
【短編小説】アンダーグラウンド 3
第1話
第2話
【本編】 3/3
蕎麦屋で会計を終えるとタダシは家ではなく事務所のほうに歩き出した。支払いの時に単眼鏡を事務所に忘れたことに気がついたらしい。彼はいつもどおり最短ルートで移動し公園を突っ切っていった。
今年の夏はいつもよりおとなしく人間たちに冷夏だ冷夏!とねちねち言われた。それに嫌気がさしたのか夏は早めに過ぎ去り今度は秋が来ると人々は「~の秋!」と唱えながら年中やっていることをやり始めた。
いまはそんな秋の真っただ中、公園では大学生の数人が何を言っているのかわからない音楽に体をくねらせ、高校生二人が屈んで誰も座っていないベンチに向かってポップな手話をしている。それをサラリーマンが二本目のカップ酒を飲みながらはぁ青春だねぇとつぶやく。タダシはそのなかをすたすたと最短距離で移動していく。
事務所に着くと鍵が閉まっていて彼の上司はもう帰ったようだった。タダシは一瞬考えたがショルダーバッグから解錠用の道具を取り出し難なく鍵を開けた。なかは誰もいない。電気をつけようかと思ったが勝手に入ったことを怒られそうなので彼はヘッドライトを装着しセキュリティを解除してロッカーのほうに進んでいく。そこでふと老婆の言葉を思い出し、彼はロッカーのある更衣室の前を通り過ぎて奥の部屋に入っていく。
奥の筧の部屋はがらんとしていて物はそんなに多くない。ざっと見まわしいくつか資料のありそうな場所を開けるとファイルのなかに筧が雇っている者の情報が載っている資料があった。いまどき紙の資料なんてめずらしいがパソコンを信頼しすぎない筧の性格なのかもしれない。
タダシの情報はすぐに見つかった。彼は自分の情報にさっと目を通してページめくるとそこには彼の家族に関する情報が載っていた。それによると両親はすでに死亡。タダシがまだ小さいときにギャンブルの借金苦のあげく夜逃げ。しかし逃走先で見つかり筧のもとで働かされていたが詐欺で得た金を持ち逃げしようとして失敗し殺された。
そして隣に目を移すと彼の弟の情報が載っていた。タダシに弟がいたという記憶はない。資料によると二人は学校に上がる前に異なる養護施設で育てられ、タダシは小さいころから工場や農場で違法に働かされ弟は反社会的な劇団の天才子役として働いた。だがタダシが筧に『アパート ヘブン』に連れてこられてから数年後、弟は十七歳の時に何者かによって殺された。事件についてそれ以上の詳しい情報はなかった。
どうやらもうタダシには家族はいないようだった。彼は1ページだけ抜き取って資料をもとの場所に戻した。
ここ数週間、太陽が姿を見せず曇天と降雪が繰り返し気温はずっと氷点下の日々が続いた。普段日の目を見ることのない地球温暖化懐疑論者は舞い上がりぶるぶる震えながら雪合戦をする動画を投稿し温暖化信者はあたたかい部屋でなりをひそめ夏の到来を待った。
タダシが仕事を終えて全身もこもこの格好で事務所を出ようとすると筧が声をかけてきた。
「このあとちょっと付き合え」
男はこれに着替えろといってスーツを渡した。
タダシは当然乗り気ではなかったけれど仕事の話だというので仕方がない。慣れないスーツに着替えながらぼんやりと考える。
今日の診断に間に合うだろうか、アコさんが最近おかしい。マムシを配合した精力増強剤を箱買いし『ぱらだいす』に入り浸って終始リンゴちゃんに付きまとっているという。タダシはことあるごとにリンゴちゃんから話を聞かされ、この間は部屋まで押し掛けられた。ただリンゴちゃんの雷鳴ようなの声量とマナーモードの設定ができない話し声は当然隣のアコさんの耳にも入り、それ以来タダシはアコさんにしつこく絡まれるようになった。
