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改めまして…の自己紹介

    青柳寧子

    私がnoteをはじめたのは2023年6月26日。
    早いものであれから2年以上が経ち、状況が少々変わってきました。

    というわけで自己紹介を書き直そうと思います(あらかじめお断りしておきますが、かなり長文です)。
    ちなみにこちらが一番はじめの記事。

    2024年には國學院大學メディアnoteさんがインタビューして下さいました。

    2025年9月の現在も早朝に起きて原稿を書き、その後は「そば・料理 ありまさ」(東京は緑が丘の蕎麦屋です)の女将をするライター兼女将であることには変わりはありません。
    今月は私が少々体調を崩して「ありまさ」はランチ営業のみとなっておりますが、回復次第通常営業に戻る予定です。

    たまに
    「蕎麦屋はイヤイヤやってるんですよね? 本当はライター専念したいのでは…?」
    と言われることがあるのですが、店に来て頂くと一目瞭然、毎日めちゃくちゃ楽しく働いています(≧▽≦)。嫌いで10年はできません。
    ただ、年なので体が追いつかないのです…。

    そして蕎麦屋の仕事が好きな一方で、物書きは天職、やめることはできません。蕎麦屋をはじめたのは2015年からですが、ライター歴は大学時代のアルバイトから数えると30年以上。書かずにはおれなくて、むしろ書かないとちょっと、かなり、おかしくなります。
    なので周囲も
    「書くのをやめれば心身ともに楽だろうけど、どうやらそうするとこの人はこの人でなくなるみたい。だから、どう見ても大変そうだけど『書くのをやめろ』と言うのはやめておこう。意味がないから」
    と理解してくれ(諦めてくれ)、書くことについては放任されています。

    もちろん時には店も書きものも忙しいという、洒落にならない過密スケジュールになることもありますが、まああれです、人生にはたまにそういうこともあります。
    大変ではありますが、とはいえ

    暇よりはいい ( ー`дー´)キリッ!!

    飲食店も物書きも稼働してなんぼです。
    飲食店でも物書きでも暇すぎて真っ青になったことが何度もあるので、
    (´・_・`)ヒマ…
    (´・_・`)ヒマ…
    (´・_・`)ヒマ…
    Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

    忙しいのは(調整しつつも)有難く受け入れ、しかしながら過労で倒れたりはしないように…と思っています(現在過労で休業しつつこんなことを言うのもアレなのですが、気をつけてはいます)。

    2年前にnoteを書き始めたときは、毎日更新して自分の中にあるものをすべて出し切ってしまおう、もういい年だし(書き出したときは49歳)残しておきたいこと、特にインタビュー記事などは後世に役立つ内容も多いので、noteという信頼できる場に置いておこうと思っていました。
    素晴らしい方々のお話を埋もれさせてはいけない…そんな気持ちが強かったのです。

    インタビューだけでなく、私が大好きなお客様の記録も。

    台湾の素晴らしい人達についても書き残しておこうと思いました。

    そして毎日毎日せっせと記事を書き、連続投稿821日、記事の数は1100を越えました。
    ところが…当初の「いつか書きたいことも底を尽くだろう」という予想を覆し、書きたいことが全然書き終わらない。むしろどんどん湧いてくる。
    時間さえあればずっと書いていたい、時間が全然足りない…そんな自分に気付きました。

    決定的だったのが今年から書き始めた小説です。
    はじめはなんとなく、短歌を書いてそれにショートストリーをつけて遊んでいたのですが、お話がいろいろと思い浮かぶのでそれを「小説」形式にしてみたら面白い面白い !(≧▽≦)!
    やだ、こんなに楽しいことがあったなんて!
    もっといろいろなお話を書いてみたい!!
    ここで突然告白すると、私、最終学歴は日本大学芸術学部文芸学科なのです(卒業してます)。
    でも当時は小説を書くことに全然興味がなくて(評論を書いたり、美術や映画に気持ちを奪われて学芸員資格をとったり)…いやあんたさ、気付けよ、気付いて下さいよ学生時代に、って思いますよね。ある意味小説書きのメッカのような場所にいて、まるまる4年間ボーっとしていたなんて!(もちろん熱気のある"書く"場所は他にもいろいろあるわけですが…)。
    私の30年を返してくれ、私よ (´;ω;`)ウゥゥ

