「もういい」――間
⸺聞いているつもりだった、あの頃の話
「今、忙しいから」
以前の私は、
そう言っていた。
誰かに話しかけられると、
手を止めずに返事をする。
聞いているつもりだった。
けれど、
相手の話は、
いつも途中で終わっていた。
*
ある日のこと。
家に帰ると、
息子が何かを話しかけてきた。
私は靴を脱ぎながら、
「うん」と返した。
息子は、
もう一度話した。
私は、
また「うん」と返した。
そして、
三度目。
息子は、
何も言わなくなった。
私はそのとき、
初めて顔を上げた。
「……どうした?」
そう聞くと、
「もういい」
とだけ言って、
その場を離れた。
*
私は、
追いかけなかった。
「ちゃんと聞いてた」
そう言えば、
済んだのかもしれない。
けれど、
その言葉を口にしたら、
また同じことになる気がした。
だから、
何も言わなかった。
*
翌朝。
昨日のことを、
何度も反省することはしなかった。
「次から絶対に気をつけよう」
とも思わなかった。
ただ、
話しかけられたら、
一度だけ手を止めよう。
そう決めた。
それだけだった。
*
数日後。
また、
息子が話しかけてきた。
私は、
いつものように、
「うん」
と言いかけた。
その瞬間。
手が止まった。
ほんの一秒。
顔を上げた。
「どうした?」
今度は、
そう聞いた。
息子は、
少し驚いた顔をして、
話し始めた。
私は、
最後まで聞いた。
*
それからも、
何度も忘れた。
手を止めない日もあった。
上の空で返事をする日もあった。
一度気づいたからといって、
人はすぐには変わらない。
それでも、
以前とは一つだけ違った。
自分が今、
どう返そうとしているのか。
そのことに、
少し早く気づけるようになった。
*
私は、
こういう一秒を、
「間」と呼んでいる。
間は、
我慢することではない。
黙ることでもない。
言葉が出る前に、
自分の中で起きていることを、
一度だけ見る時間だ。
*
以前の私は、
言葉が先に出ていた。
今は、
ほんの少しだけ、
言葉の前に、
自分がいる。
たった一秒。
けれど、
「うん」
だった言葉が、
「どうした?」
に変わることがある。
*
だから今は、
言葉を変えようとはしない。
正しい言葉を、
探そうともしない。
ただ、
言葉が出る前に、
一秒だけ、
自分がここにいることに
気づく。
それだけだ。
*
もしあなたにも、
言葉が先に出てしまった夜があるなら。
次に誰かが話しかけてきたとき、
一秒だけ、
顔を上げてみてほしい。
正しく答えるためではない。
相手を変えるためでもない。
ただ、
自分が今、
何を返そうとしているのか。
それに気づくために。
*
大きな出来事ではない。
人生を変えるような、
特別な一日でもない。
ただ、
返事をする前の一秒。
私は今も、
その一秒を練習している。
今でも私は間違える。
聞いているつもりで、
聞く前から、
返す言葉を探している。
それは、
聞いていない。
それでも、
「どうした?」と言えた日がある。
私にとっては、
それだけのことだ。
*
あなたにも、聞いているつもり
だった日はありますか。
もしあったら、
そのときのことを
聞かせてください🍀
*
ここまで読んでくださって、
ありがとうございます。
「間」は、
私の書の中で生まれた言葉です。
反応を遅らせることではない。
黙ることでもない。
言葉が出る前に、
自分の中で起きていることを、
一度だけ見る。
*
私は、
その一秒を
「間」と呼ぶ。
同じ「間」のことを書いた文章も、
いくつかあります。
・箒だけが、動いていた
閉店後の店に一人残された夜、
心が止まっても手だけが動いていた話です。
・「油っこい」――受け傷
言い返す言葉はあった。
三秒考えて、飲み込んだ日の話です。
・「パパ、お腹すいた」――指名
お腹を空かせているのが「誰か」ではなく、
私を呼ぶ声になった日の話です。
(マガジン「本の断片」より)
この日のことは、
書には書いていません。
書いたのは、
話しかけられなくなった夜のことです。
『To be 大志 ―優しく、強く生きる哲学―』
Kindle版・ペーパーバック版
