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黄昏 (小説 灼光へ1)

    あらすじ

    神殿の夕映えの中、少年と老人が「アキレスと亀」のパラドックスを語り合う。この1000年以上問われ続けた謎を思考実験で解き明かす。空間の性質、宇宙の謎へ挑む。


    黄昏

    神殿の円柱が琥珀色に染まっていく。海から吹き抜ける風は、大理石の熱を奪い砂粒や埃を巻き上げて神殿の奥へと運んでいく。その舞い散る塵に絡み、光の波がきらめいている。

    少年が神殿の奥から駆けてきて、立ち止まった。空を見上げ息をのんだ。少年は陽に焼けた浅黒い肌をしていた。手はざらざらとして、治りかけの傷と赤みの残る傷があった。 
    海は白く溶けるように輝いていた。雲は赤みを帯び、空はその上で色を失っていく。西陽を海が跳ね返し、光の粒が舞い散って、瞬く間に消えていった。 
    少年は高い声で老人に話しかけた。
    「すごい。この風景は神様たちの贈り物だね」
    老人も夕陽を見つめたまま少年に答えた。
    「そう、神々はいつでも、そう、私たちを見まもってくれてる。」

    「見て、おじいさん、カモメまで赤く染まりそうだよ。」

    「坊やの名前は。」

    少年は少し間をおいて言った。
    「母さんから、知らない人には名前をいってはダメと言われているんだ。ごめんなさい。」

    老人は少年に目をやり話を続けた。
    「坊やは賢いな。それでいい。謝ることはない、お母さんの言う通りだ。」
    老人は再び夕陽に目をやった。
    「それでは、好きな神様は誰かな。」

    少年は夕陽を見て、こたえる。
    「断然、アキレス。ギリシャの英雄だ。」

    「アキレス、アキレス、アキレス。まさにギリシャの英雄だ。トロイアの戦の偉大な神だ、もっとも半分人間だがな。」
    老人は続けた。
    「坊や、アキレスが亀に追いつけないという話を知ってるかな。」

    「アキレスはギリシャの戦士の中で一番速いんだよ、亀なんか……。」

    老人は腰をかがめ、少年の目を覗き込んだ。
    「しかし、アキレスの前を亀が走っているとアキレスはいつまでも追いつけないんだ。」

    少年は怪訝な顔で老人を見返した。
    老人は柔らかな笑顔のまま少年の周りを歩き続けた。
    「確かにアキレスは足が速い。すぐに亀のいた場所まで追いつく。」
    「しかし亀も頑張って走っているのでアキレスより少し前に進んでいる。アキレスはさらに亀のいた場所まで走る。」
    「だけど、その間に亀はさらに頑張って走ってアキレスの前を走っている。アキレスはこんなはずはないのにと思いながら、もう一度亀のところへ走っていく。亀も負けないで、さらに前に行っている。」
    「こうやっていつまでたっても、あのアキレスが亀にさえ追いつけない。」
    覗き込むように顔を近づけて、右の口元と眉を上げた。

    少年は足元を見つめ、目を閉じて考える。
    太陽は雲の向こうに隠れてしまった。海の上の雲は赤く染まりはじめ、その上の空まで青白く染まった色から赤く染まっていく。
    やがて少年は老人を見上げ、ゆっくりと話し始めた。
    「おじいさん、僕の考えを聞いて。今から頭の中でアキレスと亀の競争を始める。おかしかったら教えて。」

    少年は目を閉じる。
    「わかりやすくアキレスの方が、亀より2倍速く走れるとします。
    そして最初のアキレスと亀の間の距離を神殿の柱の長さとして、これを1柱という長さだとする。そして競争が始まる。」
    「アキレスが最初の1柱を走る。亀はその前を2分の1柱進んでいる。」
    「次はアキレスが2分の1の柱を走るが、亀はその前4分の1を走っている。」
    「さらにアキレスが4分の1柱を走る。だけど、亀は8分の1柱前を走っている。」
    「さらに......。こういうことだね。」
    「これは数学の計算。」

    「そうだ、その通り。アキレスはいつまでたっても追いつけない。あの偉大な英雄アキレスが。」老人はうなずく。

    少年は目を開けて海を指差す。
    「確かに、数学の世界ではアキレスは亀に追いつけない。でも、この実際の世界、物理的な世界ではどうなるか。」
    「そう、あそこの船を見て。」
    「帆掛船より前に小さな手漕ぎの船が進んでるよ。同じ港を目指してる。あの帆掛船がアキレス、手漕ぎ船が亀だね。」

    二人は黙りこみ港を見つめる。

    「ほら、実際は帆掛船が早くつく。アキレスが亀を追い抜いた。物理的な世界の実験でアキレスと亀の勝負ではアキレスが勝つ。」少年は老人を見て言った。

    少年は続けた。
    「姉さんにいつも言われてる。頭の中で考えた数学の計算、それを実際の世界、物理的な世界で実験して、違う結果がでたら実験の結果を優先して考えなさい、数学の計算のどこが間違っていたのか考えなさいと。」

