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Photo byhukugyouotaku

マチガイ電話(2)

    第二話 苺大福の人

     ちょうどそれから1週間ほど後のことだ。
     再び同じような電話が、私のスマホにかかってきた。
     私が、夢と現実のはざまをゆらゆらと行きつ戻りつしていたときのことである。
     私は夢の中で、重く冷たい、金属の傘を差していた。何がどうなってその傘を差しているのかは不明だった。ただ一つはっきりしているのは、その傘をくれたのが父であるということだった。
     父は、鉄を製造する工場で働いている。彼はどうやらその工場の鉄で、私が身を守るための鉄の傘を作ってくれたようだった。過保護な彼らしい、と思った。私が差していたのは、その傘だ。
     空から降ってきていたのは、雨ではなかった。無数の虹色の光の粒だ。その光の粒は、私の差す傘に当たると、音になって霧散した。光は次々と降り注いでは消えてゆき、何らかのメロディーがリズムよく奏でられていく。しかもそれは、どこか聞き覚えのあるものだった。
     でも、このメロディーがなんだったのか、よく思い出せない。
     光の雨は、徐々に雨脚を強めていった。
     私は鉄の傘を、より強く握りしめた。光の粒がより強く弾かれ、それによって奏でられる音も、徐々に大きくなっていく。
     北風と太陽だ、と思った。北風の方だ。
     光の粒は、父がせっかくくれたこの鉄の傘を、私が手放すように仕向けているのだ。
     馬鹿だな、と私は思った。こんなに強く降ってきたら、私はより強く、傘を握りしめるにきまっているじゃないか。
     光の雨粒が、さらに強く、鋭く、降り注ぐ。
     私は鉄の傘をより強く握りしめ、腰を落とす。
     びりびりと手首が痛かった。それでも、なんとかそれを耐えしのごうとした。
     そして残念ながら、その場は北風と太陽のようにはいかなかった。
     太陽はやってこなかったのだ。そこにいたのは、圧倒的な強さを誇る北風だった。旅人そのものを飲み込んで、吹き飛ばしてしまいそうなほどの。
     光が膨らみ、音がどんどん大きくなる。
     明るく、まぶしく、目を開けていられなくなる。
     あれ、そもそも私は、目を開けていたのだったか。
     そんな風に思い、目覚める直前、私は光の粒が傘に当たって奏でる大きな大きなその音が、自身のスマホの着信音であることをはっきりととらえた。
     そうか、これはスマホの音だった。
     私の閉じた世界の内側で、外からの声を代替する音。
     最悪の目覚めだ。
     私はゆっくりと目を開けた。
     音の主は、枕元にあった。けっこう近くで鳴っていたらしい。
    「……はい、もしもし」
     少し声が掠れた。
     まだ声帯も目覚め切っていないようだった。
    「あ、もしもし、イナガキさんですか」
     ……イナガキさん?
    「いや、イナガキではないですが……」
     聞き覚えがある名前だ。
     次の瞬間、そうだ、と思った。
     先日の間違い電話の相手も、「イナガキさんですか」と言っていた。私に「悪意を抱いたことがない」という相談をしてきた、名前も知らない中年女性。
    「そうですか、イナガキさんではないんですか……」
     声の主は、あからさまに残念そうな声を出した。
     先日の中年女性とは違う、もっと若い感じのする、高い、軽やかな声だった。たぶん、同世代くらいの若い女性だろう。
     また、私はイナガキさんと間違えられたのか。
     イナガキさんが何者かは知らないが、二人もかけ間違えてくるということは、本人が自分の番号を間違って伝えて回るなどしてしまっているのだろうか。
     私はため息をついてから、電話の向こうの女性に伝えた。
    「あの、実は前にも同じようなことがあって……」
    「同じようなこと?」
    「はい。もう一人、イナガキさんだと思ってかけてきた方がいらしたんです。少し前に」
    「そうなんですか」
    「はい、だからもしあなたがイナガキさんから番号を聞いたのであれば、きちんと番号を確認するように、その人に伝えてもらえますか」
     私はベッドから身体を起こし、その縁に腰かける。
     時計を見ると、11時12分を指していた。軽く二度寝するつもりが、けっこう寝てしまったらしい。
    「え……?」
     電話の向こうで相手が驚きの声を上げる。
    「え?」
     私もその声に対して疑問符を投げ返す。私は何か変なことでも言っただろうか。
     電話の向こうから聞こえてきたのは、思ってもみない言葉だった。
    「私、イナガキさんにお会いしたことなんて、ないんですが」
    「はい?」
     会ったことがない?
