
【連続小説】たまに夢で見る #2
第三章「説明できなかった朝」
久美子と知り合ったのは、ある夏の取材帰りだった。
打ち上げの席で隣に座り、帰り際に少し話した。次に会ったときにはもう、前から知っている人みたいに話していた。始まりがどこだったのかを、あとになって思い出せなかった。出会いはいつも向こうからやってきて、気づいたときにはもう終わっている。
一度、取材が長引いて約束を忘れたことがある。夜中に気づいて電話すると、久美子は編集部の前にいた。コンビニの袋を持って、コートの襟に顎を少し埋めて立っていた。師走の入口だった。
「お腹空いてるかと思って」
怒るでも泣くでもなく、そう言った。
嬉しかった。それは本当だった。でも嬉しさより少し速く、怖さが来た。この人を軽く扱ってはいけない、と思った。そう思ったことを、翌朝には考えないようにした。考えれば、その感覚に名前をつけることになる。名前がつけば、もう見ないふりができなくなる。
付き合って半年ほど経った夜のことを、よく覚えている。
部屋に遊びに来た久美子が、本を読んでいた。ソファに横になり、足をクッションに乗せていた。文庫本にはカバーがかかっていた。
静かだった。ページをめくる乾いた音が、ときどきした。
その音を聞きながら、テーブルで資料を読んでいた。正確に言えば、資料の上に目を落としながら、久美子を見ていた。
きれいだと思った。それは本当だった。一緒にいて楽だとも思った。それも本当だった。
ある瞬間、彼女が笑った。本の一節がおかしかったのだろう。少し体を起こし、口元だけで笑って、また読み始めた。
そばに行きたい、という気持ちを、待った。
来なかった。
来ないことに、そのとき気づいた。気づくより先に、気づかないようにしていたことにも、気づいた。
テーブルの上の資料を見た。文字が並んでいた。何も読んでいなかった。
久美子はまた、ページをめくった。
付き合って二年近くになった頃、結婚の話が出るようになった。
どちらが先に言い出したのかは、はっきり覚えていない。年齢のこと、仕事のこと、家のこと。そういう話をしているうちに、いつの間にかそこへ向かっていた。
ある朝、目が覚めた。
六月で、空が白かった。外の雨の音がカーテンの向こうから聞こえた。
今日、別れようと思った。
なぜその朝だったのかは、今でも説明できない。前の夜に何かがあったわけではない。喧嘩も、嫌いになるような出来事もなかった。ただ目が覚めて、天井を見て、湿気混じりの空気の重さを感じて、そう思った。
起き上がって、キッチンで水を飲んだ。冷蔵庫を開けた。中を見た。何も取らずに閉めた。
電話をする前に、なぜかコンビニへ行った。買うものは特になかった。入口を入って、棚の間を一周して、ガムを一つ買った。
ポケットに入れたまま、喫茶店に向かった。
駅の近くの喫茶店だった。窓際の席に案内された。
コーヒーを頼んで、窓の外を見た。歩道の水たまりに、傘を差した人たちの足が映って、歪んでいた。
窓際の棚に、小さなプランターが置いてあった。細長い葉の植物で、土は乾いていた。鉢の縁には、水が乾いたあとの白い跡が残っていた。
水をやった方がいい、と思った。でも、それ以上考えるのをやめた。
十二時ちょうどに久美子が来た。傘を畳み、コートを脱いで、向かいに座った。
「濡れた」
「そうだね」
コーヒーが来た。久美子がカップに手を伸ばした。指先が細かった。爪には何も塗っていなかった。カップを持ち上げて、でも口はつけずに、ソーサーへ戻した。
窓の外で、傘が一本、風に煽られて裏返った。黒い骨が見えた。持っていた男が苦笑いをして、何とか元に戻した。
気づけばそれを見ていた。
久美子を見ているべき場面で、傘を見ていた。
何を言うべきか、頭の中で探していた。
好きじゃなくなった、は嘘だった。他に好きな人がいる、も違った。
「結婚したら、あなたが損をする」
そう言いかけて、やめた。損をする、という言葉では足りなかった。久美子が失うものの大きさを、そんな言い方で片づけたくなかった。
言葉がなかった。
