
【連続小説】たまに夢で見る #3
第六章「同じ棚」
空は薄い灰色だった。雨は降っていない。降りそうにも見えない。それでも、念のため傘を持って出た。
今朝見た記事が、まだ頭の隅に残っている。
「日向慎平医師」という文字。写真。信州ARCという名前。それから、自販機の前でコーンポタージュのボタンを四秒見ていた男。
読んだのは、まだベッドの中だった。画面を消したあとも、しばらく天井を見ていた。記事の中の日向は、知っている日向よりきっぱりしていた。
「使い始め」
「施設」
「回復」
「啓発」
読めば読むほど、どこにも迷い込むことのない一本道のように見えた。
今日はやっぱりPORT東京に行くのをやめようか、と思った。用事があるわけではない。約束をしているわけでもない。行かなくても、誰かが困るわけではない。行く理由も、行かない理由も、たいして変わりなかった。それでも、結局いつもと同じ時間に家を出た。
駅までの道で、信号に二回引っかかった。両方とも、青から赤に変わる直前だった。間に合うと思った瞬間に、赤くなった。
駅前のコンビニの前では、店員が看板を出していた。足元に小さな重石が置かれている。その重石は、毎日少しずつ位置が違う。今日は右側に寄っていた。そういうことばかり、目につく。
PORT東京までは、駅から十五分。坂を上って、三階まで階段を上る。二段目と五段目が軋む。今日は、五段目だけ鳴った。
ドアを開けると、辻堂がコーヒーメーカーの横で、小さな部品をつまんでいた。
「いらしてたんですね」
部品から目を離さずに、辻堂が言った。
「はい」
「これ、どこでしたっけ」
辻堂は、蓋の裏をしばらくのぞき込んでいた。部品は結局、蓋の裏になんとか戻った。何かが直ったというより、いったん収まる場所を見つけた、という感じだった。
棚の奥から、猫の絵のマグカップを取って、カウンターに置く。底に小さなひびが入っている、いつものやつだ。
いつもと、何も変わらない。朝から何かが変わっていても、ここでは何も変わらない。その変わらなさが心地よかった。
部屋には音楽が流れていた。歌詞のない、テンポの遅い曲。今日はそれに混じって、外から工事の音が聞こえた。遠かった。何かを壊している音にも、作っている音にも聞こえた。
壁際の棚には、いつもと同じものが並んでいる。郵送で受け取れるHIV検査キット。性感染症の自己検査キット。PrEPとDoxyPEPのリーフレット。コンドームとローション。隅には、粉末や錠剤の成分を調べるための試薬キットもあった。
その隣に、「もし、誰かが急に倒れたら」と書かれたカードが置かれている。救急車を呼ぶときに何を伝えればいいかが、短く書かれていた。警察が一緒に来ることがある、という注意書きもあった。
薬物について知るための資料。使ったあとに体を守るための道具。病院につながるための案内。病院に行けないとき、ひとまず持って帰れるもの。
本来なら、別々の場所にありそうなものが、同じ棚にあった。やめたい人も、まだやめるつもりのない人も、同じ棚の前に立てるようになっていた。
冬のはじめ、ここを見つけたとき、Xの過去の投稿を遡った。「断薬」という単語は、一度も出てこなかった。「回復」という単語もなかった。代わりに、こういう棚の写真が、何枚も載っていた。だから今、目の前にあるものを見ても、驚かなかった。
驚かなかったのに、見てしまう。
並びの端に、新しいリーフレットがあった。
「セックスと薬物について」
手は伸ばさなかった。読めば、自分の話になる気がした。
その後ろから、年配の女性が入ってきた。
「あの、法律相談のチラシって、まだありますか」
「ありますよ」
辻堂が棚から一枚取って渡す。女性は両手で受け取って、少しだけ頭を下げた。
「すみません、これだけで」
「これだけで大丈夫です」
辻堂がそう言うと、女性はもう一度小さく頭を下げて、すぐに出ていった。
「エレベーターがないのね」
独り言のような声が、ドアの外から聞こえた。ただ、急な階段を下りる前に、そう言わずにはいられなかったのだと思った。
