
ハラホレ道中記 福井編 9
↑前回の話
第八話 月夜と揺れる心の巻
カエルや虫の鳴き声が響く。
湯煙の向こうから、爺やの楽しそうな声が聞こえてきた。
「いやはや、誠に驚きましたなぁ。このアワラの地には、ほっこり水が湧き続けておるとは」
「……」
ハラホレは湯船に身を沈めながら、ぼんやりと天井を見上げる。
「ここが凄いのか……それとも地球そのものが計り知れないのか……」
独り言のように呟いた。
「まさか、ほっこり水に浸かるなど、爺やは発想すらありませんでしたぞ」
「チャピィ、ビックリ!」
湯船の縁でチャピィがピカリと光る。
「ホッコリ水、ヒレハレ星デハ、十デュットル百万ヒレー(10ℓ100万円)!デモココ、十デュットル百ヒレー(10ℓ100円)!チャピィ知ラナカッタ!ハカク!スゴイスゴイ!」
「コレデハラホレ号安心!」
「この地では温泉というらしいですな」
爺やは感心したように頷く。
「それに、ここの方々は親切ですじゃ」
「ほっこり水を汲める場所を教えてくださり、お部屋にも泊めてくださり、ご馳走までいただいて」
「そうだな……」
「へしこ、のどぐろ、鮑、甘エビ、ボタンエビ……どれも初めて食べましたが、誠に美味でございました」
爺やは目を閉じる。
ご馳走を囲んだ時間を思い出しているのだろう。
「アップルパイに出会い」
「エイヘイジで心を洗われ」
「ミイラ化石に感動し」
「地球という不思議な星を知り」
「そして無限に湧くほっこり水に驚き、その中に浸かる」
爺やは満足そうに笑った。
「本当に良い旅になりましたな」
ハラホレは静かに湯船から上がった。
火照った身体を夜風にさらす。
月明かりに照らされた田園風景が、どこまでも続いていた。
その景色を見つめるハラホレの横顔は、どこか寂しそうだった。
「殿下、明日はいよいよヒレハレ星へ出発ですな」
爺やの声は弾んでいた。
「早く帰って、この発見を伝えねばなりませんぞ!」
「王様も驚かれるでしょうなぁ!」
「星間交流も進みますぞ!」
「ヒレハレ王国の歴史の大きな転換点になりますぞ!」
だがハラホレは何も答えない。
「……殿下?」
しばらく沈黙が続く。
やがてハラホレが口を開いた。
「爺や」
「なんですかな?」
「少し散歩しよう」
ハラホレは月明かりに照らされた温泉を離れる。
「で、殿下?お待ちくだされー!」
慌てて爺やとチャピィも後を追った。
―――――
三人は畦道に腰を下ろした。
月が田んぼの水面に映り込み、風が吹くたび銀色に揺れる。
カエルの歌が聞こえる。
それに合わせるように虫たちが音色を重ねていた。
「ほっこり水のおかげで、旅の疲れも吹き飛びましたな」
爺やが笑う。
「こんな使い方があるとは思いませんでしたぞ」
「チャピィモ元気デタ!」
「ピッカリナクテモ元気!」
「デモ、ピッカリスキ!」
「………」
ハラホレは黙ったままだった。
「殿下?」
「どうされましたかな?」
長い沈黙。
そして――
「爺や」
「私は帰らん」
爺やの笑顔が消えた。
「……なんと?」
「私は、この地球に残る」
風が止まったような気がした。
「どういうことですかな」
「知りたいのだ」
ハラホレは真っ直ぐ爺やを見る。
「もっと、この星のことを」
「フクイだけで、これほど驚きに満ちていた」
「だがフクイはニホンの一部に過ぎない」
「ニホンもまた、地球という星のほんの一部だ」
「この先には、まだ私の知らない世界がある」
「まだ見ぬ景色がある」
「まだ出会ったことのない人々がいる」
「私は、それを見たいんだ」
爺やが立ち上がる。
「なりませぬ!」
静かな田園に声が響いた。
「殿下は何を仰っておるのです!」
「殿下はいずれヒレハレ王国を背負うお方ですぞ!」
「それに!」
爺やは拳を握り締めた。
「この世紀の大発見を忘れたのですか!」
「ほっこり水ですぞ!」
「ヒレハレ星の未来を変える大発見ですぞ!」
「これは我々の使命ですじゃ!」
「まずは帰らねばなりません!」
「ほっこり水も十分確保しました!」
「また来ればよいではありませんか!」
ハラホレは首を振った。
「違う」
「帰れば、もう来られなくなる」
「もし来るとしても、王子としてだ」
「視察としてだ」
「仕事としてだ」
「もう、今みたいな旅はできない」
月を見上げる。
「私はただ――」
「この星を旅したい」
「冒険したい」
「それだけなんだ」
爺やの顔が苦しそうに歪む。
「殿下……」
「チャピィ殿はどう思われますかな」
チャピィは困ったように点滅した。
「チャピィ、地球知リタイ」
「デモ、残ル、イイ?ワルイ?ムツカシイ……」
「ハラホレノ気持チワカル」
「爺ヤノ気持チモワカル」
誰の味方もできなかった。
爺やは静かに言った。
「旅立つ時、お父上様とお母上様から仰せつかりました」
「必ず殿下を連れて帰れと」
その声は震えていた。
「殿下」
「帰りましょう」
「お願いです」
ハラホレは首を横に振る。