七年間、他人の人生を文章にしてきた。誰かの人生を三千字に収めてきた。泣きながら話す人の沈黙にまで、何とか言葉をあてがってきた。
それなのに、自分のことになると、一文も出てこなかった。
「別れたい」
そう言った。
久美子はカップを見た。それから、カップとソーサーのあいだに視線を落とした。
時計を見た。十二時十四分だった。
久美子はまだ下を向いていた。右手の指が、カップの持ち手に触れていた。持ってはいなかった。ただ触れていた。
「もう決めてるんでしょ?」
質問ではなかった。
何も言えなかった。
久美子は、ゆっくりと、カップから手を離した。
喫茶店を出て、久美子と逆の方向へ歩いた。傘を持っていなかった。
商店街のコンビニで傘を買った。少し、楽になった気がした。楽になっていいのかどうかを、考えないようにした。
電車に乗って、気づいたら乗り過ごしていた。二駅戻った。
ホームのベンチに座った。屋根の端を細い雨が流れていた。今どこにいるかを、確認した。ベンチの上だった。
我孫子のことを思い出した。目が覚めたとき今どこにいるかを確認するのに少し時間がかかる、という話。記事に書かなかった話だった。
下を向いていた久美子の顔と、顔を上げたときの顔が、少し違った。どう違うかは、言えなかった。
ポケットの中に、ガムがあった。でも、食べなかった。
第四章「施設の言語」
薬が増えてから、夜の区別がつかなくなった。
どの夜がどの夜だったのか、順番が上手く出てこない。眠っていたのか起きていたのかも曖昧だった。ただ朝になると、カーテンの隙間から光が入っていて、自分がまだそこに存在していることだけは分かった。
弁護士から「保護観察の条件になる可能性がある。今のうちに動いておいたほうがいい」と言われ、東日本ARCへ行った。
私鉄の急行が止まらない駅から歩いて十五分。住宅街の路地を曲がって、また曲がって、突き当たりに二階建ての建物があった。駐車場は四台分あり、一台だけ車が停まっていた。入口の横に縦長の看板が立っていた。
「東日本ARC 依存症回復支援センター」
廊下はリノリウムの床で、歩くたびに靴底の音がした。案内された相談室の窓から、駐車場が見えた。
「不安なことはありますか」とスタッフが訊いた。「特にないです」と答えた。
特になかった。少なくとも、その場で言葉にできるものはなかった。
最初の日に、ミーティングの形式を説明された。
参加者は一人ずつ話す。他の参加者は返事をしない。アドバイスもしない。質問もしない。慰めも批判もしない。ノートを取ることも禁止だった。
「言いっぱなし・聞きっぱなしでお願いします」
スタッフはそう言った。
そういうものか、と思った。
ミーティングは二階の集会室で行われていた。その日は二十人来ていた。椅子は輪になって並んでいた。天井が低く、窓が二つあった。外には隣の家の庭が見えた。柿の木があって、実がなっていた。
十月だった。
「では自己紹介から。名前と、依存していた物質を」
端から順番に始まった。
「マサヤンです。覚醒剤依存症です」
「キャラマキです。覚醒剤依存症です」
「ドラゴンです。覚醒剤と、市販薬です」
順番が回ってきた。
「ユウゴです。えっと」
そこで止まった。
覚醒剤を使っていたのは事実だった。止められなかったのも事実だった。それなのに、「覚醒剤依存症」と言った瞬間、自分のことがその言葉の中に全部しまわれてしまう気がした。そういう問題だけではなかった。でも、どういう問題だったのかは言えなかった。
「覚醒剤です」
司会が一瞬、次の人を見た。誰も何も言わなかった。言いっぱなし・聞きっぱなしだから、誰も何も言わなかった。
会が終わってから、名前のことを考えた。
マサヤン、キャラマキ、ドラゴン。全員、仮の名前を使っていた。本名をそのまま名乗ったのは、たぶん自分だけだった。特に考えてのことではなかった。順番が来たから、名前を言っただけだった。
翌週も参加した。その次の週も参加した。
ミーティングでは、底突きの話を求められることが多かった。使い始め、底突き、そして今。その順番に話すと、「ありがとうございました」と言ってもらえた。順番を外すと、少し間が空いて、次の人に移った。