少し経って、見覚えのある男が来た。
最初にその男を見たときは、まだ寒い時期だった。半袖だった季節を挟んで、もう一度、季節が変わっている。今日は薄いカーディガンを着ていた。袖口が少し伸びていた。
辻堂が、棚からキットを出す。
「前回の結果はどうでした?」
「問題なかったです」
「なら、よかったです」
男は受け取ったあと、声を落とした。
「あの、消毒綿とかありますか」
「ありますよ」
辻堂は引き出しを開け、消毒綿と絆創膏のセットを出した。男はそれを受け取って、「すみません、いつも」と頭を下げた。
「いつも」
その言葉が、耳に残った。
ここに来ることが、いつもになっている人がいる。検査キットを持って帰ること。消毒綿をもらうこと。結果を短く報告すること。袖口の伸びたカーディガンで、また同じ棚の前に立つこと。
以前なら、ここで「それぞれの事情がある」と書いたと思う。そう書けば、聞かなかったことも、書けなかったことも、ひとまとめにできた。誰のことも傷つけていないような顔で、誰のことも見ないで済む言葉だった。
男は黙って、キットを鞄に入れた。
「ありがとうございました」
それだけ言って、男はドアの方へ向かった。階段を下りる足音が、途中で聞こえなくなった。
奥のソファに、年配の男が座っていた。「浮間さん」と、辻堂が呼んでいた。
「最近、ここにも顔出すようになって。NAにも、通ってるんですけど」
誰に言うでもなく、浮間は言った。
NAという単語は、東日本ARCでも何度か聞いた。施設の外にある、別系統の自助グループだと聞いていた。
「長いんですか」
そう聞くと、浮間は少し笑った。
「もう、何年になるかな」
指を折って数えようとして、途中でやめた。
「数えるのも、面倒になるくらい。NAでは、キョウタって呼ばれてるんですけどね」
それ以上は説明しなかった。
サンダルのかかとの部分が、片方だけすり減っていた。歩き方に何か理由があるのかもしれない。聞かなかった。聞けば、理由が返ってくるかもしれない。返ってこないかもしれない。どちらでもよかった。
辻堂がコーヒーを持ってくる。浮間は受け取って、一口飲んだ。
「先のこと考えると、だいたい変な方に行くんで」
浮間はカップを両手で包んだ。
「まあ、『今日だけ』でいいか、って」
誰かに教えるような言い方ではなかった。自分に言い聞かせるのにも、もう飽きた人の声だった。
飲み終えると、浮間はゆっくり立ち上がった。
「また来ます」
「お待ちしてます」
サンダルの音が階段の方に消えていく。二段目で、軋む音がした。
棚の前を、もう一度通った。
「セックスと薬物について」のリーフレットは、さっきと同じ場所にある。誰かが取ったあとではない。取らなかったあとでもない。ただ、そこに置かれていた。
検査キットを持ち帰る人。チラシだけ取って帰る人。座って、「今日だけ」と呟く人。消毒綿をもらう人。何も取らずに、棚の前を通る人。
結局、何も持って帰らなかった。試薬キットも、PrEPのリーフレットも、「セックスと薬物について」のリーフレットも、全部棚に残した。
ただ、どれも自分とは無関係だと、もう簡単には思えなかった。
第七章「小さな文字」
水を飲みに、奥の給水機まで行った。
紙コップは、いつもより少し多く重なっていた。一枚だけ取ろうとして、二枚くっついてきた。戻そうとして、やめた。二枚重ねのまま水を入れると、指に伝わる冷たさが少し鈍くなった。
席に戻る途中、壁に新しいポスターが貼られていることに気づいた。
壁にはいつも、何かしら貼られている。地域の医療機関の連絡先。無料法律相談の日程。急に住まいがなくなった人のための案内。隅が反り返ったまま、誰も直さない貼り紙もある。
そのポスターだけ、まだ紙が丸まっていなかった。
「依存症と社会を考えるフォーラム」
自治体の名前と、来月の日付。あと三週間ほどだった。会場は、聞いたこともない大きなホールだった。小さく「第二部・パネルディスカッション」とあり、その下に登壇者の名前が並んでいる。
