
ハラホレ道中記 福井編 10 ハラホレ殿下編
↑前回の話
第九話 そして交差する の巻
日が昇る。
田園は深い海の底のような青から、少しずつ色を変えていった。
やがて空は茜色に染まり、今日という一日の始まりを告げる。
ハラホレは一睡もできなかった。
窓辺に立ち、ぼんやりとその景色を眺めている。
朝露をまとった田んぼ。
黄金色に輝く麦畑。
遠くに連なる山々。
どれも美しかった。
「良い景色ですなぁ」
後ろから爺やの声がした。
「あの麦畑など、まるで黄金のようですぞ」
「あぁ……そうだな」
ハラホレは短く答えた。
それ以上、言葉は続かない。
昨夜の言い争いが、二人の間に静かに横たわっていた。
やがて太陽が顔を出し、田園は爽やかな朝の光に包まれる。
その時だった。
「チャピィ、行キタイ所アル!」
静寂を破るようにチャピィが声を上げた。
「む?」
「チャピィ殿が行きたい場所ですかな?」
爺やが振り向く。
ハラホレも静かにチャピィへ目を向けた。
チャピィは嬉しそうに胸を張る。
「養浩館庭園!」
「ヨウコウカン?」
「ソコ、静カ」
「キレイ」
「癒サレル」
「ココロ奪ワレル場所ト聞イタ!」
チャピィは二人の間を行ったり来たりしながら続ける。
「行コウ!」
「オネガイ!」
「オネガイ!」
その姿は、まるで昨夜の重苦しい空気を吹き飛ばそうとしているようだった。
ハラホレは思わず小さく笑った。
「……そうだな」
「チャピィがそこまで言うなら」
「私も見てみたい」
そして爺やへ視線を向ける。
「行ってみるか、爺や」
一瞬、爺やの顔が明るくなった。
「そうですな!」
「せっかくですし、行ってみましょうぞ!」
「チャピィ嬉シイ!」
「嬉シイ!」
ぴょんぴょん飛び跳ねるチャピィ。
その無邪気な姿に、二人の肩から少しだけ力が抜けた。
こうして三人は、養浩館庭園へ向かうことになった。
一一一
養浩館へ足を踏み入れた瞬間だった。
三人は静かな空気に包まれる。
「静かだな……」
ハラホレが思わず呟く。
耳を澄ますと、木々を揺らす風の音と、水の流れるかすかな音が聞こえてくる。
「どこか、エイヘイジを思わせますな」
爺やが辺りを見回した。
「フクイシティーの中に、こんな静かな場所があるというのか……」
薄暗い廊下を進む。
古い木材の香りが漂う。
足音だけが静かに響く。
やがて部屋の奥へ進み、角を曲がったその時だった。
三人は思わず立ち止まった。
目の前に、圧倒的な景色が広がっていた。
今までの閉ざされた空間とは対照的な、開け放たれた大きな窓。
その向こうには、堂々と池がたゆたい、美しい庭園が広がっている。
柔らかな光が差し込み、部屋全体を包み込んでいた。
光の粒が空気の中を漂い、自分たちを歓迎しているように見える。
ハラホレの口から思わず言葉が漏れた。
「……美しい」
狭い室内から見つめる広大な景色。
その対比が不思議と心を落ち着かせる。
しばらく誰も言葉を発しなかった。
やがて爺やがぽつりと呟く。
「これは……」
「なんと表現してよいのやら……」
「見事ですな」
耳を澄ます。
虫の音色。
水の流れる音。
風が木々を揺らす音。
そのすべてが庭園の静けさに溶け込んでいた。
それぞれ思い思いの時間を過ごす。
チャピィはふたりを静かに見守っていた。
ハラホレは縁側へ出た。
池を渡ってくる風が頬を撫でる。
緑の香りを含んだ涼やかな風だった。
さらさらと髪が揺れる。
ハラホレは庭園を眺めながら考えていた。
――爺やよ。
――すまない。
昨夜から、その想いが胸に重くのしかかっていた。
ほっこり水の発見が大切なことは分かっている。
ヒレハレ星の未来を大きく変えるほどの発見だ。
爺やの言うことは正しい。
父上や母上が心配していることも分かる。
それでも――。
ハラホレは庭園へ目を向けた。
この星には、まだ知らないことが溢れている。
見たことのない景色。
出会ったことのない人々。
知ったことのない文化。
そのすべてを、この目で見てみたい。
その想いが日に日に大きくなっていた。
それに、ほっこり水の調査なら調査団に任せればいい。
私がいなくても出来ることだ。
それよりも、この星で見たこと、感じたこと、体験したことを持ち帰る方が大切なのではないか。
そう思っていた。
ふと、どこかでカエルの声が聞こえた。
ハラホレは苦笑する。
――いや、違うな。
風が吹く。
池の水面に小さな波紋が広がった。
――私は勝手だ。
――ただ冒険したいだけだ。
――この未知の星を旅したいだけだ。
――王子失格だな。
自嘲するように小さく笑った。
その時だった。
再び風が吹く。
木々が揺れる。
光が庭を照らす。
目の前の景色は何も答えない。