     会ったことがない人に、電話をかけているのか、この人は。
     どうして。
     私が混乱していると、電話の向こうの女性は「でも、そうですね」となんだか納得した様子だった。
    「イナガキさんでなくても、大丈夫です」
     聞き間違えでも何でもなく、彼女ははっきりと、そう言った。
     ブーーーンと酷く現実的な音を立てて、家の前の道をバイクが通り過ぎていく。今日のお昼ご飯は何にしよう。昨日の夜に残った刺身を漬けておいたから、それを使ってお茶漬けでも作ろうか。
     はてさて。いま、電話の向こうの女性は、「イナガキさんでなくても、大丈夫です」と言ったか。
     前と同じだ、と思った。
     イナガキさんに電話をかけたはずなのに、イナガキさんでなくてもよい。前にかけてきた人もそうだった。間違い電話は百歩譲って仕方がないとしても、どうして彼女らは「イナガキさんでなくてもいい」などと言い出すのだろう。
     私が黙って考えを巡らせていると、電話の向こうで、女性が「あの、苺大福について相談したいんです」と言った。
    「はい?」
     初めは聞き間違えかと思った。
     でもどう考えても、電話の向こうの女性は「苺大福について相談したいんです」と言った。
     苺大福。私の大好物だ。
     一口齧れば爽やかな苺の果汁が口の中に広がり、餅の甘味や食感と相まって、私を幸せにする食べ物。
    「苺大福が、どうかしましたか」
    「私は、苺大福と出会い直したいと思っているんです」
     私は天を仰いだ。
     もちろん、自室なので正確には天井を見上げただけだが。
     彼女が発した文の意味は理解できた。でも、その発言の意図がよく分からなかった。
    『苺大福と出会い直したい』?
     たぶんまだ頭がはっきりと目覚めていないからだろう、と思うことにした。
    「出会い直したい?」
    「はい」
    「苺大福とですか?」
    「はい」
     私は再び、天井を見上げた。
     どうしてこう、意味の分からない相談ばかり持ち掛けてくるのだろう、イナガキさんに架電するはずだった人たちは。
    「どうして、そんなふうに思うんですか?」
    「いま、私と苺大福の関係は、否応なくねじまげられているからです」
    「はぁ……」
     否応なくねじまげられている……?
     私は一応、確認する。
    「あなたと苺大福との関係が、ですか?」
    「そうです」
     文の理解は合っているらしかった。だからこそ、よけいに分からなくなった。
     電話の向こうの女性と、苺大福の関係は、否応なくねじまげられている。
     何によって?
     というか「関係」って?
     そもそも、だからなんだというのだろう。
     混乱して何も言えずにいると、電話の向こうの彼女が、少し語気を強めて、言葉を足した。
    「私と苺大福は、もっと幸福な関係を結べたと思うんです」
     静かな怒りをはらんだ口調だった。
     どうしたどうした、なんだか怖いな、と思った。先ほどまでの穏やかな口調が一転する、その不安定さが怖かった。
     恐怖に飲み込まれるわけにもいかないので、私は再び、苺大福を思い浮かべた。もちもちした生地に包まれた、真っ赤で瑞々しい、大きな苺。
     食べ物と結ぶ幸福な「関係」とは、いったいどういうものなんだろう。
     私が黙っていると、彼女はそのままの調子で続けた。
    「私は、苺もお餅も餡子も、とても好きなんです」
    「はあ」
    「だから本来であれば、私は苺大福が大好きなはずなんです。もっと、幸福な関係を結べたはずなんです」
    「ええ」
    「でも、私は苺大福が嫌いになってしまったんです」
     そう言って、電話の向こうの彼女は、胸の中で煮えたぎる何かを吐き出すように、ため息をついた。
     私は首を傾げる。
    「はあ。味が、ですか?」
    「いいえ、味は好きです。でも、嫌いなんです」
     禅問答か何かだろうか。
     食べ物の本質は「味」だろうと思う。そこが好きなのに、その食べ物が嫌いになることなどあるのだろうか。納豆とかくさやとかドリアンとか、ひどい臭いがする食べ物だというのならまだしも。
    「じゃあ……どうして嫌いなんですか?」
