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【短編小説】アンダーグラウンド 2

    第1話


    【本編】 2/3

     次の日は休みだった。
     タダシは向かいの『むとうマンション』の上を飛びまわるカラスの声で夜明け前に目を覚ました。外では三毛猫がしっぽを左右にくねらせ人間のいない世界の喜びを表現しながら歩いていたがそれを邪魔するように年配のサラリーマンが小走りでバス停に向かっていく。夜が明けた空は磁器のように白く画一的で人工物のようだった。

     彼が空腹を感じキッチンに行くと老婆がいつもの濃紺のワンピースに黒のカーディガンを羽織り椅子に座っていた。彼は一瞬戸惑ったがそのまま朝食の準備をする。グラスに水道水を入れ冷蔵庫から食パンを二枚取り出して平皿の上に置く。それから少し考えて老婆の向かいに座った。
     老婆が見えるほど薄い食パンに砂糖をまぶしてかぶりつき水道水で流し込む。できるだけ音をたてないようにゆっくりもっちゃもっちゃと食べた。老婆は呆れながら彼が食パン2枚を食べ終わるのを待っていた。
    「うまいかい?」
     老婆はしかめっ面をしてタダシをじっと見た。彼は老婆がなぜ顔をしかめるのかわからなかったが構わず咀嚼し嚥下する。
     老婆は黙って立ち上がり自分の部屋に行った。しばらくして戻ってくると皺くちゃのごつごつした手に薔薇色のリンゴをのせて持ってきた。リンゴは静物画から取り出したようにつやつやで水晶玉のようにこちらの世界をうつしだしていた。
     これも食べな、老婆はにやけながら半分に切ったリンゴをタダシに渡す。タダシは逡巡して目をそらした。ほら、そう言って差し出してくる老婆の両手をじっと見る。老婆はタダシの視線に気がついて宝石に眺めた。
    「きれいだろ」
     彼女はそうつぶやくとリンゴをおいてグータッチのように両手のこぶしを彼に向けた。宝石は燦爛と輝きタダシの目を苛んだ。と同時に彼の内奥が少し揺れる。
     地底のマグマを結晶化した深紅のルビーは老婆のエネルギーを、夜明け前の空を映しとったサファイアは洞察力を、光の色を可視化したトパーズは裏にひそむ危険さを、そして森にひそむ獣の目のアレキサンドライトは老婆の読めない心を表していた。
    「この四つは全部盗んだもんだ。仕事でね。でもほかは自分で買ったよ」
     つまりこの四つは老婆の罪深さを表していた。
     老婆が自分で買ったという四つの宝石は少し変わっていた。右手の薬指の黒曜石と小指のオニキス。濁りのない黒にタダシは吸い込まれそうな錯覚を起こした。
     もう一方の左手の薬指には小さなジルコニアと小指にはどの宝石よりも大きいエメラルド。難解な人間のなかでも難解な老婆のセンスは現代アートと言ってもいい。老婆はしばらくジルコニアとエメラルドを見つめていた。
    それから
    「あの男はお前に何か言ったかい?」
    と老婆がタダシに目を向けて聞いた。彼がリンゴをかじりながら小さく首を横に振ると老婆はまぁそうかとつぶやいた。老婆にはめずらしく何かを迷っている。
    「あたしは今日、いままで一番いい目覚めだったよ。最後かもしれないね」
     タダシがしゃくしゃく咀嚼するだけで反応しないのにも構わず続けた。
    「おまえがなんと聞いてるかはわからないけどね……。あんたはあたしの孫じゃない。ましてや息子でもない」顎を上げてタダシをじっと見る。
    「あたしは親が持ち逃げした金を返すために十二のころから働いてんだ。あたしを置いて逃げてった親のために。たぶんおまえも同じじゃないか」
     キッチンに冷蔵庫の音だけが響く。
    「だけどおまえの場合はたったひとりの家族のために働けって言われてここに連れてこられたんだろう? あいつのやり口さ」
     老婆がにやりと口角をあげて笑い、タダシがぽろっとリンゴを落とす。
    「あたしは親の借金を返すためにいろいろやったさ。窃盗に空き巣、詐欺に強盗。年を取ってからは教団幹部にもなったし山奥の村で水も売った。黒くなっていけばいくほど歯は白くなったがね」
     にやけた口元から大理石のように頑丈そうな不気味な白い歯がのぞいた。
    「今となってはなんでそんなもんのために働いたのかわからないね。働いて得たものより失ったもののほうが大きいなんて。気づいたときには戸籍も住民票も売られたし、いろんな名前を使いすぎてもう本名を思い出せない。どこで生まれ育ったかも覚えてない」
     老婆はふと我に返ってばつの悪そうな顔をしたあと手元に目を落としエメラルドのなかを見つめた。タダシは最後の一口を咀嚼している。

