
【短編小説】アンダーグラウンド 1
【あらすじ】
人間味に欠けている青年タダシ。彼は寡黙で素直でどこか少し変わっている。そんな彼は強欲で意地悪な老婆と二人ボロアパートで代り映えのしない同じ毎日を送っていた。人間というものがわからないタダシは仕事以外の時間は習慣で向かいのマンションの生活をのぞきただ観察している。
ところがある日老婆が体調を崩して日々の生活が変わる。老婆は死期が近いことを悟りタダシに忠告をした。それからタダシは老婆とタダシの共通の知人である筧という男と仕事をするようになる。筧は親のいないタダシを小さいころから支え老婆の面倒を見てきた。
そんな筧との日々に少しずつ何かを感じ取るようになるタダシ。この違和感は何なのか。あまり興味がないタダシがぼんやりとしたまま動き出す。
【本編】1/3
鍵のかかっていない共用玄関の重いドアを開けてタダシは建物の中に入った。暦のうえでは晩夏から初秋の時期に差しかかっているにもかかわらず連日三十度を超す残暑が続いていた。蝉の死んだ夏の終わりの静けさは葉、土、顔、影といったあらゆるものをより一層色濃くし、空気の重さに人々は息苦しさを覚えた。
『アパート ヘブン』は林とも緑地とも呼べない中途半端な一角に建っていて黒板のような濃緑の木々がまわりに生い茂っていたけれど誰も自然豊かという表現は使わなかった。建物は高度経済成長期の副産物のような無機質なコンクリート製で、長年の風雨と人間の垢によって廃墟寸前になっていた。現に住んでいるものはほとんどいない。
万年日陰の共用階段はひんやりとしていてカビと靴の饐えた匂いが染みつき、壁の塗装は今までこの建物で過ごしてきた数えきれないほどの子どもたちによって愉快あるいは不愉快な気分で剝がされ、暗灰色のコンクリートが剥き出しになっていた。手すりは錆び、塗装がパラパラ落ちていく。このアパートのいいところといえば誰も寄りつかないことくらいしかなかった。
タダシは最上階の四階まで上がり廊下の突き当りにある自分の部屋まで進み、金属製の無骨で重厚なドアを開けた。部屋のなかは歴代居住者の体臭と食べ物のような生活臭が染み込み不快でところどころ黄ばんだ量産型の白っぽい壁紙には絵や写真、装飾の類は一切なく内装は寒々しい。来客の想定はなかったけれどもし誰かが訪れたとしても彼らは歓迎されていないことをすぐ察知することができただろう。
彼が玄関のドアを無造作に閉めると右側の部屋から声がかかった。
「ずいぶん遅いね」
ゆったりとした老婆特有の低周波に弦楽器の音ズレが合わさった声。長年の酒とたばこと猜疑心特有のしゃがれ声は不信や恫喝を含んでいた。
タダシが部屋に入っていくとまだ夕暮れ前にもかかわらず薄暗い部屋のなか、ベッドの上に老婆が座っていた。濃紺のワンピースに黒いカーディガンを羽織り、きらびやかな指輪が静かに光っている。
「ちゃんと持ってきたかいタダシ。出しな」
彼がかばんから封筒を取り出すと、老婆はひったくるように彼の手から取り上げ中身を確認した。
「相変わらず少ないねぇ、こんなに搾りとられて。おまえには向上心ってのがないのかい。こんなに少なくてどうやって生活していくってんだ」
老婆は封筒の中から千円札を三枚取り出すと彼に渡した。
「夕飯はいつもの親子丼に唐揚げ三つ、それと明日の朝用にカツ丼でも牛丼でもいいから買ってきとくれ、いいね?」
老婆はそう言うと手で追い払う仕草をしてたばこに火をつけた。彼は三千円を拾い自分の部屋へ向かった。
タダシの部屋の家具はどれも前からこの部屋にあったもので安価な木製のベッドと枕元の木製のタンス、そしてプラスチック製の衣服タンスがひとつあるだけだった。
彼は荷物を床に置きベッドの上に几帳面にたたまれた色違いのスウェットに着替える。ファッションの良し悪しがわからない彼にとってスウェットは同化するための制服であり変に見られないための防護服であった。