一番上に、「日向慎平(医師)」とあった。白衣を着た日向が、カメラに向かって笑っていた。今朝の記事で見た顔だった。けれど、最初に浮かんだのは、自販機の前の日向だった。
記事で見たときは、まだ画面の中のことだった。昔知っていた人の名前を、たまたま見つけてしまっただけだと思うこともできた。
でも、目の前にあるのはポスターだった。自治体のフォーラム。大きなホール。白衣の写真。医師という肩書き。
「日向」
東日本ARCで聞いた名字だった。「慎平」という下の名前は、今朝の記事で初めて知った。
思わず周りを見た。さっきの男は、もういなかった。辻堂は、カウンターの向こうで何かを探している。棚の前には、さっきと同じ籐のかごがある。誰も、ポスターを気にしていない。
そのことに少し遅れて気づいて、もう一度、日向の名前を見た。
ポスターの下半分には、小さな字で趣旨が書かれていた。
「薬物依存症は、誰でもなりうる病気です。回復し、社会に戻った当事者の声を聞くことで――」
そこまで読んで、目を離した。
PORT東京のXのプロフィールを思い出した。
「クスリのこととか、なんでもOK。やめろって言いません」
そこには、誰の名前もなかった。
ポスターには、日向の名前がある。顔写真もある。医師という肩書きもある。それで足りるはずなのに、自販機の前で黙っていた日向のほうが、先に目に浮かんだ。
タイトル、日付、会場名、登壇者。以前なら、こういう並びを見ると少し安心した。どこを読めばいいのか、すぐに分かるからだ。
ポスターの隅に、協力団体の一覧があった。小さな文字で、いくつかの名前が並んでいる。その中に、「再起ネットワーク」という名前を見つけた。八年前、我孫子を取材したときの事務所の名前だった。
水の入った紙コップを持つ手に、少し力が入った。二枚重ねの紙が、かすかにへこんだ。
これまでに我孫子の顔は、何度も思い出したことがある。椅子を引く手。白いマグカップ。少し遅れて返ってくる声。でも、団体の名前までは、覚えていたつもりはなかった。
「たまに夢で見るんです」
我孫子は、あの時そう言った。その一言を原稿に入れなかった。入れなかったというより、入れる場所を作らなかった。回復して立ち直った人の話に、その一言は収まりが悪かった。
あの記事を読んだ我孫子が、夢の話を入れなかったことをどう思ったのかは分からない。今でも、自分のことを覚えているかもしれない。そんなことを考えたのは、初めてだった。
協力団体の一覧を、もう一度読んだ。
「再起ネットワーク」
その下に、小さく「PORT東京」とあった。
いつから協力団体になったのか、ポスターには書かれていない。辻堂に聞けば、答えるかもしれない。答えないかもしれない。
記者をしていた頃、こういうリストを何度も作った。誰の名前を上に置くか。どの団体を大きく載せるか。どこまでを主催にして、どこからを協力にするか。大抵の場合、理由があった。理由がないときも、理由があるように見せた。
小さな文字だった。見落としてもおかしくないくらいの大きさだった。さっきまであの棚の前にいたのに、文字になったPORT東京は、少し別の場所みたいに見えた。
自分の名前は、どこにも載っていない。それでも、なぜか、知っている人間なら、自分がここに通っていることまで辿れてしまうような気がした。
水を飲んだ。二枚重ねの紙コップは、口に当てると少し分厚かった。水は冷たかった。冷たさだけが、ちゃんと分かった。
席に戻ると、猫のマグカップのコーヒーは、もうぬるくなっていた。
辻堂がこちらを見た。ポスターを見ていたことに気づいていたのかもしれない。もしかしたら、気づいていなかったのかもしれない。
「温めます?」
一瞬、何のことか分からなかった。
「コーヒー」
「あ、大丈夫です」
辻堂はうなずき、また手元に目を戻した。それ以上は何も聞かなかった。壁のポスターにも触れなかった。日向の名前にも、再起ネットワークにも。協力団体の欄のいちばん下にあった、PORT東京の文字にも。
カップのふちに指をかけた。