けれど、その静けさは不思議と優しかった。
まるで、
そんな未熟な自分さえも受け入れてくれているように思えた。
――――
爺やは一人、庭園の中を歩いていた。
湿り気を帯びた緑の香りを胸いっぱいに吸い込む。
静かに目を閉じると、旅立つ前の日のことが浮かんできた。
――
「また、どこかへ行こうとしておるようだな」
王は深いため息をついた。
「あやつは昔から、自分の興味を持ったものには一直線じゃ」
爺やは懐かしそうに微笑む。
「まぁ、若いうちはそれで良いのではありませんか」
「少しくらい旅をして知見を広げるのも、今しかできませぬ」
王は苦笑した。
「分かっておる」
「分かっておるからこそ心配なのじゃ」
そして爺やの前まで来ると膝をつく。
肩に手を置き、真っ直ぐな目で見つめた。
「爺やよ」
「任せたぞ」
「必ず無事に連れて帰ってまいれ」
「ハハーッ!」
――
爺やはゆっくり目を開いた。
「やはり……こうなりましたか」
ぽつりと呟く。
嫌な予感はしていた。
地球を知った時の殿下の顔。
恐竜博物館で目を輝かせていた姿。
あの時から分かっていた。
「似ておりますな……」
空を見上げる。
「昔の王様に」
そして小さく笑った。
「こうなったら、もう止められませぬ」
風が吹く。
木々が揺れる。
庭園の静けさが爺やを包み込む。
「王よ」
「申し訳ございませぬ」
「戻りましたら、どのような罰でも受けましょう」
胸に手を当てる。
「ですが、この星は本当に魅力的ですじゃ」
「殿下にとっても」
「ヒレハレ星にとっても」
「きっと大きな意味を持つ旅になります」
そして何より――
遠くから殿下の笑い声が聞こえた。
「アハハハハ!」
振り返る。
チャピィが宙を飛び回っていた。
「爺ヤモ見テ!」
「王様ガ怒ッタマネー!」
「これこれ」
爺やは思わず吹き出した。
「お待ちくだされ、今行きますぞ」
―――――
しばらくして。
三人は庭園を眺めながら腰を下ろしていた。
静かな風が吹く。
「殿下」
爺やが口を開く。
「なんだ、爺や」
「爺やも、ついて参りますぞ」
ハラホレが目を見開く。
「……よいのか?」
「旅を続ければ、いつ帰れるか分からんぞ」
「分かっております」
爺やは穏やかに微笑んだ。
「どうやっても帰る気はないのでございましょう?」
ハラホレは苦笑した。
「まぁ……そうだな」
「人生で二度目ですじゃ」
爺やは遠くを見る。
「こんな無茶な旅について行こうと思ったのは」
「冒険は簡単ではありませぬ」
「病になることもある」
「事件に巻き込まれることもある」
「命の危険にさらされることもあるでしょう」
「つまり、冒険とはそういうものですじゃ」
そして真っ直ぐハラホレを見る。
「覚悟はできておりますかな?」
ハラホレは力強く頷いた。
「あぁ」
「当たり前だ」
「それに、爺やに心配はかけん」
「無茶はしない」
「約束する」
爺やも頷く。
「ならば、わたくしも覚悟を決めました」
「わたくしは付き人です」
「何があっても殿下をお守りいたします」
そしてチャピィを見る。
「チャピィ殿」
「手伝っていただけますかな?」
「爺や一人では荷が重いのでな」
チャピィは勢いよく飛び上がった。
「モチロン!」
「冒険スル!」
「守ル!」
「無茶サセナイ!」
「壊レテモ守ル!」
その姿に二人は思わず笑う。
しばらくして爺やがぽつりと言った。
「実はですな」
「先ほど胸に手を当てて、自分の本当の気持ちを聞いてみたのですじゃ」
ハラホレが振り返る。
「すると――」
爺やは少し照れくさそうに笑った。
「わたくしも三人で旅を続けたいと思っておりました」
「付き人失格ですな」
ハラホレは顔を伏せた。
「……すまない」
「私のわがままに付き合わせてしまって」
爺やは首を振る。
「いいえ」
「これは、わたくし自身が選んだ道ですじゃ」
静かな風が吹いた。
養浩館の庭園は、三人を優しく見守っていた。
―――――
「よし!」
ハラホレが立ち上がる。
「そうと決まれば次の目的地だ!」
「風の吹くまま、気の向くまま!」
「チャピィ、マズハ日本知リタイ!」
「そうだな!」
「まずは日本を知り尽くそう!」
「さぁ!次はどこへ行こうか!」
ハラホレとチャピィが駆け出す。
爺やはその背中を見つめていた。
あの頃の若かりし王の背中が重なって見えた。
穏やかな笑みが浮かぶ。
そして慌てて後を追った。
「お、お待ちくだされー!殿下ー」
三人の声が庭園に響く。
その声は、どこか楽しそうだった。
――
いつもならここから養浩館庭園のエッセイ編が始まりますが、ハラホレ殿下編が長くなったので分けることにしました。
以下のエッセイ編を含めて、最終回まであと二話。よろしくお願いします。