けて立っている。
肩が上下する。苦しい。喉が渇いていた。
出来るだけ息遣いを抑える。苦しいが仕方なかった、キャスケットに振り向かれては困る様な気がしたのだ。
私は少し考えてから、ゆっくりと右足をあげて、もう1段上がった。
複雑にいくつかの鉄道が入り組む駅、地上へ続くこのエスカレーターはかなり長い。
ほぼ目の高さの位置にキャスケットの尻が見えるグレーに色落ちしたデニムを履いていた。喫煙所にいた時はそんな所まで見る由もなかった。
前にいるのがご婦人であったなら、これほど凝視するのは明らかな不審行動だろう。
今は関係なかった、食い入る様に見た。
お前の放った物は、このデニムの粗い繊維の目を通過して外に放たれたのだ。
さあキャスケットよ どうする、どうするんだ
するんじゃないのか。はぁ、マーキングだ。するんだろマーキングを。マーキングする男なんだろ
さあ、しろ いるぞ俺は、お前の真後ろにいるぞ
右側下りエスカレーターで下りて来るマスクをしたご婦人と、すれ違いざま目が合う。
いいぞ しろよ、さあしろよ早く はぁ
喫煙所で、ホームで、そして車両に乗り込んだ
後も したんじゃないのかっ
エスカレーターの終わりが見え始めた。
さあキャスケットよ しろよ、さあ早くっ
放て この俺にさあ放て 放てえええぇぇっ!
エスカレーターの終わり、上階のフロアだ。
キャスケットがフロアに降り立ち、乗っていたステップが床に吸い込まれるのを見届けて、遅れて自分も足を踏み出す。
なんだか朦朧として、頭の中が真っ白なのか真っ黒なのかわからない。
足腰がやけにつらい。息がまだ荒かった。
真っ直ぐ先が改札口、横に5台ほど並んでいる。
改札を出ると、右はロータリー広場、左は乗り継ぎの連絡通路だ。
私は右に行かねばならない。キャスケットからはまだ目を離していない。やはりズングリ体型であった。革のポーチを右手に抱えていた。気づかなかった。
地上の日差しが目に溶け込んで気分も白けて来る
自分の異常さに気づき喉が詰まる。私は狂ってる
案の定、キャスケットは左の改札機の方に歩を向ける。どこへ行くのだお前は。
ピ ピ ピ
キャスケットは改札を出てそのまま左に曲がり、連絡通路の方向へ歩き出す。
私もひと足遅れて改札を出て、重い足で正面にある温泉のポスターが貼ってある太い柱に近づき足を停める。歩行スペースで立ちすくんでは通行の邪魔になる。ここでも配慮は忘れないのだ。
遠のくキャスケットの後姿をしばらく見ていた。
もう一度思った。自分は狂ってる。
もう今日は休もうか。これから出社して一日仕事をすることなど到底出来そうもなかった。そう思って西村からの電話の事を急に思い出し、ポケットをまさぐった。スマホはあった。
西村は今日どうするんだった?と思い出そうとして、途中で諦める。
霞む眼中にまだキャスケットはいた。何事もなく歩いている。
その時、遠ざかりながら歩き去るそのリズムが、衛星映像のように一瞬不自然にぶれるのが見えたそして、デニムの腰がピクッと確かに引くついたのだ。
あっ と心で言った。
ポーチを左手に持ち替えたのが最後微かに見えた
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