    というわけで、泣きながら小説を書く日々。
    noteのお陰で自分のやりたいことに出会えました(泣笑)。

    ただ、小説については、ギャラが発生するお仕事になっているわけではなく、ある意味免許がない状態だな…とも感じていまして、現在は公募に応募しつつnoteにもアップしています。
    賞をとったから偉いとか、賞をとらないと書いちゃいけないとかそんなことはまったくないのですが(ええ、ライターも無免許です)、公募はひとつの指標だし、訓練にもなるかな…と。
    でもまあ、一生無免許でもどんどん書いていこうとは思っています。

    昨年からはシナリオのお仕事もさせて頂いており(戯曲は20代から書いていたので、そのつながりで)、これからはこういった創作を、創作も、頑張っていこうと。
    楽しみつつも謙虚な気持ちで書いていきますので、今後とも何卒よろしくお願いします。

    で、実はこれからが本題でして、前置きの長さに我ながら呆れつつも改めましての自己紹介、この先は少々深い内容を…。

    私はこれまで自分のことをあまり掘り下げて書いてこなかったのですが、詳しく書かない理由は大きく2つ
    「関係者で書かれたくない人がいるから」
    「私は人生でけっこうろくでもない目にあっていて、それを赤裸々に書くと不幸自慢だと思われかねない。また重い話を聞きたくない人も少なくないでしょうし…」
    そう思っていました。

    書かれたくない人が「書かれたくない」と仰ることについては、これからも書かない予定です。
    小説で、原型をとどめないほどに昇華してということはあるかもしれませんが、ソースが特定できることは書かない。
    ですがもう一つの理由、
    「不幸自慢だと思われるのでは? 重い話は迷惑では?」
    ということについては
    「そういう方もいらっしゃるかもしれないけれど、一方で辛い目にあっている方の役に立つかもしれない。ある意味で私はサバイバーだから…」
    と考えるようにもなりました。
    年齢的にも、もし何か役に立てることがあるならやっておきたい…そんなお年頃です(笑)。
    辛い話はちょっと…という方はスキップして欲しいのですが、もしかしたら今とても辛い方が読んで下さり、
    「私も、なんとかなるかも」
    と思って下さるかもしれない。あるいは、
    「こんな人がいるんだ」
    「自分だけじゃない」
    と感じて頂けるかもしれない。
    そう思ったりもして、今までは書くとしても婉曲にしたり迂回させつつ表現したことを、この自己紹介ではできるだけありのままに書いてみました。
    それでも事情があって書けることばかりではないのですが…よろしければおつき合いください。

    私は日本語のネイティブスピーカーではありません。
    2歳から4歳までフランスにいたのでフランス語を話していましたが(当初両親は日本に戻るつもりはなかったのです)、予定が変わって帰国。日本語がほぼ分かりませんでした。途中イギリスにいた時期もあり、フランス語と英語、わずかの日本語をどう使いこなしてよいのか分からず、当時は帰国子女の指導マニュアルもなく(現在は適切な適応のロードマップがあるそうです)、当然のように言語的な大混乱に陥ります。
    そして小学校では言語が原因で苛烈ないじめにあい、その中には性的ないやがらせも含まれ(現代なら完全に犯罪)、恐怖のあまり言語障害を起こして外国語は完全に脳みそから抹消されました(外国語をしゃべると激烈ないじめにあうので、そうなりますよね…)。
    せっかく喋れたフランス語、勿体なかったですね…と言われることが多いですが、生きるために仕方なかったと思います。約2年に渡る長期のいじめだったため、心身に不調が出て登校できなかったこともあります(当時は「登校拒否」と呼ばれていました。進級にさわるほどではありませんでしたが、それはいじめが軽かったからではなく、当時「学校に行かない」という選択肢がなかったからだと思います。登校すれば地獄が待っていると分っていても、行かないわけにはいかないのです)。