ノートが取れないから、頭の中で数えた。ミーティングのあいだじゅう、参加者が使う言葉の頻度をひたすら数えた。「底突き」「家族」「感謝」「仲間」「プログラム」。ミーティングが終わると、数字だけが残った。なぜそうしていたかは自分でもよくわからない。数えていると座っていられた。
何度か出るうちに、話のパターンが見えてきた。ここには、ここで通じる言語があった。どういうことを言えばいいのかは分かっていた。それでも自分の番が来ると、喋れなかった。
ある日、司会が言った。
「ユウゴさんの底突きの話を聞かせてもらえますか?」
七月の夜のことを考えた。男の部屋の、あの夜のことを。
「えっと」
「…次回でも大丈夫ですよ」
次の人に移った。言えなかった言葉だけが、宙に残った。
ミーティングが終わった後、廊下の自販機の前に立つことが多かった。集会室を出た後の、空気を少し抜く場所だった。
ある日、先に来ていた男がいた。
昔読んだ漫画に、こういう顔の登場人物がいたような気がする。誰だったのかは思い出せない。スラックスにシャツ。施設の中では、改まった格好に見えた。ピンフ、と名乗っていた。
ミーティングで話す声は静かだった。それでも、部屋の端まで届いた。使い始め、底突き、今。その順番を、毎回正確になぞっていた。話し終えると、「はい」とだけ言った。司会の「ありがとうございました」より、少し遅れて聞こえる声だった。
その「はい」だけが、部屋の他の声よりほんの少し遠かった。窓の外から届いているような「はい」だった。
男は自販機のボタンを見ていた。三秒か四秒、見ていた。
自販機の前に並んで、「毎回同じもの買うんですか?」と声をかけた。
男は何も言わなかった。ボタンを一つ押した。缶が落ちる音がした。缶を取って、プルタブを開けた。
それが答えだった。
翌週も同じ時間に自販機の前で会った。今日もボタンを見ていた。「また迷ってる」と言ったら、「迷ってないですよ」と男は言った。
「毎回同じもの飲んでます」
「なんで毎回ボタン見るんですか?」
「分からないです」
コーンポタージュの缶が落ちた。
名前を訊いたのは三回目か四回目だった。日向、と言った。
「赤坂といいます。前は記者やってて」と言ったら、「そうですか」と日向は言った。
「日向くんは何を?」
少し間があった。
「医者です」と日向は言った。缶を一口飲んでから、「でした、かな。今はどっちでもない感じなんで」と続けた。
窓の外に柿の実が見えた。
「あの柿、誰も取らないですね」と日向が言った。
「毎週来るたびに落ちてなくて」
「施設の決まりでもあるんですかね?」
「そういう問題じゃないと思いますけど」
日向が少し笑った。ミーティングの中で笑うのと、違う笑い方だった。それが一番、人間の顔だった。
何週か経って、日向が言った。
「ミーティング、毎回みんな、なんて言ってるか聞いてますか?」
「聞いてますよ」
「頭の中で何か数えてるでしょ?」
「なんで分かるんですか」
「目が動いてるから」
「なんで数えてるんですか?」
「なんでか、分からないです」
日向がまた笑った。柿の木のときと同じ笑い方だった。
また別の日、日向が向こうから口を開いた。
「記者ってのは、記事書いてない間も記者なんですか?」
「どういう意味ですか」
「赤坂さん、ずっと見てるじゃないですか、人のことを。ミーティングで何回『家族』って言ったか数えてたり、僕の靴が毎回違うこと気づいてたり」
答えられなかった。そこまで見られていたとは、思っていなかった。
「記事、また書きたいですか?」と日向は続けた。
「書きたいかどうかより、書けるかどうかが先に来てしまって」
日向はコーンポタージュを一口飲んだ。
「なりたいかより、なれるかを先に考えると、そもそもなりたいのかどうかわからなくなりますよね」
少し間があった。
「地方にいたとき、そうでした」と日向は言った。独り言のような言い方だった。
さらに何週か経って、日向が言った。「赤坂さんは底突きの話、したことないですよね」