スマートフォンを取り出して、「再起ネットワーク」と打った。画面の下に、候補がいくつか出た。検索ボタンをタップする前に、手が止まった。ポスターで日向の名前を見たばかりだった。今は、これ以上知りたくなかった。
検索欄の文字を消して、スマートフォンを伏せた。
フォーラムの日付を、カレンダーに入れようかと思った。でも、アプリは開かなかった。行くつもりがあるのか、ないのか、自分でも分からなかった。日向に会いたいのかどうかも、よく分からない。ただ、何も知らないままでいるのも嫌だった。
窓の外の光が、少し傾いていた。ポスターの白い端だけが、夕方の光を受けていた。
第八章「濡れていない傘」
フードを被った男が、ドアを開けて入ってきた。
辻堂がパンを差し出すと、男は少しだけ顔を上げた。受け取って、すぐには食べず、膝の上に置いた。個包装の角が、しばらくして少し折れた。食べるつもりで持っているのか、ただ手放せずにいるだけなのかは分からなかった。
辻堂が、カウンターの下から一枚の用紙を出した。
「よかったら、これ」
男はそれを受け取って、膝の上で広げた。しばらく眺めてから、首をかしげる。
「これ、名前とか、書くんですか」
「書かなくても大丈夫です」
「…はい」
一番上に、利用後アンケート、という文字があるのが見えた。下の方に、名前を書く欄があった。男はペンを持ったまま、その欄を見ていた。ペン先を近づけて、やめる。パンの袋を押さえていた左手が少し動き、用紙の端が膝からずれた。
男はそれを直した。結局、何も書かなかった。
「すみません」
「大丈夫ですよ」
辻堂は中を見なかった。名前の欄も、感想の欄も確かめず、空白のまま青いクリアファイルに挟んだ。空白の用紙は、ほかの紙と同じようにファイルに入った。
東日本ARCで初めて出たミーティングのことを思い出した。
輪になった椅子。窓の外の柿の木。誰かが咳払いをして、誰かが紙コップをつぶす音を立てた。順番が近づくたびに、胸のあたりが少しずつ狭くなった。何を話せばいいのか分からなかった。なぜ来たのか。いつからなのか。何を使ったのか。何を失ったのか。そういうことを言う場所なのだと思っていた。
順番が来ても、何を話せばいいのか分からなかった。一瞬、間を置いてから言った。
「ユウゴです」
それ以上は続かなかった。
言ってから、本名を明かしてしまったことに気づいた。ほかの人たちは、別の名前を使っていた。名字でも、本名でもなさそうな名前だった。
日向は、その輪の中にはいなかった。会ったのは、ミーティングのあと、廊下の自販機の前だった。最初は名乗らなかった。何回か同じ時間に会って、ようやく「日向」と教えてくれた。三回目か、四回目だったと思う。
病院では、受付で保険証を出し、問診票に「赤坂悠吾」と書いた。呼ばれるまで待ち、診察室に入る。医者はカルテを見ながら、赤坂さん、と言った。
ここでは、一度も名前を聞かれていない。辻堂にも、ほかの誰にも。こちらから言ったこともなかった。一年近く通っているのに、そのままで済んでいた。
フードの男は、パンの袋をようやく少しだけ開けた。中をのぞき、また閉じた。辻堂は何も言わなかった。
棚の前に立った。
PrEPのリーフレットを手に取る。前は、手を伸ばさなかった。今日は、表紙に触れるところまではできた。薄い紙だった。指の腹に、つるりとした感触が残る。角が一箇所だけ、ほんの少し折れていた。誰かが一度取って戻したのかもしれない。
鞄の口を開けた。
中には、読みかけの文庫本と、折りたたみ傘の袋と、古いレシートが入っていた。リーフレットは、文庫本の上に置けば入った。入れようと思えば、すぐに入った。
でも、指が動かなかった。
棚に戻す。最初と同じ場所に戻したつもりだったが、少しだけ斜めになった。直そうとして、やめた。
辻堂は、こちらを見ていなかった。その隙に棚から一歩下がった。
PORT東京を出ると、空はさっきより暗くなっていた。雨は降っていない。傘は開かなかった。
駅まで歩く途中、自動販売機の灯りがやけに明るく見えた。白い光の中に、缶コーヒーや炭酸飲料や、季節はずれのコーンポタージュが並んでいる。足は止めなかった。ボタンを見ると、止まってしまう気がした。