    この時の学校の対応は、今振り返っても
    「(英語圏ですらないところからの)帰国子女という珍しい生徒にどうしてよいのか分からなかったんだろうな(東京の学校でもありませんでしたし…)」
    「にも関わらずあれこれと心配してくれたな」
    と感謝しつつも、いじめに対しては
    「全然具体的に動いてくれなかったな」
    「加害者に同情的すぎたな」
    と思ったり、複雑です。
    先生はいい人、とてもいい人なんだけれど、打つ手打つ手が見当はずれ…ということが起こる。そして実際の被害に遭うのは10歳にも満たない私…。
    この時に親も含めて、何事も100%の対応をしてくれる人なんていない。自分でなんとかしないと…ということが身に沁みました。
    本や草花や雲という一生の友達ができたりもしましたが、その話はまた別の機会に譲って…。

    いじめはクラス替えをきっかけに鎮静化しましたが、このことは精神的に重くのしかかり続けました。死にそうになっても誰も助けてくれない、助けを求めても助けてもらえない、というのは当事者からしたら「トラウマ」の一言で片づけられては困る、見えないけれど消えない傷です。
    不思議なもので、私が長年わだかまりを感じていたのはいじめた人達よりも、遠巻きにいて何もしなかった人達でした。
    明らかに状況は分かっている、でも何もしない。ただ見ている。
    後年「巻き込まれるのが怖かった」と告白されたりもしました。私も彼女の立場だったらそうかも、どうしていいかも分からなかったのだろう…とは思いましたが、一方で私は「見捨てられた側」でしたので、傍観も一種の加害なんですよ? とも感じてました(言葉にはしませんでしたが)。

    もちろん自分が常に絶対傍観しないとはとても言えず、今までだって今だって深刻に苦しんでいる人の近くでのうのうと生きていたりするわけですが、とはいえ出来る限りは困っている人がいたら関わりたい、せめて分かっているよと伝えたい…そう心に刻んだ出来事でした。
    いじめの張本人たちについては、ここでは詳述できませんが精神的に「この人たちには、克てた」と思える出来事があり、今や思い出すこともほとんどありません。

    ちなみに妹が難しい病気だったこともあり、当時は親もいっぱいいっぱいでした。長女の私は比較的「自分でなんとかする人」と認定され、実際「自分でなんとかしなさい」と言われ続けていた記憶があります。
    私の中のいろいろなことが放置されたまま、大丈夫なふりをしたまま、成長しました。
    日本語については言い回しがおかしかったり漢字が書けないなどの問題はありつつも、「この子は作文を書かせると発想が面白い」と褒めてくれた先生がいて、そこから「書くこと」が面白くなり、上達した記憶があります。
    芯を食った「褒め」の大切さよ!!
    また、ちょっと過集中の傾向がある私は毎日毎日「書き取り」を続け、やめろと言われても偏執的に書き続け、漢字も書けるようになっていきました(実は今でも書き取りが好き)。
    文通相手になってくれた方もいました。

    小学校の高学年からは、国語はむしろ得意科目になっていました。

    中高は大して勉強は得意ではない、作文だけが好きな子。
    ちなみに小学校時代算数は5だったのに、中学で数学の先生が竹刀を持って教室に入って来たとたん、恐怖で脳みそがフリーズ。完全文系に…。
    まあ内容も難しかったのだとは思いますが、竹刀で黒板をバンバン叩くとか、ほんとやめて…何で教室に武器持ってくるの?
    一方で高校の生物の授業は本当に面白く、後年医療・介護分野を取材するときに役立ちました。医師や看護師の方々に「あなたは生物の基礎ができているから話しやすい」とよく言われたのは、一時期生物オタクだったからだと思います。先生ありがとう!

    閑話休題。
    そして親の願いとは違う道になりましたが某日芸に行かせてもらい、美術が大好きで強い憧れがあったので学芸員資格を取得しました。

    ですが、いわゆる氷河期世代、就職は難しかったです(日芸はいつだって就職に向いていないのかもしれませんが、それはとにかく)。
    学芸員実習でお世話になった美術館が雇ってくれることになったものの正職員ではなく(学芸の仕事をしても資格手当さえつかない…)、大学時代にアルバイトしていた美術大学受験予備校で働かせてもらったり、父の知り合いにデータ入力の仕事を頂いたり、ライターをさせて頂いたり…。
    とにかく時給も単価も安くてお金を稼ぐのが大変な時代だったのです。
    手あたり次第に働いていたのでいろいろ出来るようになりましたが、考えてみるとこの頃から今に至るまで「オフって何それ美味しいの?」という日曜日の無い生活をしています。これについては好きでやっているところもあるので恨みはありませんが(空いている時間はとにかく書いているし)、氷河期世代が貯金できなかったのは怠惰ゆえではないということは声を大にして言いたいです。本当に休みもなく朝から晩まで働いて、家賃を払って光熱費を払って自炊して…月末はきれいに何も残らない。そんな暮らし。