「できないんですよ」と言った。
「できない。しない、じゃなくて?」
「そうです。どこで使い始めたかを言うと、続きを話さないといけなくて。でも言いっぱなしだから、一度言ったら終わりじゃないですか。言えないまま終わるのが、一番苦手で」
日向は少し考えるような間を置いた。
「地方にいたときは、こういう話ができなかったんで」と日向は言った。
「地方に?」
「ちょっと長くいたんですよ、別のところに」
何年、と訊こうとした。日向がコーンポタージュを一口飲んだ。訊かなかった。
「うらやましいですよ」と日向は言った。
「何がですか?」
「ここを出て、どこかに行けるっていうのが。自分は、出た後が決まってるんで」
「何が決まってるんですか?」
「いろいろ」と日向は言った。
翌日の朝、目が覚めて、もう来ないと思った。前の晩に日向が何かを言っていたことを、ぼんやり思い出した。関係はないと思った。
スタッフに退所の話をした。「もう少し様子を見てはどうですか?」と言われた。悪い人じゃなかった。ただ、ここにはもう用はなかった。
荷物を確認していたら、最初の日に配られたプログラムの冊子がどこにもなかった。集会室に置き忘れたかもしれなかった。取りに戻ることもできたが、しなかった。
廊下に出ると、日向がいた。壁に背中を当てて、腕を組んで立っていた。
「今日が最後ですか?」と日向は訊いた。
「そうです」
日向は何も言わなかった。
「達者でな、日向くん」
日向が顔を上げた。何かを言いかけたように見えた。言わなかった。
エレベーターのボタンを押した。扉が開いた。乗った。扉が閉まる直前、日向が廊下の自販機のほうへ歩いていくのが見えた。
外に出ると、空気が冷たかった。十二月に入っていた。傘を忘れてきたことに気づいた。雨は降っていなかった。
柿の実は、まだ落ちていなかった。
第五章「あの違和感の名前」
東日本ARCに通うのをやめた翌日、何もしなかった。
起きたのは昼過ぎだった。天井を見た。壁を見た。部屋には誰もいなかった。もちろん分かっていたが、確認した。
キッチンで水を飲んだ。冷蔵庫を開けたら、賞味期限が二日前に切れた豆腐があった。パックの内側に水が溜まっていた。捨てた。
コンビニに行っておにぎりと缶コーヒーを買った。帰ってきて、食べた。味がよく分からなかった。それだけだった。翌日も似たような一日だった。その翌日も。
保護観察の担当は、五十代の女性だった。
面談は月に一度、駅前のコーヒーショップで行った。場所は彼女がいつも同じところを決めた。孔雀の刺繍が入ったトートバッグを持ってきて、窓際の席を取っていた。外に小学校の通学路が見えた。
「先に注文してますね」と毎回言って、ブレンドコーヒーを二杯頼んでいた。
担当者はバッグからA4の紙を一枚取り出して、テーブルに置いた。書き込み欄がいくつか並んでいた。
「最近はどうですか。ちゃんと食べられてますか?」
「問題ないです」
「ちゃんと寝られてますか。朝、起きられてますか?」
「はい」
「施設の方には、引き続き行かれてますか?」
「やめました」
「あら」と担当者は言った。
少し間があった。ボールペンの先が、紙の上で二度、三度と往復した。文字を書くというより、迷っているような動きだった。それから、何かを書いた。
「合わなかったので」
「そういうこともありますよね」とコーヒーを一口飲んだ。
「他に、何か利用されているところはありますか?」
何もなかった。
「特にないです」
「そうですか」
また紙に何かを書いた。
窓の外を、黄色い帽子の小学生の列が通り過ぎた。担当者が顔を上げて、「かわいいですね」と言った。
「はい」
「保護観察の期間も、残り少なくなってきましたね」
「そうですね」
「終わったあとも、何かあればいつでも相談してください。お体に気をつけて」
「ありがとうございます」
コーヒーを飲んだ。外の小学生たちは、もうどこかへ行ってしまっていた。
別の支援の窓口に電話しようとしたことが、何度かある。
