母は、便箋に二行しか書かない
「元気でやってますか。
身体に気をつけて頑張ってね。母より」
母は、便箋に二行しか書かない。
いつも、それだけだった。
私は長いあいだ、その二行を、ただの二行として読んでいた。
その余白に何があったのか。
気づいたのは、ずいぶんあとになってからだった。
そして、気づいてからのほうが、長く苦しかった。
*
若かった私は、家を出て遠い街へ向かった。
母は玄関先で、小さく手を振っていた。
私は振り返らなかった。
若い頃は、前に進むことしか考えていない。
後ろに残してきたものを、数えたりしない。
しばらくして、母から段ボール箱が届くようになった。
年に何度か。
開けると、缶詰。
インスタント食品。
風邪薬。
使い捨てカイロ。
冬物のセーター。
そして、一枚の便箋。
二行だけ。
ありがたかった。
でも、思っていた。
現金のほうが助かるのに。
送料をかけるくらいなら、そのまま送ってくれたほうがいいのに。
箱を開けるたび、そう思っていた。
私はずっと、中身だけを見ていた。
*
年月が流れた。
私は父親になった。
子どもが生まれた夜。
病院の廊下で、一人立っていた。
ガラスの向こうに、小さな命がいた。
その小ささが、妙に怖かった。
私は思った。
ちゃんと食べさせられるだろうか。
寒い思いはしないだろうか。
熱を出したら、どうしよう。
何かあったら守れるだろうか。
考えても、答えのないことばかりだった。
そのときだった。
不意に、昔の段ボール箱が浮かんだ。
缶詰。
カイロ。
風邪薬。
セーター。
二行の便箋。
私はしばらく、その場から動けなかった。
あの箱には。
ずっと、言葉が入っていた。
私は、それを読めなかった。
ずっと。
*
その夜、母に電話をかけた。
深夜だった。
呼び出し音が長かった。
母が出た。
私は言った。
「ありがとう」
それだけだった。
母は少し黙ってから、
「何が?」
と言った。
私は答えられなかった。
うまく言葉にならなかった。
箱のことなのか。
育ててくれたことなのか。
産んでくれたことなのか。
たぶん。
全部だった。
電話を切ったあと、しばらく暗い部屋に座っていた。
*
何年かして、久しぶりに実家へ帰った。
夕食の途中で、母がぽつりと言った。
「私はあと何回、あんたの顔を見られるんだろうね」
私は笑った。
「また来るよ」
それだけ返した。
その夜だった。
食卓に並んだ料理を見て、ふと思った。
私はあと何回。
この味を食べられるのだろう。
子どもの頃から変わらない味だった。
変わらない匂いだった。
いつでも食べられると思っていた。
でも、そうじゃない。
その日は来る。
どんなに食べたくても。
もう二度と、食べられない日が。
湯気が立っていた。
私はしばらく、箸を持てなかった。
*
思えば、子どもの頃。
ごはんができると、母はいつも言った。
「片付かないから、早く食べて」
私は急かされていると思っていた。
でも今は、少し違う気がしている。
*
今でも誕生日になると、母から段ボール箱が届く。
何十年も変わらない。
同じ箱。
同じ便箋。
同じ二行。
私は今年も箱を開けた。
そして閉じた。
何も言わなかった。
気づいた人間が、また、箱を閉めた。
気づくことと、生きることは、どうも違うらしい。
私は今年もまた。
受け取ったものに、返事を書けなかった。
*
母は今日も、便箋に二行しか書かない。
その三行目を。
私はようやく、読めるようになった。
*
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
この箱の話には、続きがあります。
ある夜、心が死んでいた。それでも、箒は動いていた。
閉店後の厨房の床で、私の心が止まった夜のことです。
書はここから始まりました。
「もういい」――間
玄関で息子に言われた一言と、その前の一秒について。私はこの一秒を「間」と呼んでいます。
母は、何もしなかった
同じ母のことを、違う角度から書きました。
『To be 大志 ―優しく、強く生きる哲学―』(Kindle版・ペーパーバック版)
