メインコンテンツへスキップ
見出し画像
Photo bylike_raven8780

照射|ぽちょん|あわいの掌編集10|シロクマ文芸部《レシートに》

    ひとりの部屋に落ちた小さな音が、母の声を呼び戻した。そんな短い物語です。

    レシートには貴女の健康が映るわ。

    抽斗の奥から、懐かしい筆跡が出てきた。
    黒猫のシルエットが入った便せんに綴られた端正な文字。
    一人暮らしをはじめた頃、母から届いた手紙だった。
    続く文章は、目を閉じても言える。
    一人暮らしの夜、何度も指でなぞったから。

    一月取って置いて確認すること。
    食品名が偏らないようにすること。
    バランスのいい食事を続けること。
    貴女の門出を応援していること。
    貴女はいつまでもわたしの娘であること。

    “ぽちょん”

    小さなシンクから、水はねの音が聞こえる。
    ふと、ひとりの部屋に響く。

    財布の中にレシートを探しても、見当たらない。そこでようやく気付いた。
    最近はいつも“ぴっ”で済ませてしまう。だから、もう手元には残らない。

    コンビニの袋から取り出したのは、レンジで温めただけのスープと、栄養表示の数字ばかりが目につく緑色のサラダ。

    我が家の肉じゃがは、合い挽きだった。
    じゃがいもに染みこんだ、肉の甘み。
    もう食べられない母の味がふいに蘇る。

    あれから、何度目かの春が静かにやって来ていた。
    わたしは今日、前向きにこの部屋を出る。
    その準備なら、もうおおかた終わっている。一人暮らしの荷物はさほど多くなく、けれど、詰めきれないものの方が、ずっと多かった。

    部屋の片隅に、文字の掠れた紙切れが一枚転がっていた。短冊状の紙切れを、紙屑にまとめる刹那、逡巡した。
    家族の健康には最後までうるさい人だったのに。母の呆れ顔が目に浮かぶ。

    まだ少し、子どものままでいたかった。

    次の街では、ちゃんとレシートを受け取ってみよう。

    “ぽちょん”

    私は扉を後ろ手に閉めた。

    レシートって、ただの紙切れのようでいて、
    その人の生活や記憶を静かに映す鏡のようなものだと思っています。
    母からの手紙と、一枚のレシートをめぐる短い物語でした。

    #照射 #創作大賞2026 #オールカテゴリ部門 #家族 #生活 #記憶 #春 #短編 #掌編 #シロクマ文芸部 #レシート #喪失と再生 #母と子 #あわい #照射 #エッセイ風フィクション #わたくさす節 #あわい


    前へ | 序文 | 先へ



    あなたへのおすすめ