    「昨日来た男、筧。ほら十三年前におまえを連れてきた男、あいつがおまえの金を奪ってるやつさ。小狡いやつでね、あたしがあいつに金を渡してんのさ。あいつは働けそうな債務者の借金を肩代わりをする代わり債務者を死ぬまで使ってそれ以上の額を稼ぐんだ。あたしやおまえみたいなやつなんかどこにも行く当てがないからピンハネされてもやつのもとで働くしかないだろ」
     タダシは異変を感じてきゅっと引き締める。
    「もういくら取られたかわかりゃしない。働けなくなったやつはギリギリまで搾り取って殺した後、自分の建物の地下に隠すらしい」
     老婆はテーブルの上にあるみかんを一瞥し、こんなに食えやしないとつぶやき、ふっと笑う。
    「おまえ、いま掃除屋をやらされてんだって? おまえに向いてそうだね」
    タダシは感情の起伏や暴力性がほとんどなかったため若いころから万引きや窃盗、尾行の仕事をさせられてきた。
     ここ数年は死体処理もやらされているが死体処理は彼にとって部屋の片づけの延長で、余計なことをせずてきぱきと仕事する彼の姿は虫に近い。
    「いつまでもそんなことしてないで少しは役立つことをしな。おまえのことを教えてやったんだ。もっと自分のことを知りたきゃあの男に近づくといい。そのうち機会を見て事務所のなかを探ってみな。なんらかの書類はあるはずだ」
     タダシがぷるぷる震える。
    「やつは小心者で強欲だからひとりで仕事を取ってきてんだ。いずれおまえをもっと使って稼ごうとするさ」
     老婆は椅子から立ち上がり震えるタダシを見下ろす。
    「外をぼんやり眺めてないで自分の手でなにかやったらどうだい。多少なりとも変えられるかもしれないよ」そう言ってみかんをタダシに渡した。
    「もうおまえとは家族ごっこはおしまいだ。あたしは自分のところに帰るよ」
     老婆は踵をかえし部屋へ向かった。タダシは急いで立ち上がりトイレに向かったが老婆が先に入って戸をガチャッと閉めた。

     タダシが駅ビルの休憩所で一日じゅう繁華街の人の流れを見た帰り、部屋の前で筧と数人の男がなにかを話し合っていた。男は彼を認めると部屋の中に入り老婆が死んだことを告げた。
     どうやら夕方に様子見で寄ってみたらもう老婆はすでに死んでいたらしい。死因はわからないけれどおそらく昨日の発作が再発したのかもしれないという。部屋をのぞくと老婆の遺体はどこにもなく家具だけがそのまま置かれていた。
    「おばあさんのことは俺たちに任せてくれ。手続きは全部やっておくよ」
     男は残念だったねと言い、うなずく。それからタダシの眼をのぞき込み「おばあさんから何か聞いたか?」と質問してきたが彼はただ首を横に振った。そうか、男はそう言って自室に行こうとするタダシを呼びとめた。
    「おまえにはそろそろ別の仕事についてもらおうと思ってたんだ。これも何かの運命だ。この部屋を出て新しいところに越すから今すぐ用意しろ。いらないものはそのままにしておけ」
     タダシは部屋に入って荷物をまとめた。荷物と言っても数着の服と単眼鏡、枕、その他仕事道具がいくつかあるだけだった。タンスを開けて仕事道具を閉まっていると老婆のシャーペンとはがきサイズの箱が二箱入っていた。箱はひとつ開いていてシャーペンの先は斜めにとがっている。タダシは字が書けないことを老婆は知っていた。

