
吾輩は地理学徒なり12|補遺
(読者に次ぐ)
稀に、あとがきやボーナストラックの類、先に読みたる輩ありと聞く。また、偶々、本章に至りたる御仁あるやもしれぬ。然れども、不可逆なる悲劇ここに生ずる故、本編未読の諸氏、努々この先に足を踏み入れること勿れ。
もし是を破らば──世界よりなこやん、静かに、そして確かに、消え失せん。
補遺・吾輩は舞台袖で花束を抱える
初めての小説『わたしは観測者で猫である』は、ある文豪の名を冠した賞を受賞した。
わたしは作家ではないから、文士のお作法は分からない。わたしの文学的実験は、当然、審査員からの評価が大きく割れたらしい。しかし、Sを天然キャラとして描ききら「なかった」ことが最後の決め手となったというのだから、世の中はとても皮肉である。
◇
授賞式も終わった頃、あの時の仲間たちが白馬岳への登山を企画してくれた。二泊三日で山頂を目指して出発する。
あの朝、Sの膝の状態が想像以上に悪く、さらにSとWのエンドレスな妄想が、一晩中サラウンドで垂れ流され続けたせいで、Kを除く三人は一睡もできなかった。体調は最悪だったけれど、それをSの筋肉痛のせいにしたのは全く悪手だったと思う。あり得ない。せめて「突発性周回性妄想性不眠性疲労症」くらいの偽診断をしておけばよかった。
けれど、その嘘が男友達にはまったく露呈しなかったのは幸いだった。あの混沌の中でひとりだけ熟睡していたKの神経構造の方が、むしろあり得ない。
◇
今度は駅舎で一夜を明かすわけにはいかないから、市内の温泉宿で、受賞を祝う宴が開かれた。今回は体調万全、天気予報も確認済み。「てんくら」はトリプルA。あとは宴をちょっと控えめに切り上げて、早く寝るだけだ。寝不足は大敵、山を舐めてはダメ。
あの頃と同じように精悍な顔をしたKが、宴の席で口火を切った。
「物語を引っ張る勢いで登場した割に、俺、出番がなかったよな?」
「観測対象以外には興味ないから、ってMちゃんは言いそう。でも──」
そういうKのぼやきに、幾分ふくよかになったK夫人(S子)が返す。
「いいじゃない。今やMちゃんと一緒に、高山植物の保全活動で大活躍してるんだから。花だけじゃなくて、たまにはわたしも愛でろぉ!」
「高嶺に咲くセリ科の花をぜんぶを集めてもキミの──」
Kは新進気鋭の植物生態学者で、高山植物の環境適応に関する研究と保全活動をしている。分類マニアっぷりも、少しだけ鳴りを潜めたけれど、じゃれ合うのなら家に帰ってから勝手にやってほしい。
「白馬での『生態を見なきゃダメ!』ってM、いや今はW夫人だな、の一言が本当に効いたんだ。もう人生の座右の銘だな」
◇
わたしは大学院への進学を諦めたのではなかった。Wを赴任地まで追いかけるつもりだったけれど、なこやんのない土地への渡航だけは思い留まった。観測対象が不在になったわたしは、その間に生物工学の道に復帰した。同じ大学には残れなかったけれど、Kの奨めでKの大学院に編入することができた。
ここに集まったメンバーは、あの頃のわたしの夢、つまり高山生態系の保全を一緒に実現してくれる仲間たちだ。Kがわたしと立案した「高山植物群落の保全計画」は、今現実の風景として、白馬岳のあちらこちらに息づいている。
その過程では、Wの自然地理学的な知見が大いに役立った。いや、縦横無尽で、視点自在な彼の視座は、ロジックや常識に囚われたわたしたちのアプローチを越え、今や核心へとより近づいている気さえする。
「Mで通ってるし、そのままでいいわよ。みんな混乱しちゃうから」
「みんなって誰?」いつもならすかさずツッコミが入るところだが、夫は部屋から姿を消していた。そうだ、巻末に新旧対応表を載せておくことにしよう、心の中で決めた。
「観測していないことは書けないから、アフリカ編が一番苦労したわ。生体デバイスでも仕込んでおけばよかった」
「マジでやりかねないから、その発言はほんとやめて」
少し引き気味のふたり。それにしても、Wはどこに行ったのかしら。わたしは手元の携帯デバイスを静かに操作して、──なんてことはしないわよ(にっこり)。
◇
「それより、わたし、昔語りまでして立ち位置はメインヒロインなのに、結局、ただのお色気要員の不思議ちゃんじゃない?」
何処に色気があったの、と言いかけてやめる。実際、S子は、そういう小型犬のようなポジションだった。でも、あの雑巾の朝も、白馬の夜も、彼女がWにそれとなく仕掛けていたのを、わたしは知っている。
方向がズレていたから、静かに観測を続けていたけれど、あの夜は少し危なかった。恋に恋する乙女だったS子の目が、寝袋の陰でふと“女の顔”になったとき──さすがに、少しだけ冷静さを欠いた。