    海からの風は涼しくなった。雲は赤く染まり、空も赤く染まる。二人の姿も。

    少年は老人の目を見つめていう。
    「そしていま帆掛船と手漕ぎ船で実験をやった。頭の中の数学の計算と違った。」
    「何が間違っていたんだろう。」

    少年は両手を丸めてあわせ小さな声で続ける。
    「考えたんだ。帆掛船と手漕ぎ船との間の空間、アキレスと亀の間の空間、この僕の両手の中の空間。何にも見えない。でも、そこは何もないんじゃない。目に見えないだけでそこには『空間』という物理的な存在がある。」

    少年は目を閉じる。
    「それを僕は数学の計算でその空間の『距離』を無限に割っていった。」
    「『距離』を半分に割っていく。何度も、何度も。無限に。」

    少年は目を開け老人を見つめ続ける。
    「姉さんから言われたように数学の計算を見直してみた。でも、計算に誤りはない。では何が違っていたのか。」
    「そして、考えた。実際の世界の『空間』ではいつかその割り算は止まるんだ。頭の中では『距離』はいくらでも割り算できる、無限に。でも、実際の世界の『空間』では無限に割り算ができなくなるんだ。」

    震える声で少年は話す。
    「だから、この実際の世界の『空間』には、それ以上割り切れない単位、最小の単位、『粒』があるんだ。」

    少し笑みを浮かべて続ける。
    「アキレスが亀に追いついたよ。」

    老人は尋ねる。
    「でも、その『粒』が無限にあるとしたら。」

    少年は少し顎をあげて答える。
    「亀もアキレスも無限の『粒』を通過しないといけない。そしたら追いつくどころかいつまでも前へ進めない。前に進めるということは『粒』は有限なんだよ。」

    老人は静かに目を閉じた。
    空間は何もないのではない『空間』という存在がある、そしてそれは最小の単位を持っている。少年のいう『粒』でできている。
    心臓が早く鼓動している音が聞こえた。
    何もないからと空間をナイフで無限にきっていた。相手をした哲学者たちは反論しなかった。できなかった。空理空論というものもいた。でもまともな反論は来なかった。
    違った。目の前で起きている事と頭の中で考えている事の取り扱い方を知らなかった。空間を切り刻む、何度でも。
    でも、それにも限界がある、少年のいう『粒』が現れる。亀が一つ進めば、アキレスは2つの『粒』を進む。アキレスが亀を追い越した。この少年が正しいことを言っているかは確かめようがない。しかし、遠い未来、私の遠い弟子たちが見つけてくれる。真実の世界を。

    雲の赤みも薄れ空も重く鈍い色に変わったころ、老人は腰を落として少年の目を覗き込み語りかけた。
    「坊やは、見せてくれたこの世界を。無限の宇宙の姿を。」

    少年は笑みを浮かべたあと、少しはにかんで言った。
    「おじいさんが、『問い』を立ててくれたから。姉さんがいつも言ってるんだけど、問いをしっかり考えなさい。正しい問いは、正しい答えよりもずっと価値がある。僕一人の目では、この空間の『粒』は見えなかったよ。」

    「でも一つ間違いだと思うんだ。」
    少年が続けた。

    「間違いというのは?」

    「さっき、僕は空間は最小のこれ以上割り切れない『粒』でできていると言ったよね。この手のひらでかこった空間も、そして空間全体も同じようにこれ以上割り切れない『粒』から作られている。」
    老人が黙って聞いている 。
    「それは何か、僕にはわからない。目に見えないんだから。だけど、一つだけ言えることがある。『粒』からできている空間。その『粒』は無数ではない、無限ではない。だってこの世の中に存在するものが、無数とか無限なんておかしいじゃない。」

    少年は両手を広げながら静かに老人にいった。
    「だから。この宇宙も、この抱えきれない大きい宇宙も無限ではないんだ。さっきおじいさんは無限の宇宙と言ったけど。僕も、よくわからないことばかりだけど......。」
    「この宇宙の空間は有限なんだ。無限じゃない。」

    雲は少し赤みを残し、空は重い青へ変わっていた。たくさんの星が空に散らばっている。

    「いけない、こんな時間だ、帰らないと母さんが心配する。おじいさん今日はありがとうございました。」

    帰ろうとする少年に老人が声をかけた。
    「また、ここへくるのかな。今の話の続きをしたいものだ。」

    少年は海の方を指差しながら答えた。
    「僕の家はあの島なんだ。明日、お母さんの妹の結婚式があるんだ。母さんと二人でお祖母さんの家に泊まってるんだけど、結婚式が終わったらすぐに帰らないといけない。」

    老人は残念そうに言った。
    「そうか、坊やのような利口な子ともっと話がしたかったな。」

    「お祖母さんの家は海辺の家なんだ。海辺でなら、結婚式が始まるまでなら、会えるよ。」

    「そうか、私も海辺の友人の家に泊まっている。朝は海辺を散歩している。また会えたら話をしよう。」

    「わかった。会えるといいね。さようならおじいさん。」

    「さよなら、坊や。」

    少年は薄闇の神殿の奥へ消えていく。
    老人は、月明かりが差し込む中、空を見上げる。星々が海の上に輝いている。



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