    美術館には4年ほどいました。
    ある時、上層部の一人が
    「(寧子さんたちは)有資格者なのにアルバイトで、でも正職員並みの仕事をさせて、それでいて1000円に満たない時給で使うのはどうだろうか…」
    と意見して下さり、私ともう一人の学芸員が正職員になることに。
    やれやれ…と思ったとたんその意見した人がクビになり、そこからセクハラ・パワハラが…。それまでも無くはなかったけれど、一層ひどくなりました。

    …もう無理。
    仕事は好きだし、同僚も好きだし、頑張って取得した国家資格だし、何よりアートが好きだから続けたかった。
    美術についてはまだまだ勉強が足りないと感じていて(文芸学科だという負い目もありました)、芸大の聴講生になって勉強も続けていました。
    でも、それでも無理。
    私はここから物書きの仕事にシフトしていきます。
    まあ、そうせざるを得なかった…というのが実情です。

    ちなみに幼いころのいじめといい、このときのセクハラ・パワハラで
    「男性嫌いになりませんでしたか?」
    と言われることがありますが、あまりそうはなりませんでした。
    特に美術館時代は男性の同僚が味方になってくれて、上層部に対して
    「こんなによく働いている人達がどうして辞めなければいけないのでしょうか !(# ゚Д゚)!」
    と訴えてくれ、訴えが無視されると弁護士に相談してくれ(私も個人的に区の弁護士無料相談には行きました)、当時の法律ではどうしようもないとなると「だったら小説にして世に訴えてやる」
    とまで言って、実際を原稿を書き上げていました。出版社の人が読んでくれるところまでこぎつけ、
    「結局、丁重にお断りされた…」
    と言っていましたが、彼のお陰で
    そう、いいやつもいる!
    ウン(*-ω-)(-ω-*)ウン
    と。だから男性に絶望したりはしませんでした(日芸時代に良い男友達に恵まれたということもあります。男性でも成熟した思慮深い人は沢山いる、未熟な人もいる。女性も思慮深い成熟した人が沢山いる。そうでない人もいる)。
    ちなみに同僚の彼は正義感が強くて親切な上に優秀でもあり、後年有名博物館の学芸員になりました。

    しかしまあ、こうして書いていると私が何も悪くないように読めてしまうと思うのですが(私目線で書いていますし)、当時は若くて経験不足で近視眼的、すごく仕事ができていたかというと、
    「そうでもなかったかもね…(^▽^;)」
    と思うことはあります。
    一生懸命ではありましたが、一生懸命すぎて非効率なことも結構していたかも…。
    その割には生意気で、使い辛かったのかもしれないとは思います。
    ただ一方で、"若くて未熟"を責めすぎたら人は育たないし、何よりセクハラ・パワハラは犯罪だし(ほんと、当時は犯罪が横行していたんですよ…)今以上に女性に感情労働が押し付けられていたし、問題が多かったのも事実。
    心身ともにくたくたで、最後はストレス性の胃潰瘍になり、それでも残る人達のためにも訴えるべきところには訴えてから辞めたので、よく頑張ったとも思います。
    この美術館では素晴らしい同僚に、そして生涯の友人に出会うなど嬉しいことも沢山ありました。…が、同時に組織は本質的でないことが多すぎる(アートのこととか誰も話してないし)、もうこりごりだとも思いました。

    そしてここからはフリーランス、自営に舵をきります(美術館時代もそうといえばそうなのですが…)。
    書けるものは何でも書くという姿勢で、インタビュー、ブックレビュー、舞台台本(戯曲)など様々な分野を書かせて頂きました。
    30代からは医療・美容・介護分野の雑誌に関わらせて頂き、これもとても楽しかったです。
    当時カウンセリング、そしてアロマテラピー関連の取材が多く、より深い取材をするために私自身もカウンセリングやアロマテラピーの資格をとりました(のめりこみやすいのです…(^▽^;))。
    対話療法や自然療法は奥が深く、これらについては今でも折に触れて学び、実践もしています。
    精神科の医師への取材も増え、下調べなどが大変ではありましたがとても勉強になりました。精神医学については現在も出来るだけ本を読み、必要なら論文も読む、そのくらい興味を持ち続けています。
    私は夜見る「夢」を記録していますが、この頃の「こころの世界」の取材が夢について考える大きなきっかけになっています。