位相に変調が生じて、ぐるぐるぐると世界が回り、回復ぷろことる──いや、名称すら怪しいそれによっても、制御できなかった。あの瞬間、わたしは観測者であることを逡巡した。ゆえに、わたしは観測対象に干渉するという初歩的な失態を犯した。
◇
その結果として、事態はわたしの仮説の及ばぬ方向へ動きはじめてしまったのだ。
◇
「それに、ブーケを押しつけたってなぁに?エールを送っただけよ」
そう言いながら、わたしにしなだれかかるS子の姿には、あの頃よりずっと、女性らしさが漂っていた。おとぎ話の純真無垢なキャラなんて実在しなかったのだから、素直にWと接すればよかったのに。──それでも、わたしは負けなかったけれどね。そして、鈍艦地理オタクを巡って綱を曳きあった戦友との友情は、今も変わらない。
そういうS子は、陸上実業団の専属トレーナーとして後進の指導に当たっている。スポーツ生理学に基づいた実践的なトレーニングと、本格的な山岳競技を組み合わせたプログラムは、選手の潜在力を安全に引き出した。そのため、故障で離脱する選手がほとんどいないという(なお、山岳トレーニングの日程がいつもK先生の調査とぴたり重なるのは、統計学上、偶然とは思えない)。
付け加えれば、直近の大きな大会で、金メダル選手が彼女と抱き合っている映像が全世界に流れた。その選手は、喜びのあまり主人にじゃれつく、かつての小型犬の生き写しだった。
◇
「Wは拗れていたけれど『吾輩は地理学徒なり』なんて臭い台詞、言ってたっけ?」
心なしか不機嫌な顔のKが言った。あの頃Kはひとりだけ蚊帳の外だったからね。はいはい、S子はちゃんと返しますよ。私はS子をちょっと押してKの方に返す。そうやって、いつまでもべったりしていてくださいな。
「自己紹介で『平成の伊能先生である』って宣言していたよね。みんなドン引きしてたの、覚えてる」
わたしは、彼と初めて会ったあの日を思い出す。それは何年経っても鮮明に、スチル画のように私の脳裏に残っている。
「どうしてそんな昔のことを覚えてるんだっけ?」
S子がにんまりと茶々を入れる。S子とのやりとりはもはや様式美で、その結果、S子たちがどういう反応を示すのかもわたしは知っている。だからわたしも言う。淡々と、でも、情熱的に。
「わたしはそれからずっと、あの人特化型の観測者だもの」
◇
観測者は観測対象から目を離せない。だから書き残した。これはわたしの実験ノートであり、実験系に必要なプロセスに過ぎない。──いや、それだけではなかった。気がつけば、わたしは彼を見つめていた。そして、彼しか見えなかった。
わたしはWに会った瞬間、不思議な心の揺れに襲われた。それは、生物工学的にはまったく解明できなかったけれど、どんな手法で解析しても、導出される解は、普遍的な感情だった。そこには、ひとつのばらつきも存在せず、逆に、わたしの心音は大きくばらついた。
夫は、その不思議な感情をひと欠けらの曇りもなく、暑苦しいほどの森見節でわたしに伝えてくれる。──曰く言語的豊饒だそうだ。でも、わたしはむしろ漱石派なんだけどな。
いつものやりとりに少しだけ変容を加えたわたしの告白をきっかけに、場が一気に盛り上がり、その熱帯はすぐには冷めそうにない。そんな私たちの熱帯を冷ましてくれた、ひんやりとした雪渓の風を思い出す。
瑞々しい感覚が、心のメモリーにリロードされて溢れかえる。もうすぐ、わたしの観測対象者、いいえ、わたしの物語の主人公が戻ってくる。
そして、明日、わたしたちはあの夏の日に会いに行く。
◇
わたしは被観測者の観測に明け暮れるだけの冷徹なアンドロイドではない。ふたつのはざまに揺れる感情に名前を付けられない分、あの子よりもむしろ要領が悪い方なのかもしれない。
リケジョも、ちゃんと恋してる。
恋するリケジョによる、恋を巡る壮大な文学的実験。
ちゃんと恋もするし、失態も犯す。失敗もすれば嫉妬もする。
◇
さて、その頃、Wこと僕は、花束を抱えて、籍を入れたばかりの妻に贈る「その感情」とともにドアの外で待機していたのだけど、──これって、「イン」の合図はいったいいつかかるんだ?
いつの間にか足元に黒猫が忍び寄り、小さくにゃー、と啼いた。
(Fine.)
(あとがき)
登山者よ、再訪せよ。この山稜はそれに真に値する。
さすれば何気ない凹凸のひとつひとつが変わるであろう。
なおその凹凸は、薄い寝袋に覆われし類いのものではないこと、付け加える。──黒猫🐾
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