「わかってくれ、爺や」
「お願いですじゃ!」
「帰りますぞ!」
「帰らん!」
二人の声が夜空にぶつかる。
「ケンカダメ!」
チャピィが慌てて間に入る。
「チャピィ、コマッタ、コマッタ!」
誰も答えなかった。
やがて長い沈黙が訪れる。
カエルの歌だけが、変わらず田園に響いていた。
月だけが静かに三人を見下ろしていた。
――という冗談はさておき。
〜芦原温泉〜
まつや千千
電車を降りると、駅のロビーでお土産で時間を潰しているうちに、まつや千千の送迎車が到着した。
駅を出ると、車はのどかな田園風景の中を走っていく。
窓の外には水を張った田んぼが広がり、遠くには山並みが霞んで見える。
十分ほど走った頃だった。
田園の真ん中に、大きな旅館が姿を現した。
まつや千千である。
到着すると仲居さんが出迎えてくれ、荷物を持って部屋まで案内してくれた。
広々とした和室の窓からは、一面の田園風景が見渡せる。
どこまでも空が広い。
「明日の朝は朝市がありますので、ぜひお立ち寄りください」
そう教えてもらい、朝風呂のあとに覗いてみようと決めた。
夕食までは少し時間がある。
館内には温泉卵を作れるサービスがあった。
名物らしい。
せっかくなので卵をひとつ受け取り、熱々の温泉へそっと沈める。
待つこと十分。
出来上がった卵は熱くてなかなか殻が剥けない。
指先をあちちと慌てながら、ようやく紙コップの中へ落とした。
塩をひと振り。
そのまま口へ流し込む。
とろりとした黄身が舌の上で広がり、するりと喉を通っていく。
美味い。
たったそれだけなのに、旅先で食べると妙に幸せな気分になる。
その後、館内をぶらぶら歩いてみる。
ここは建物の中にも見どころが多い。
天井から吊るされた色鮮やかな円筒形のランプは、どこか和傘を思わせる。







通路の大きな窓の向こうでは、篝火が轟々と燃えていた。
福井の地酒を紹介するモニュメントもある。
館内のあちこちに、日本の美を感じさせる工夫が散りばめられていた。
温泉旅館なのに、まるで小さな美術館を歩いているような気分になる。
浴場の近くには茶室を思わせる小部屋まであった。
見ているだけで楽しい。
そうして館内を楽しんでいるうちに夕食の時間になった。
案内されたのは静かな個室だった。
料理は一品ずつ丁寧に運ばれてくる。
旬菜の盛り合わせ。
鯛。
鮑。
甘エビ。
ボタンエビ。
イカの刺身。
蛍烏賊。
ローストビーフ。
海鮮塩麹鍋。
天ぷら。
まるで福井の美味しいものを全部集めたような献立だった。



鯛は爽やかな旨味が広がる。
鮑はコリコリとした食感が楽しい。
そして何より印象に残ったのは、甘エビとボタンエビだった。
口に入れた瞬間に広がる甘味。
噛むたびに広がる濃厚な風味。
その美味しさは今でも忘れられない。
気がつけば私は最近、肉より海老の方が好きになりつつある。
年齢のせいなのか。
それとも福井の海の幸が美味しすぎたのか。
たぶん、その両方だと思う。
満腹になった私たちは部屋へ戻り、のんびりと過ごした。
気がつけば時計は二十二時半を回っている。
そろそろ温泉へ行こう。
浴場へ向かうと、脱衣場には誰もいなかった。
静かだった。
床は綺麗に磨かれ、洗面台の周りもきちんと整えられている。
浴場に入っても同じだった。
どこを見ても清潔で気持ちがいい。
きっと私たちが眠っている真夜中にも、誰かが掃除をしているのだろう。
湯船を磨き、床を拭き、明日の宿泊客を迎える準備をする。
そんなスタッフの姿を想像する。
不思議とその光景が少し羨ましく思えた。
静まり返った深夜の旅館。
誰もいない廊下。
眠る人たちのすぐ隣で動いている世界。
そう考えると、胸が少しだけきゅっとした。
露天風呂へ向かう。
白熱灯のやわらかな灯りが湯面に揺れていた。
湯に身を沈める。
思わず声が漏れる。
「あぁ……」
誰もいない。
湯船を独り占めである。
身体を伸ばし、少しだけ泳ぐ真似をしてみる。
心なしか、どこからかカエルの声が聞こえてきた。
壺湯に浸かる。
内風呂へ移る。
身体を洗う。
そして最後にもう一度露天風呂へ。
気がつけば三十分以上が過ぎていた。
脱衣場を出ると、今度はマッサージチェアでのんびりしようと思った。
しかし先客がいた。
女性二人が楽しそうに話しながら身体をほぐしている。
どうやらしばらく空きそうにない。
諦めて外へ出ると、妻がベンチに座って待っていた。
「そろそろ帰ろか」
二人で部屋へ戻る。
途中、自販機でアイスクリームを買った。
火照った身体には、それが妙に美味しい。
部屋へ戻り、窓を少しだけ開ける。
夜風が入ってくる。
その風に乗って、田んぼからカエルたちの大合唱が聞こえてきた。
ゲコゲコ。
ゲコゲコ。
昼間とは違う、夜の田園風景がそこにはあった。
心地よい風だった。
明日は朝市へ行く。
そう思いながら布団へ潜り込む。
カエルの歌を子守唄代わりに、私はゆっくりと眠りについた。
つづく