    ちなみに30代後半、ある資格取得のために模擬カウンセリングを行ってレポートを書く必要があり、被験者を募る必要がありました。
    私はこういう時、試験? まあとりあえず受かればいいや…という呑気なスタンスなのですが、この時は
    「受かるなら良い点数で受かりたい( ー`дー´)キリッ。被験者が女性だと、女性はもともと話しやすいから点数が低くなるらしい。ならば男性のレポートを書いて高得点を…」
    と欲を出し、男性の友人に
    「誰かいい友達を紹介してくれない?」
    とお願いし、被験者として現れたのが夫です(笑)。
    ザ・陽性転移☆

    ※AIによる解説「陽性転移とは、患者やクライアントが、過去の重要な人物(親など)に対して抱いていた感情を、現在の治療者(医師やカウンセラー)に向ける現象です。特に、治療者への好意、尊敬、愛情、安心感といったポジティブな感情が向けられる場合を指し、治療の過程で生じることがある心理的な現象です。
    ※おつきあいするかも…となった時にカウンセリングの先生におそるおそる相談したところ
    「"模擬"クライアントでしょ? (^▽^)」
    ということで問題ありませんでした。先生は後年「ありまさ」にも来て下さいましたm(__)m。

    と、ここでハッピーエンドにしたいところですが、結婚して、そしてすぐに妊娠するもお腹の中で赤ちゃんが死んでしまいます。
    その後も流産し、私達はあわせて3人の子を見送ることになりました。
    これは子どもが好きで、子育てがしたかった私にはかなりこたえました。
    すでに30代後半でしたから妊娠・出産が簡単でないのは理解していましたが、それでも辛いものは辛い…。
    この頃が人生で一番泣いたと思います。
    文字通り、しばらく立ち上がれない日々が続きました。
    自宅で安静にしていないといけないことも多く、取材・執筆もできない。
    横になったまま自分と向き合う日々が続きました。

    子どもがいない人生もまた幸せ、それは確かにそうなのです。
    でも同時に、お腹に命が来てくれた時の喜びも、旅立ったときの深い悲しみも、忘れたくはありません。
    今だから言えることではありますが、感謝とともに記憶しておこう、あの子達ともし再会しても恥ずかしくないように…まあいろいろと"やらかしがち"な人生ではありますが…、それでもできるだけしっかり生きていこうと思っています。

    最後の流産をして、手術して、術後の経過をみて頂くために病院に行った帰り道、夫から電話が入りました。
    夫は長年勤めていた蕎麦屋を辞め、独立を考えてあちこち物件を見て回っていたのです。
    「緑が丘に良い物件があるんだって。これから行ってみようと思うんだ…」

    そしてここから「ありまさ」開業の準備がはじまります。
    この後は大変だとはいえ楽しいことも多く、詳細は「普通盛りの日々」というタイトルでニュースレターにも書いています。
    ですので、長い自己紹介はここまでに…。
    書いていて「書きたくても書けないことって多いなあ」、要するに省略したことも多々あるのですが、それらは分子レベルまで分解した上でまた…、と思っています。

    ここまでしんどい話にお付き合い頂き、本当にありがとうございました。
    まとめると、
    色々と大変なこともありましたが、それらを糧に良いものを書いていこうと思います。
    今後ともどうぞよろしくお願いします!

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    ※最後になりましたが、「そろそろ自己紹介を書きかえては?」とアドバイスして下さった天豆さんに心からの感謝を!
    「青柳さんの歩みは、暗闇にいる方の光になるかもしれませんよ」という言葉に背中を押して頂きました。

    ※2026年9月、はじめてのZINEを作りました。
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    ライター・蕎麦屋女将。 ライターとして医療・介護分野の取材、書籍紹介、演劇台本等を手掛ける。2015年、夫の蕎麦屋開店にともない、突然女将に。現在は物書きと女将を兼業。「われら茶柱探検隊」に連載中。ZINE販売はhttps://booth.pm/ja/items/8825155

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