
教えてください、烏丸先生 #16 桜井エマ
教えてください、烏丸先生 #16
第4章・第1話 桜井エマ
スタート位置はアウトコースの内側、私の得意なポジションだった。
号砲が鳴り、タータンを蹴る。
「高校女子3年 3000メートル決勝3組、出場している選手を紹介します」
スタートと同時に、選手紹介のアナウンスが競技場にこだまする。
息を乱さないよう、誰もいない前方のトラックに視線を向ける。
「桜井エマさん、聖カトリーヌ女学院 3年」
この名前で呼ばれるようになってから、2年以上が経った。
「助けて、ください」
夜の職員室に駆け込んだとき、そこには烏丸先生しかいなかった。
制服は汚れていて、袖の下で何かが擦れた。
烏丸先生は何も言わず、私の腕を取って校長室へ連れて行った。
「座りなさい」
ソファに腰を下ろす。革が冷たかった。
テーブルに置かれたコップの水に、手を伸ばせなかった。
「救急箱を取ってきます」
立ち上がろうとした手を、私は掴んだ。
「一人に、しないで」
指に力が入ったまま、離せなかった。
烏丸先生は一瞬止まり、そのまま向かいに座った。
腕を組んで、何も言わなかった。
トラック1周目を終える。
ペースはいつも通り。前に出すぎない。後ろに三人の気配。
「桜井エマさんが先頭集団を引っ張っています」
アナウンスが遠くに聞こえる。
残り6周半、落とさない。
どれくらい経ったのか、わからなかった。
呼吸だけが、部屋の中で浮いていた。
「落ち着きましたか」
顔を上げると、烏丸先生と視線が合った。
すぐに逸らす。喉が閉じたままだった。
「怖がらせてしまいましたね」
烏丸先生は立ち上がり、窓のほうへ歩いた。
背中だけが見える位置で、止まる。
「これなら、大丈夫ですか」
返事はできなかった。
指の力だけが残る。
「お父さん、ですね」
その言葉で、手の力が抜けた。
ボロボロと涙があふれてきた。
2周目に入る。
後ろの気配が一つ遠ざかった。残り5周半。
ペースを変えない。前だけ見る。
再婚相手のところに母が連れて行ったのは、弟だけだった。
父と私の二人だけの生活は、お酒の匂いと身体に残る匂いで満ちていた。
「今夜は、家には戻れないですね」
烏丸先生はそう言って、机の電話を取った。
低い声で何かを話している。
受話器を置く音がして、部屋が静かになる。
「今から、来ます。私の信頼している人です」
それだけ言って、また椅子に座った。
3周目に入る。
先頭は私一人になった。残り4周半。
風が向かいから来る。腕を振る。
学校の駐車場のほうから、砂利を軋ませて車が停まる音がした。
車のドアを閉める音を2回聞き、飲みこみそうになった息を大きく吐く。
「こんばんは。今夜は風が静かですね」
現れたのは、修道服を着た年配の女性だった。
「私は、シスター・カタリナです」
修道服のシスターを見たのは初めてだった。海外の映画の中にしかいないものだと思っていた。
「シスター・カタリナ、遅い時間にありがとうございます」
烏丸先生は、シスターに頭を下げた。
「校長へは連絡しています。児相には明日。そちらにも連絡が行くと思いますので、よろしくお願いします」
シスター・カタリナは私の隣に座って肩を抱いた。
「怖かったわね」
その手が暖かくて、私はまた、ボロボロと涙をこぼした。
4周目に入る。
スタンドの音が大きくなる。残り3周半。
呼吸だけを数える。
前だけを見る。
校長室を出ると、もう一人、若いシスターが廊下で待っていた。
「行きましょうか」
若いシスターは笑って、私と手を繋いだ。
駐車場の車に乗り込んだ。若いシスターは運転席、私とシスター・カタリナは後ろの席。
隣のシスター・カタリナは、ずっと私の手を握っていた。
車の中で流れる静かなクラシックを、目を閉じながら聴いていた。
5周目に入る。
足が重くなってきた。残り2周半。
落とさない。
目を開けると、綺麗なベッドの上だった。
来ていた制服は、染みひとつない白いワンピースに変わっていた。
ベッドから降りて部屋のドアを開けると、シスター・カタリナがいた。
「おはよう。ご飯を食べましょう」
テーブルの上には、パンとスープがあった。
「あの」
久しぶりに声を出した気がした。
シスター・カタリナは笑ってテーブルの向かいに座った。
「食べながら、お話をしましょうか」
「ありがとうございます」
「まだ、お名前を聞いてなかったわ」
私は、口にしたパンをスープで飲み込んだ。
「らみ…藤野羅澪です」
6周目に入る。
「先頭は桜井エマさん、聖カトリーヌ女学院」
ふくらはぎが熱い。
教会に児童相談所の人が来た。
中学は、変わるらしい。
名前も、変えるらしい。
通名、という言葉をはじめて聞いた。
烏丸先生が教会に来た。
1週間ぶりに、私を知っている人と会った。
「私、新しい名前が必要なんです」
「どんな名前にするんですか」
「あんまり、思いつかなくて。烏丸先生、どんな名前がいいと思いますか」
「藤野さんは、どんな人になりたいですか」
どんな人になりたいかなんて、考えたことがなかった。
「優しくて、柔らくて、普通のひと」
「藤野さんの誕生日は四月でしたね」
烏丸先生は少し考えたあと、言った。
「桜井エマ、なんてどうでしょうか」
最終周に入る。
歓声が一段と大きくなる。
タータンを蹴る。腕を振る。足を上げる。呼吸が荒れる。
あの夜、私は逃げるために学校へ走った。
今の私は、何のために走っているだろうか。
見てますか、烏丸先生、シスター・カタリナ。
私、桜井エマです。
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