それから彼は窓辺にあるベッドの上に座り暮れていく街を眺めた。趣味という趣味を持たない彼にとってこの習慣は最良の暇つぶしであって、一本の木になりただじっと街を眺めている。
幸いなことに建物の前はありとあらゆる人が通った。まだ暗いうちから背中を丸めて勤めに出る年配のサラリーマン、憂鬱な一日の始まりに下を向いて歩くふたつ結びの中学生、それを颯爽と追い抜く子どもを乗せた電動自転車。昼には老人がカートを押してうなぎ屋に入り、起きたばかりの無精ひげがグレーのスウェットのままコンビニの袋を下げてとぼとぼと歩く。日暮れ時になるといつも同じ時間帯に同じ塀の上を歩く縞模様のむっちりとした猫とそれを道路の反対側から眺めるぱつぱつのパグがいた。上から見ている限り彼らが何を考え何に悩まされているかわからない。ただ人間が、猫が、犬が、鳥が生き物らしく動いていた。
やがて日が落ちて風景がシルエットになるとタダシはキッチンで鍋に火をかけ、ざく切りにしたキャベツと鶏むね肉に塩を三つまみ入れて十五分ほど煮込んだ。味覚の鈍い彼にとって食事は義務であり面倒な習慣でしかない。もし人体の構造上可能ならば食事を排除したかった。彼は淡々と素材の味しかしないスープのようなものを口に運ぶ。
キッチンは物が少なく色が寂しげで生きる源を作る場にふさわしくない生気のない雰囲気だった。学生が夏休みの課題で作ったようなテーブルと椅子二脚、前々回の政権交代の頃の冷蔵庫と今はもうない電機メーカーの電子レンジがあるだけ。カラトリーが2セットずつにふちの欠けたベージュの平皿と深皿が二枚ずつ、あとはフライパンと鍋がそれぞれ一個。それと各自のコップとグラスが棚にしまってあった。その雰囲気のなか反芻する草食動物のような表情で食べるタダシの姿はもはや映画のワンシーンにしか見えなかった。
食事を終えると彼はすべて片づけ再び真っ暗な部屋にこもりベッドの上に戻った。今度は単眼鏡を使って向かいの『むとうマンション』を眺める。向かいのマンションはどこにでもある五階建ての中古マンションで住んでいる人たちもマンション同様に年々くすんでいた。嫌悪、嫉妬、怒り。それらが部屋に底流のように流れどの家も一触即発の緊迫感が漂っている。
たいていの家庭は子どもが疎ましい存在になりはじめ夫婦の亀裂は深い溝に変わっていた。それでも一緒に暮らしているのは相手を好きだからではなく好きにさせたくないという思いやりからであり、彼らは保身、世間体、責任などにがんじがらめにされ窒息寸前に陥っていた。いわゆる典型的な人間世界。
四階の右から二番目の家はブランド品をまとった女がブランド品だらけの部屋に毛色の違う男を連れ込み、左の角の家ではまるまる太った無職の男が老母に怒鳴り散らしている。五階に住む男は妻子を毎晩殴り、一階の女は部屋中に脱走した元カレの写真や行動記録を貼っていた。それ以外はまともそうに見えたけれど、どこの家庭にもある不協和音。タダシはそれらをただじっと眺めていた。
夜の九時二十分になると彼は『アパート ヘブン』から二十分の二番目に近いスーパーマーケットに歩いて向かった。外では夏の虫が遺伝子の情報よりも長い夏に戸惑いながらなんとか生きながらえて力のない声をあげていた。風ははらりとも吹かず昼間の空気がそのまま居座っている。そのなかでもタダシは汗ひとつかかず颯爽と向かっていく。
スーパーでは毎晩同じ時間帯に同じ顔ぶれが惣菜コーナーをたむろしていた。タダシもまたそのメンバーの一人であり同じ目的を持った彼らのライバルであった。タダシは惣菜コーナーをうろつき目当ての親子丼と唐揚げ、それからカツ丼が売れ残っていることを確認した。
九時四十分、閉店の二十分前になると従業員専用の扉から目深でマスクをした店員がカートを押して出てきて売れ残った惣菜に次々と半額シールを貼っていく。客たちはにわかに活気立ち、いやらしさが表面化しないぎりぎりの必死さで自分たちの今晩あるいは明日の食事を確保していく。冷戦。誰もが水面下で争っていた。もはや静かな争奪戦は食事のためなのか獲得することの快感を得るためなかわからなくなっていた。客たちは半額品を確保してからいるかどうかを考えまぁいいかとカゴに次々と入れていく。