番号を調べた。発信ボタンを押すところまでいって、やめた。どこまで話せばいいのか、分からなかった。正直に話したら、話が大きくなりそうだった。電話はしなかった。
別の仕事を、と思って、取れそうな資格をいくつか調べた。どのページにも「欠格事由」という項目があった。読んだ。画面を閉じた。暗くなった画面を、しばらく見ていた。
東日本ARCに通うのをやめてひと月ほど経った夜、眠れなくてXを開いた。深夜の二時だった。
タイムラインを眺めていると、ひとつのポストが目に留まった。
「今日も来てくれた人がいました。ただいてくれた、それだけでよかったです」
PORT東京、というアカウントだった。プロフィールを開いた。
「クスリのこととか、なんでもOK。やめろって言いません。DM、24時間いつでもどうぞ」
過去のポストをいくつか遡った。断薬、という言葉がなかった。回復への第一歩、という言葉がなかった。プログラム、という言葉がなかった。
DM画面を開いた。
理由を書こうとして、やめた。誰かに理由を説明することに、ほとほと疲れていた。「住所を教えてもらえますか」と送った。
翌朝、返信が来ていた。住所と、「お待ちしています」の八文字だった。
昼に、行ってみた。
坂の途中の古いビルだった。エレベーターがなかった。三階まで階段で上がった。踏み板が軋んだ。二段目と五段目だった。
ドアの前に着いた。黄色い小さなポストカードが画鋲で刺してあった。どこか遠くの海岸線の写真で、色が少し褪せていた。その隣に手書きの紙が貼ってあった。「PORT東京」とあった。看板ではなく、目印だった。
ノックして、開けた。
思っていた感じとは、違った。
「いらっしゃい」と声がした。
男がカウンターの前に立っていた。スタッフという感じがしなかった。
「昨日、DMをくださった方ですよね?」
「そうです」
「コーヒー飲みますか?」
「もらえますか」
「どのカップがいいですか?」
並んでいる中から、白いやつを取った。
しばらくして、男が自分のコーヒーを持ってきて、ソファの端に座った。後で知ったが、名前は辻堂といった。
「何かありましたか?」
話した。どこから話せばいいか分からなかったので、思いついたところから始めた。気づいたときにはどこまで話したかも分からなくなっていた。それでも止まれなかった。
話しているうちに、七月の夜のことになった。少しだけ、話した。
「そうですか」と辻堂は言った。東日本ARCで聞いた「そうですか」より、少し距離が近かった。
「また来てください」と辻堂は言った。
次の週も来た。
最初のうちは、帰り道でいつもその日の面談を振り返っていた。話したことではなく、話さなかったことを。そのうち、それもしなくなった。
何度か通ったある日、辻堂に言われた。
「一度、専門の検査を受けてみませんか?受けられるところを紹介しますよ」
受診した。まず問診票に記入した。子供の頃から忘れ物が多かったかどうか。急に席を立つことがあったかどうか。一つのことが始まると止まれなくなることがあったかどうか。全部に丸をつけた。
そのあと、知能と認知特性の検査を受けた。
最初に、数字を逆から言わされた。検査官が読み上げる。
「七、二、九、四、六」
聞いた瞬間、頭の中にそのまま並んだ。逆から言えばいい。六、四、九、二、七。それだけのことだった。
でも、言おうとした瞬間、真ん中の数字が記憶から飛んでいた。思い出そうとすると、今度は最初の数字が何だったのか自信がなくなった。どこから逆にすればいいのか、分からなくなった。
「六、四…」
そこまでで止まった。検査官は何も言わず、紙に何かを書いた。
図形の課題では、検査官の説明が終わる前に手が動いていた。「最後まで聞いてからで大丈夫ですよ」と言われ、手を止めた。答えをつかんだまま待つことに、思いのほか力が要った。
記号を探す課題は速かった。違う箇所が瞬時に見えた。ただ途中から、反転しているものを同じと見ていいのかが気になり始め、何度か止まった。
語彙の課題は、ほとんど迷わなかった。単語を聞いて、意味をつかみ、別の言葉に置き換える。長い言い方を、短い言い方に直す。聞いた人がすぐ分かる形にする。