アコさんはある時はタダシを罵倒しまたある時は俺のリンゴに近づくなと忠告した。かと思えばタダシを無理やり食べ放題に連れていきばくばく食べながら夢を語った。そのうち宝くじが当たって大金持ちになり大邸宅でリンゴちゃんと働かずに暮らす他力本願のよくある夢。にもかかわらずそう言うアコさんの表情は完全に宝くじが当たると信じ夢に酔いしれていた。その余韻のなか、帰り際に店員からクーポンの併用を断られたアコさんは難癖をつけはじめ最終的に俺は客だから神様だと言い放った。ここ最近のアコさんはだいぶ乱れており担当として予断を許さない状況が続いていた。
タクシーを降りて筧が高級クラブ『セナ』に入っていく。
席に着くと筧はタダシに優しい目を向けた。タダシは見慣れない光景にまわりをきょろきょろしていたが知らない女性が隣にいきなり座ってきたので固まった。そしてなぜか用事もないのに話しかけてくる。筧はその様子を見て女性と席を変わった。
「最近どうだ、仕事は」
男は飲め、といってシャンパングラスをタダシに渡した。
「じゃあ、タダシ。おまえの仕事ぶりに乾ぱ――」
男が言い終える前にタダシはシャンパンを少し口に含んだ。けれど顔をしかめもう一口飲むふりをしてグラスに吐き戻す。男もホステスも何事もなかったように乾杯し、しばらく団らんしていた。その間タダシは暇だったのでシャンパンの泡を見ていた。
ようやく話に一区切りつくと筧はタダシのほうを向きタダシを労いはじめた。
「ほかのやつからも聞くんだが、おまえ最近すごいらしいな。いままで見てきた中で一番て聞くぜ」
男は心の底から感心した様子で言った。それからも何かとタダシを褒める。タダシとしてはそんなこと事務所で言えばいいのにと思っていたけれど筧にはそんなことわからない。
でも筧にはなぜか褒めているのにタダシの顔が能面から陶磁器に変わっていくのはわかった。筧は切り上げどころがわからず、だんだん青磁の壺に話しかけている気持ちになっていった。
それから筧はなんとか自分のメンツを保ちつつ思わぬ苦境を切り抜けて本題に入った。
「タダシ、おまえ何がほしいものあるか? 金とか家とかよ」
タダシは図りかねた。筧と知り合って長いがいつも買い与えるだけで要望を聞くことはなかった。男は少し声を小さくして続ける。
「ていうのも……おまえには俺の仕事の専属でいてほしいんだ。知ってると思うけど俺はおまえがいないと生きていけねえ。おまえの親が俺の金を持ち逃げしてどこかへ行っちまったから金がねぇんだ」
男は高級クラブで聞くには説得力のない話をする。
「それでも今まで生きてこれたのはおまえのばあさんが凄腕だったからなんだ。ばあさんが辞めそうになった時は引き止めんのに苦労したよ。最終的には残ってくれたから恩返しにおまえが来るまでばあさんの老後の面倒も見たし金も送った」
シャンパンをくいっと飲み干し男は続ける。
「それにおまえは世の中のことを何もわかっちゃいねえ。特に俺たちの業界は詐欺師だらけだ。いままでどおりおまえがだまされないように俺が守ってやる。だからおまえもおれを助けるつもりでやってくれ、な?」
タダシは男がここまで懇願するのを初めて見た。
「何がほしい? できることならでもしてやる」
タダシは考える。がほしいものはない。
男は間をおいて静かな声で言った。
「おまえの家族をさがしてやろうか」
アルコールの苦みが口に残っていた。
「さがせば何かわかるはずだ。なんでおまえには家族がいないのか、いまどうしてるのか。俺もおまえのことは拾ってやったがほかの家族のことは知らねえ。でもさがすことはできる」
ぬるくなったシャンパンから泡が消えていた。
「おまえのいまの稼ぎなら養っていくこともできる。なあどうだ、知りたくねえか」
男はじっとタダシの目をのぞき込み答えを待った。タダシはうつむく。
それから沈黙が続いた。ホステスが頭のなかで一曲歌い終わって二曲目のイントロを歌っているとタダシが帰りたい、と小さな小さな吐息のような声で言った。
男は口を固く結び考える表情を見せた。腕組みをしうつむく。
「まああれだ、急だったな。とりあえず今日は帰っていい。悪いな仕事終わりに」