そんななかタダシは丼ものが並ぶコーナーでただじっと半額シールが貼られるのを待っていた。経験上、唐揚げは後でも確保しやすいため、残り少なくなった親子丼とカツ丼を自分の前に並べたたずむ。毎日の光景なので店員もまわりの客も触れない。結局タダシは親子丼一個にカツ丼二個、それに唐揚げ三つ入りのバックをひとつ買った。
カツ丼の一つは明日の自分の昼用だったが特段カツ丼を食べたかったわけではない。目立ちたくないから買っただけである。以前職場に自分で作ったごった煮を持って行って奇異なものを見る目で見られてからは一般的な主食とされるものを持っていくようにしている。わからないなら真似すればいい。彼にとって人間は難解だけれど人間と生きるのは簡単だった。
熱帯地方の仲間入りのうわさがたつほど長かった夏が終わり待ち望んだ秋が来たと思ったら通りすがりに会釈だけして去っていった。線香花火一本で終わる持ち寄り花火のような呆気なさ。儚すぎてあはれにもならない。このもやもやを平安貴族ならさっそく歌にして相手に送り付けていただろうが現代人はそのまま不満を世間につぶやいた。
街は深緑から灰色に脱色され死を感じさせないように前倒しでかぼちゃやトナカイで装飾された。長い長い残暑がようやく終わり今年も不漁だったさんまでも食べようかというころには紅葉は落ち葉となり人々はこたつに入ってししゃものようなさんまをつついた。
タダシは相変わらず夏と、昨年の秋と同じ生活をしていた。いつもどおり勤めが終わった後、いつもの共用玄関を開けいつものカビ臭い階段を上がりいつもの部屋に入った。靴を脱ぎ彼は一瞬止まり様子が違うことに気づく。おそるおそる老婆の部屋の扉を開けると老婆はベッドの上で苦悶の表情を浮かべて横たわっていた。彼は部屋に入り老婆の枕元のタンスを開け中から小さな紙を取り出し電話を掛けた。
紙にはもし自分や老婆に何かあったときのための連絡先が書かれている。電話口では無機質な声の男が挨拶もなくいくつか彼に質問をして彼は無機質に状況を伝えた。電話を切ると彼はかばんから封筒を取り出してタンスの上に置いて部屋から出ていった。
タダシは自分の部屋に行き部屋着に着替え外を眺めていた。中学生の下校時間なんだろうか、学生たちがめいめいの家に帰っていく。誰かを追いかけながら、愛想笑いをしながら、こそこそ耳打ちしながら、まわりと関わりを断ちながら。彼らはすでに社会の縮図を無意識に作り上げていた。タダシはそれをぼんやり眺めている。
彼が髪をツンツンにして虚勢を張ったエリマキトカゲ君――邪道の者の王道を歩いていることを知らない――に追い回されている太った子の苦悶の表情を見ていると、玄関のドアが静かに開いて黒いスーツにノーネクタイの男が入ってきた。
男はいくつかの薬と飲み物の入った袋を持ってそのまま老婆の部屋に入っていく。男は老婆を起こしていくつか薬を飲ませた。それからしばらく老婆の様子を見ている。タダシはエリマキトカゲ君に倒された男の子の憎悪の凝縮された顔を見ていた。
「相変わらず冷たいね君は」
男がタダシの部屋の入口に立っていた。水くらい飲ませてやりなよ、男はそう言いながらキッチンのテーブルに手土産を置いた。タダシには巨峰を、婆さんにはみかんを四個。それからこれ、と封筒を手渡す。
「だめじゃないか家族を大事にしなきゃ」
男はタダシをじっと見つめて「また何かあったら俺に連絡するように」と言うと踵を返し玄関から出ていった。
タダシは男が建物から出ていったのを窓から見届けるとグラスに水を入れ老婆の部屋へ持っていった。ベッドのわきのタンスの上には何本か飲み物のペットボトルが置いてあったが彼はそこにグラスを置いて自分の部屋に戻っていった。
第2話