    「あなたは、目覚ましのアラーム音に設定した曲って、嫌いになりませんか」
    「はい?」
     突然切り返されて、面食らう。
     アラーム音に設定している曲。今、何をそれに設定していたっけな、と記憶をたどる。
     着信音に設定している曲ならば、ついさっき聞いたので分かるのだけれど。
     私の返答を待たず、相手は続ける。
    「私は以前、大好きな曲をアラーム音にすれば気分よく起きられるだろうと思って、好きな曲を、目覚ましのときの音に設定していました」
    「はあ」
    「でも、残念ながらそれを続けているうちに、大好きな曲が、嫌いな曲になってしまいました。メロディーや、リズム、歌詞は大好きなのに。〝私の睡眠を何度も妨害してくる曲〟というイメージがついてしまって」
    「……なるほど」
     そういうことならば想像ができる。
     私が今、着信音に設定している曲は、「ラデツキー行進曲」だ。先ほど夢の中で、光の雨を降らせていた音楽。
     今は別にまだ、なんとも思わないけれど。
     確かにああやって最悪な目覚めの時に何度も何度も「ラデツキー行進曲」を聞いてしまったとしたら、もしかしたら、あの曲を嫌いになってしまうかもしれない。
    「私と苺大福も、そうなんです。もちろん、まったく同じではないのですが。似たような形で、関係性をねじまげられてしまったのです。具体的には申し上げませんが、つまり……」
     彼女はそこまでで一度言葉を切って、息を深く吸ってから、続けた。
    「……私にとっての辛い記憶と結びついてしまって、味そのものは好きなのに、嫌いになってしまって」
    「そうですか」
     電話の向こうの彼女は、少し苦しそうにした。彼女にとっての「辛い記憶」なるものを思い出しているのかもしれない。
     生きていれば、「辛いこと」の一つや二つもあるのだろう。誰かの悪意によって攻撃されることもあれば、悪気はないのに傷つけられてしまうこともある。
     私にもある。
     誰も悪くないのに、私自身がひどく傷ついてしまった出来事が。
     「だから」と、電話の向こうの彼女が続けた。
    「だから、私は苺大福と出会い直したいと思っているんです。今は不当に、彼との関係性がねじまげられているように思います」
    「はあ」
     いま、彼女は苺大福を指して「彼」と言ったか。
     どうやら彼女の中で、苺大福は男性性をもつらしい。私はどちらかというと苺大福は女性的だと思っていたのだけれど。
     まあでも、そんなことはどうでもいい。
     私は首を傾げて、天井を見上げた。
     私と外を隔てている、味気ない平面。
     彼女の言ったことを頭の中でゆっくりと咀嚼してから、「でも」と、私は言った。
    「そうは言っても、出会い直すって、どうすればいいんでしょう?」
    「そうですね……、こればっかりは、記憶を消して食べるということくらいしか、思いつかなくて」
     電話の向こうの彼女が、小さく息を吐く。
     「記憶を消してもう一度読みたい本がある」とか、「記憶を消してもう一度やりたいゲームがある」とかいった話ならば、よく聞く。実際に私にも、そういうしたいと思う本やゲームがある。
     けれど、それを苺大福で、というのは初めてだった。
     ――記憶を消して、もう一度、苺大福に出会い直したい。
     なんだか素敵ではないか。
     彼女が苺大福とそうしたいと思っている時点で、もうすでに十分、彼女と苺大福とは幸福な関係にあるように思われた。
    「でも、そもそも記憶を消すなんてこと、できないですよね」
    「そうなんです」
     メモリから不都合なものだけ選択して削除するみたいに、頭の中の記憶を「選択削除」できればいいのだけれど。あったことを、なかったことにはできない。あったことの重みを軽減するということくらいなら、まだ可能かもしれないけれども。
     私は、自身にとってのそれについて考えた。
     やっかいな記憶。
     消してしまいたい記憶。
    「あの」
     と、電話の向こうからかけられた声で、我に返った。
     気づいたら、私はそれなりに長い間、沈黙してしまっていたようだった。
     彼女は、おずおずと言った。
    「あの……ところで」
    「はい。なんですか」