    「よし、これはおまえの分だ」
     筧は手にしていた封筒をタダシに渡した。彼が手に取って中を確認すると十一万円が入っていた。男曰く親の借金分を差し引いたらどうしても半端な額になるらしい。タダシはいつもどおり特に気にするふうでもなく斜め掛けのショルダーバッグにしまった。
    「たまにはいいもの食えよ。蕎麦ばっかりじゃなくて」筧はまた何かあったら連絡すると言って金を数え始めた。
     タダシはぺこっと頭を下げて事務所を出るとよく行く小さな蕎麦屋に入った。いつもどおりざるそばと天ぷらの盛り合わせを頼む。
     彼が空き巣の仕事を始めて2年、まさに天職といえた。決して賢いとは言えなかったが彼の寡黙さ、欲の欠如、目的遂行までの愚直さが無駄な思考を排除し教えられた基本をすべて忠実に再現させた。
    ――忍。仲間内の頭の中に一瞬その名がよぎった、がしかし眠気覚ましのためにタダシがコーヒー豆をかじりながら震えている姿を見て以来仲間内にその考えが生じることはなかった。

     彼がいま住んでいるのは事務所から五駅離れた中規模の街のはずれにある雑居ビル『上野JSビル』。街道から一本入ったところにあり一階にはリラクゼーションを謳ったヘルスマッサージの『だてんしのまほう』が、二階にはパブ『ぱらだいす』がありその上の共同住宅にタダシたち住人が住んでいる。
     どちらの店もスタンプを積み重ねることで〈わるいコト〉ができるとパブで働くリンゴちゃんからタダシは聞いた。実際に下の階に住む伊部という男がスタンプを制覇し〈わるいコト〉をしたらしいが翌月に破産してビルから追い出されていまはもういない。タダシはいかがわしいことに一切興味がなかったけれどそれが逆にかわいいと女性たちに持てはやされよく話しかけられていた。
     彼はここ最近新しい習慣を身に着けていた。毎晩九時になると彼は部屋の壁にスーパーボールをぶつけ始める。一、二、三……、すると隣からドンっと壁を叩く音がする。十三回。彼がスーパーボールを壁に当てて十三回目でどうやら隣の住人は限界だったらしい。昨日は三回目だったことから今日のお隣さんは調子がいいと言える。この新しい習慣はタダシにとってある意味観察だった。
     隣の住人は計量器メーカーに勤めスタンプラリーを着々と集めているアコさんという男。顎が特徴的だったからか苗字が亜湖だったからかそう呼ばれている。アコさんは半年前にワインバーで同僚と飲んでいたところ会社のべーパーレス化――紙がいるかどうか――を巡って口論となり持っていた分銅で相手をぶん殴って傷害事件を起こした。アコさんは絶賛執行猶予中の身で様子を見る必要がある。そういう話をタダシはリンゴちゃんから聞き、こうして毎日精神状況を診断しているのだった。
     無論、アコさんはタダシを第二の犠牲者にしかねないほどキリキリしているが隣人に手をかけるわけにはいかない。まさに今にも切れそうなロープの上を渡りながらタダシにロープを揺らされている状態。いつ地の底に落ちてもおかしくはないけれどタダシはそんなことに気がつかない。
     むしろ彼は隣の男がロープの上で左右にぶれるのに合わせてロープを動かしているつもりでいる。がそこに善意はない。彼にとってはアリの巣穴を埋めて観察するのと同じでただどうなるかを見ているだけなのである。

    第3話


     
     

    がぶ

     
     
    好きなことや思ったことをつぶやいています。 タイトルをつけるのが苦手なので克服したいと思っています。 旅行と読書とお酒が好きです。いわゆるよくある趣味です。 夜更けにスキする傾向にあります、ごめんなさい。

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