電車の窓には、顔がうっすら映っていた。外が暗くなるほど、窓は鏡に近くなる。自分の顔なのに、あまり見たくなかった。
家に着くと、玄関に傘を立てた。
部屋は冷えていた。エアコンをつける気にならず、上着を着たままノートパソコンを開いた。検索窓に、「再起ネットワーク」と打つ。今度は、消さなかった。
検索結果の一番上に、公式サイトと、来月のフォーラムのPDFが並んで表示された。
PDFを開くと、昼間見たポスターと同じレイアウトだった。タイトルも、登壇者も、協力団体の並びも、同じだった。文字は、壁で見たときより小さかった。小さいのに、目はそこに止まった。
別のタブで公式サイトを開いた。トップページには、団体の理念が載っていた。
「当事者の声を、社会に届ける」
その一文を見て、今朝読んだ記事を思い出した。
「すべての経験が、今の自分につながっていると思うので」
記事の中の日向は、そう言っていた。でも、東日本ARCでの日向は、そんなふうには話さなかった。
「分からないです」
「なんでか、分からないです」
日向は、よくそう言った。コーンポタージュのボタンを見ながらも、そう言っていた。
記事の中の日向は、「分からないです」とは言わなかった。使っていたことも、施設にいたことも、医師になったことも、ひと続きの話になっている。
ただ、読み終えたあと、東日本ARCで日向が何度も言っていたことを思い出した。
「分からないです」
役員紹介のページを開いた。理事長。理事。監事。名前が並んでいる。写真と短い経歴がついている人もいる。大学名、病院名、支援歴、著書。肩書きのついた言葉が、きちんと収まっている。
その中に、見覚えのある名前があった。
「我孫子隆」
我孫子の欄には、写真がなかった。経歴も、肩書きの説明もない。名前だけだった。それなのに、すぐ分かった。椅子を引く手。白いマグカップ。湯気のほとんど立っていないインスタントコーヒー。
しばらく、その名前を見ていた。それから、施設一覧のメニューを開いた。
地名がいくつか並んでいる。その中に、信州ARCがあった。今朝の記事にも、同じ名前が出ていた。
「『信州ARC』のプログラムを経て」
それを読んだとき、東日本ARCでの日向の言葉を思い出した。
「地方にいたんですよ。ちょっと長くいたんですよ、別のところに」
日向は、そう言っていた。あのときの「別のところ」が、信州ARCという文字と重なった。
「自分は、出た後が決まってるんで」
そう言ったときの日向は、うっすら笑っていた。
ブラウザの上部には、開いたページのタイトルが横に並んでいた。フォーラム案内。再起ネットワーク。役員紹介。施設一覧。今朝の記事。別々に覚えていたものが、同じ幅のタブになっていた。並べたのは自分だった。
喉が渇いて、台所に立った。水を半分だけ飲んで、すぐ机に戻った。
画面はそのままだった。
開いていたタブを、一つずつ閉じた。今朝の記事。施設一覧。役員紹介。再起ネットワーク。フォーラム案内。
閉じる順番を間違えた気がして、一度だけ戻るボタンにカーソルを置いた。けれど、押さなかった。
「再起ネットワーク」
その文字を消す。空になった検索窓を、ぼーっと見ていた。自分の名前を打とうとした。
「あ」
そこまで打って、指が止まった。次に打つ文字は分かっていた。けれど、画面には一文字しかなかった。昔の記事が出てくるかもしれない。何も出てこないかもしれない。どちらも嫌だった。
消そうとして、消せなかった。検索もしなかった。
画面を消した。黒くなった画面に、自分の顔が少し映った。
PORT東京では、まだ一度も名乗っていない。辻堂にも、ほかの誰にも。一年近く通っているのに、それで済んでいた。
それから、ノートパソコンを閉じた。
閉じた後も、しばらく手を置いていた。
部屋の明かりを消して廊下に出ると、玄関に置いた傘が見えた。今日も開かなかった傘だった。
雨が降らなかったから濡れていないのか。開かなかったから濡れていないのか。
いずれにせよ、傘は濡れていなかった。(#4に続く)