    「やっぱり、私の辛い記憶について、少しだけ、聞いていただけますか」
     え、嫌なんですが、と心の中で思った。
     他人の辛い記憶なんて、聞いて気持ちのいいものではない。
     だいたいあなたは、イナガキさんと話すつもりで電話をかけてきたのではなかったのか。なんで名前も知らないあなたの辛い記憶について、私が聞かなくてはならないのか。
     私が黙り込んでいると、電話の向こうの彼女はその反応を「いいですよ」という意味に受け取ってしまったのか、
    「実は、私の両親は、私が中学の頃に離婚をしたのですが……」
     と、自身の「辛い記憶」について話し始めた。
     私はそうして始まってしまったそれを、止めることもできず。仕方なく、「へえ」「そうなんですね」と適当な相槌を打ちながら聞くことになってしまった。
     曰く、彼女の両親はもともと、とても仲が良くて。小学校一年生になるくらいまでは、母親と父親と自分の三人でいろんなところに出かけ、楽しく過ごしていた、とのことで。
     しかし、彼女が小学校二年生に上がり、母親が仕事に復帰して共働きになると、二人の仲がどんどん悪くなっていったのだという。
     どうやら彼女の母親が、仕事復帰した先の職場の人と、不倫をしていたらしい。母親はどんどん帰るのが遅くなり、時折、朝帰りをする日もあったほどだったそうだ。
     両親は二人ともほとんど家にいなかったけれど、家にいるときには、父親と母親はいつも喧嘩をしていた。一人っ子だった彼女は、別室で耳を塞いで、その怒声から逃れていたという。
     けれど、喧嘩をしている時はまだよくて。
     やがて彼女の両親は離婚の相談をするようになった。
     彼女はそういう時、いつも母親にこう言われたそうだ。
    『あなたの大好きな苺大福を冷蔵庫に用意してあるから。それでも食べて、テレビでも見てなさい』
     母親としては、娘への罪滅ぼしのつもりだったのだろう。冷蔵庫に決まって用意されていたのは、小さいころから彼女が大好きだった、近所の和菓子屋さんの苺大福だった。家族三人で、よく食べていたものだ。
     喧嘩は平気で娘の前でしていたというのに、離婚の相談だけは、両親で連れだって外へ出かけてしていた。だから彼女はその間、思い出の詰まったダイニングで、大好きな苺大福を頬張って、必要以上に陽気なテレビ番組を、見るともなく見ていたという。
    「それで、嫌いになったんです、苺大福」
    「そうですか」
     私は何も言えずに、相槌だけ打った。
    「今でも思います、母親が不倫さえしていなければ、あのまま仲良くやれていたはずなのに、って」
    「そう……ですか」
    「あの時間が私は、本当に本当に、辛くて。苺大福が嫌いになってしまった」
    「なるほど」
     やはり、なにも言えなかった。言うべきことが思いつかない。
     先日聞いた「悪意をもって悪いことがしたい」なんていう甘ったれた悩みとは、ずいぶん異なる重みがあった。
     私は、苺大福が大好物だ。
     彼女とは違って。
     いや。
     昔の、「関係を捻じ曲げられる」前の、彼女と同じで。
     私は再び、電話の向こうの彼女に確認をしてみた。
    「味は好きなんですか、今でも」
    「ええ、たぶん。苺もお餅も餡子も大好きなので」
    「なるほど」
     苺も、お餅も、餡子も。
     私は少し考えて、一つの提案をしてみた。
     たぶん、私にとっての苺大福と、彼女にとっての苺大福は、違うものなのだろうなと思って。
    「違う和菓子屋さんで、苺大福を買ってみませんか」
    「違う和菓子屋さん、ですか」
     電話の向こうで、女性が私の言葉を復唱する。
     私は「はい」と言いながら、深くうなずく。そのうなずきは、相手には見えないのだけれど。
    「苺大福って、いろんな苺大福がありますよね。和菓子屋さんによって、全然ちがう」
    「そうなんですか」
    「はい。実は私も、苺大福が大好物なんですが」
    「え、そうなんですか」
     電話の向こうで、少し弾んだ声がする。
    「ええ。苺大福が大好物なんですが、私のよく買う和菓子屋の苺大福には、餡子が入っていません」
    「え」