男はそう言うとタクシー代と言ってタダシに金を渡した。
「じゃあ仕事のほうはこれからも俺のところでってことで頼むよ」
男はできる限り口角をあげタダシの背中を優しく叩く。タダシが立ち上がりぺこっと頭を下げ帰ろうとすると男はあぁ、あとっと言って
「おまえの家族をさがしておくからな」と誠心誠意心を込めて見送った。
店を後にしたタダシはぼた雪が降る氷点下のなかを歩いて駅まで向かった。スーツに降る雪は溶け染みこんでタダシを冷やしていく。家に着くころにはずぶ濡れになり着ているほうが寒かった。
彼は重くなったジャケットを脱ぎ『だてんしのまほう』の横を通り抜け普段使われない扉を開けてなかに入っていった。
階段を下りていく。
筧はあれから家族をさがし始め二ヵ月ほどで父親の情報を見つけたと伝えてきた。残念だが亡くなっていたようだと残念そうに言った。金を持ち逃げした後、逃亡先で勤めていた会社の金を横領して捕まったらしい。それからあちこちを転々としてたみたいだけど最終的には病院代を払えず部屋で亡くなったみたいだ、と。
『上野JSビル』では〈わるいコト〉が摘発されて『だてんしのまほう』も『ぱらだいす』も消え去り、どういうわけか零細の弁護士事務所とアコさんの計量器メーカーが後に入った。
肝心のアコさんは『ぱらだいす』のスタンプカードを全部集めリンゴちゃんと〈わるいコト〉をしている最中に金貸しに拉致された。リンゴちゃん曰くその後アコさんはカンボジアに飛ばされ一日十三時間、世界的に大人気の植物の栽培に従事させられているという。
一方のリンゴちゃんは『ぱらだいす』が摘発された際にすべてを告白し反省をしたためすぐに解放された。その後一階のサトウさんという弁護士と懇ろになり今は元アコさんの部屋で愛犬のシナモンと甘い生活を送っている。
タダシは父親の情報を聞いてから間もなく『アパート ヘブン』に戻った。筧は特に気にする様子もなく部屋は空いているからと了承した。
それから木々が葉をつけ葉を落とした頃、筧は母親を見つけたと言ってきた。タダシはしばらく何の話かと頭をかけめぐらせていると、おまえの母親は生きてるぞと続けた。
タダシが目をしぱしぱさせていると男は驚喜していると勘違いをして彼の両肩をバシバシ叩いた。
ただ残念なことにな、と筧は続ける。
「旦那がいなくなってから借金の返済と育児のため毎日十八時間働いていたそうなんだがそれが原因で身も心も調子を崩してしまってな。まあなんとか助けてくれる知人がいていまは介護施設にいるそうだ。ただもう昔のことは覚えていないらしい。施設側の話だと君と会うと混乱するから会わせることはできないと言うんだ」
男は顎髭をなでながらトーンを変える。
「まあなんというか生きてるだけでもよかったなと思うほかない。おまえが息子としてやれることは母親の介護施設代を払ってやることくらいしかないんじゃないか。あとおまえの母親を助けた知人にもお礼をしないとな。おまえもだいぶ稼いでるし、俺も少しは出してやる。おまえは息子みたいなもんなんだからな。家族は大切に、な?」
筧はまるで自分のことのように喜んだ。うんうん良かったな、俺もうれしいよ、と。
扉の前に立ち荷物を下ろす。鍵を解錠して扉を開けた。なかに入ると使われなくなった家具家電が置いてありその裏にもう一枚扉があった。鍵がかかっていたけれど難なく解錠してさらに下へ降りていく。
筧は母親のことを告げた日の帰り、タダシを呼びとめた。男は束の間黙っていたが真剣な顔をして話し始めた。
「おまえ、知ってたか。おまえには、実はその……弟がいるんだ。二つ下の」
タダシは黙って次の言葉を待った。男は何か考えるように下を向く。
「小さいころに離れ離れになったから覚えてないのも仕方がない。だけどな、その……、おまえの弟には障害があるらしいんだ。なんていう名前か忘れたけどコミュニケーションをとるのが難しくてあんまりその、記憶力がなくてな」