それは、記者として長くやってきたことだった。
結果を聞いたのは、別の日だった。
医者はデスクの上に検査結果の紙を置き、少し黙った。
「赤坂さんはADHDです。かなり重度の部類に入ります」
そう言ってから、紙に目を落とした。
「ただ、知能検査の数値が非常に高い。全検査IQが百四十五です」
自分の数字を聞いている感じがしなかった。
「これだけADHDの特性が強くても、ここまで社会生活を続けられていたのは、この知的能力で補ってきた部分が大きいと思います」
ああ、そういうことか。
そう思ったのは、IQの数字の方ではなかった。ADHDの方だった。
他人のことなら、見えすぎるくらい見えた。
取材先の男の爪を三分見て、暮らしぶりを読みとった。施設のミーティングで、誰が何回「家族」と言ったか数えた。日向が毎週、違う靴を履いていることにも気づいていた。
それなのに、自分のことは何も分からなかった。
頭はずっと、外を向いていた。人の靴、声の高低、言葉の選び方、視線の逃げ方。そういうものを拾い続けながら、自分の内側には向かなかった。記者を始めた頃から、たぶんそれより前から、ずっとそうだった。
七月の夜のことを、また思った。
あの夜だけ、頭の中が止まった。外へ外へと走り続けていた意識が、急に戻ってきた気がした。部屋が静かになったのではない。自分の中が、初めて静かになった。その一瞬だけ、内側に何かがあるのを感じた。感じた、というより、感じたことに驚いた。自分に内側があるとは、考えたことがなかった。
だから、足が向き続けたのかもしれなかった。
久美子のことも、そうだったのかもしれない。
ページをめくる音がした夜を思い出した。きれいだと思った。一緒にいて楽だとも思った。それなのに、そばへ行きたいという気持ちは来なかった。
来なかったことに、理由があるとは思いたくなかった。理由があれば、その先にまだ問いがある。
そこまで考えて、目を閉じた。瞼の裏が、橙色だった。
久美子が結婚したという話を、共通の知人から聞いた。電話口で「そうか」と言った。窓の外を見た。向かいのマンションの三階に、洗濯物が干しっぱなしになっていた。シャツとタオルが、くすんだ空の下で濡れていた。
よかった、と思った。本当にそう思った。そう思えることが、苦しかった。
ある朝、PORT東京に行く前にXを見ていたら、記事が流れてきた。
「薬物依存症からの回復を経験した医師が、啓発活動の最前線へ」
写真があった。
白衣を着た男が、カメラに向かって穏やかに笑っていた。
見覚えがあった。
自販機の前で、ボタンを四秒見ていた男だった。毎週コーンポタージュの缶を飲んでいた男だった。「あの柿、誰も取らないですね」と言った男だった。履いている靴が毎回違う男だった。
写真の下に、「日向慎平医師」と書いてあった。
記事を最初から最後まで読んだ。
使い始め、底突き、施設、回復、啓発活動。順番が、きれいすぎるほど整っていた。東日本ARCのミーティングで、日向が毎回なぞっていた順番と同じだった。あの部屋で覚えた言葉が、そのまま記事の骨組みになっていた。
語られていないことがある、と思った。何が語られていないのかは分からない。ただ、少なくとも全ては書かれていない気がした。
毎週同じボタンを四秒見てから缶を買う男の話は、どこにもなかった。
記事の途中に、信州ARCという名前が出てきた。東日本ARCのことが、少しだけ頭をよぎった。ARC。同じ系列の施設だろうか?その程度にしか思わなかった。
それなのに、ARCという三文字だけが、しばらく目の奥に残った。
記事の末尾に、来月のフォーラムの告知があった。日向慎平医師が登壇予定、と書いてあった。
PORT東京のカウンターに積んであったフライヤーのことを思い出した。来月の日付が入っていた、あのフライヤー。登壇者の名前を読みかけて、辻堂に声をかけられて、そのままになっていた。
一番上にあった名前は、日向慎平だったのかもしれない。
スマートフォンを置いて、コーヒーを飲んだ。
今日もPORT東京に行こう。
傘を持って、外に出た。(#3に続く)