    「あなたはいま、『苺もお餅も餡子も大好きなので』って言いましたよね。きっと、その思い出の苺大福は、餡子入りのものだったのでしょう。でも、私が好きなのはそれとは違って、苺とお餅だけの苺大福です」
    「そう、ですか」
     ため息をつくように、電話の向こうの女性が言った。
    「だから、そういう苺大福に出会ってみたらどうですか」
     「そういう苺大福」と、小さな声で、電話の向こうの彼女がつぶやく。
    「……それは、名称としては同じ『苺大福』ではあるけれど、私の思い出の中の苺大福とは違うもの、ということですか?」
    「そう」
     私はうなずいた。
    「和菓子屋ごとに、苺大福は違います。もしかしたら、新しい苺大福のことを好きになることで、嫌いになってしまった苺大福すら、愛おしく思える日が来るかもしれない」
     特に確信はなかった。
     けれどもしかしたら、そういうこともあるかもしれない。もしかしたらあるかもしれないならば、希望について語ることは、そう悪いことではないように思われた。
     お互いに、数秒黙り込んだ後。
     口を開いたのは、相手の女性だった。
    「……そうですね。ありがとう」
     相手の声には、あたたかい温度があった。
     それはまるで贈り物のような、心のこもった「ありがとう」だった。
     悪い気はしなかった。少し嬉しくすらあった。
     続けて彼女は、「もう、そろそろ時間ですね」と言い、再び私にお礼を言った。
    「今日はありがとうございました」
    「いえ、いいんです、どうせ暇なんで」
     と、私は答えた。
     電話の向こうの彼女は、繰り返しお礼を述べ、最後に「またお願いします」「イナガキさんによろしくお願いします」とだけ言って、電話を切った。
     外部との接続が失われ、音が失われる。
     部屋の中は、いつものように、ベッドの上にぽつねんと座す私だけになった。
     私は、急に息をしなくなってしまったスマホを見つめた。
     電話の主は、最後に「イナガキさんによろしく」と言った。前回の、悪意の人のときもそうだった気がする。
     何者なのだろう、「イナガキさん」というのは。
     どうして彼女たちは、「イナガキさん」ではなくてもいいから話を聞いてくれなんて言うのだろう。
     それにしても無責任だな、と思った。「イナガキさん」が正しくスマホの番号を教えなかったばかりに、本当は聞くべきだったかもしれない話が、こうやって失われていっている。
     そう思うと、同時に少し、不安にもなってきた。
     せっかくイナガキさんに手渡されるはずだった話が、社会の片隅であえぐ私という袋小路に、行き場なく、閉じ込められてしまっているように思われて。
     私は、ベッドから立ち上がった。
     このままではいけないと思った。
     真っ白な壁で囲まれた、閉じた、四角い部屋。ここには、ベッドと、衣装ケースと、勉強机しかない。勉強机は、私が小学校1年生に上がるときに両親に買ってもらい、それ以来ずっとこの部屋で使っているものだ。
     私はその勉強机の椅子を引き、腰かける。
     机の棚の上には、いくつかノートが並んでいた。大学の時の講義の内容を書き込んであるノート。社会人になってすぐの頃に、ひたすら先輩や上司に教わったことをメモしていたノート。
     黒鉛で紙に刻まれた、私の社会的な記憶。
     私は棚からいくつかノートを取り出しては、ぱらぱらとめくった。確かまだ、使っていないノートがあったはずだ。
     ほどなく、白紙のノートが見つかった。B6サイズ。少し大きめのメモ帳とも言えそうなノートだ。職場で仕事内容を書き込んでいたのと、同じサイズのもの。使おうと思って買って、使われることのなかったノート。
     引き出しから、ボールペンを取り出す。カチッとペン先を出し、見開きの1ページ目に、次のように書きこんだ。
    〈イナガキさんへ相談されるはずだった話の記録〉




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    げん

     
     
    個性や自由ではみだしていく会社員。 女性やらせてもろてます。もの書き。

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