
何もしてない一日を、ちゃんと生きた日にするために
今日、何もしていない気がする。
目立った成果はない。
やろうと思っていたことは進んでいない。
気づけば夕方で、「今日なにしてたんだろう」と立ち尽くす。
一日は終わりかけているのに、
自分の中には“達成した感じ”が何もない。
ちゃんと動いていたはずなのに、
形に残るものがないと、
全部なかったみたいな気がしてくる。
でも、本当に「何も」していなかったんだろうか。
朝、ちゃんと起きた。
子どもにごはんを食べさせた。
洗濯機を回した。
部屋を少し整えた。
とりあえず今日を終わらせるところまで来た。
振り返ってみると、ゼロではない。
ただ、派手じゃない。
誰にも見えない。
自分でさえ、見落としてしまうだけだ。
気づけば一日のなかで、何度もキッチンに立っている。
子どものごはんを用意して、
食べさせて、こぼれたものを拭いて、片づけて。
ほっとしたと思ったら、
次は大人のごはんを考えて、作って、また片づける。
料理をした、というより、
一日中キッチンに立っていたような感覚。
完璧じゃない日もある。
冷凍食品に頼る日もある。
掃除を明日に回す夜もある。
でも、そうやって少し手を抜けた日は、
ほんの少しだけ、ホッとする。
逃げたわけじゃない。
ちゃんと続けるために、力を残しただけだ。
なのに夜になると、
「今日、何もしてないな」と思ってしまう。
あんなに動いていたのに。
私たちは、成果でしか一日を数えられなくなっている。
何かが終わった。
何かが増えた。
何かが前に進んだ。
そうじゃない日は、
価値がないみたいに感じてしまう。
でも、何も起きなかった日は、
何も壊れなかった日でもある。
大きなトラブルもなく、
誰かが無事で、
今日が静かに終わろうとしている。
それは、当たり前じゃない。
「ちゃんと生きた日」にするために、
特別なことはしなくていい。
夜、今日できたことを三つ思い出してみる。
朝起きた。
ごはんを作った。
投げ出さなかった。
それだけで、今日をなかったことにしなくて済む。
変化がなくてもいい。
誰にも褒められなくてもいい。
うまくできなかったとしてもいい。
今日という一日は、
確かに自分が立って、動いて、考えて、引き受けた時間だった。
「何もしてない一日」じゃない。
ちゃんと、踏みとどまった一日だ。
そう思えたら、
明日が少しだけ、やわらかくなる。