外でタイヤの弾ける音がした。
「生活をするには少し手助けをしてやる必要があるらしいんだ。いままでどおり施設で暮らしてもいいんだけど。どうだおまえ、一緒に暮らさねえか」
クラクションが鳴り響いている。
「仕事のほうに影響しないようにするしもし何だったらヘルパーを紹介してやる。おれもたまには顔出すぜ」へへっと鼻の下をひとさし指でこすりながら男が笑った。そして顔をあげ立派な大人の表情でタダシに諭す。
「おまえは人の世話なんてできないだろうけど血のつながった弟がいたんだ。今まで生きてるかどうかもわかんなかったんだから家族のためならしてやれることはしてやれ、な?」
男はそれから家はどうするか、住む場所はどうするかをぶつぶつ言っていた。
「来週には連れてきてやる。早いほうがいいだろ家族のためなら」
じゃあまた連絡する、男はそう言って金を数え始めた。何の喜びからなのか顔から笑みがあふれていた。
タダシは事務所を出るふりをしてロッカーの陰に隠れた。二時間後、タダシはシャーペンを手に持ち床に倒れている筧を見下ろしていた。
地下室は思ったよりも広かった。なかを見回すといつのものかわからない白骨化した死体がいくつもあった。タダシは大きめのボストンバッグを下ろし中から筧を取り出すと奥まったところに投げ捨てた。まだ生きている。老婆のシャーペン型の注射器で眠らせただけだった。
部屋の右奥を見ると比較的新しい死体があった。白骨化しているものの衣服がまだ残っている。濃紺のワンピースに黒いカーディガン、床にはエメラルドの指輪が落ちていた。
外は曇っていて時おり雨がぱらつき頬をなでる風が吹いた。タダシはベッドに座り部屋の窓から外を眺めている。
向かいの『むとうマンション』の住人は何組か入れ替わっていた。マンションはいつの間にか外壁工事をして以前よりも明るくなったように見える。
何人かは離婚し何人かは捕まり何人かはタダシがシャーペンの実験台として使ってそのまま『上野JSビル』の地下に置いてきた。彼らのおかげで多めに打てば死に少なめに打てば眠ることが分かった。
タダシは手に持っている一枚の紙を見る。
そこには老婆がまだ老婆というには早すぎる頃の写真と簡単な経歴が載っていた。おそらく70年は生きたであろう人の人生が数行で書かれていた。本当のことのほとんどが抜け落ちた本当にあったこと。
両親に捨てられて九千万の借金を負わされた少女。詐欺師に恋して金を持ち逃げされた哀れな娘。彼女と同じく裏家業で働いていた男と出会い結婚をした女。その年の五月に男の子を産んだ母。けれども彼女は仕事中の事故で旦那を失い、一人で育て上げた息子は高校生のときに通り魔によって殺された。それから先、彼女について書かれているのは仕事のことだけだった。
孤独。
タダシにはそのことだけはわかった。彼女の大切な人たちはみんな去っていった。この紙を事務所で見てから彼の頭の中ではどこか仕舞いきれていない断片が浮遊している。
孤独な二人。周りの人がいなくなった二人。その二人が一緒に暮らしていた。なぜ?
彼女は家族ができ、失った。彼は家族を失い、できそうになっていた。調整可能な家族のかたち。抹消と調達。
彼のタダシという名は十六歳の頃、筧によってつけられた。忠実だからと。それまでもいくつか新しい名前と仕事を割り振られていたので特に変わったことではなかった。
タダシになって翌月、彼は本当の家族と暮らせると言われて老婆のもとに連れてこられた。男がタダシを老婆に紹介すると老婆は止まった。彼女は男をじっと見たが男は気づかないふりをしておばあちゃんのために働けよとタダシに言って去っていった。それから老婆が突然死ぬまでずっと一緒に暮らしてきた。
彼女の息子の欄をもう一度見る。
長男 正 夜の住宅街で通り魔によって首など複数箇所刺され死亡(享年十六)
地下室の死体は腐りはじめていた。