
第七話|ただいまって言ってみたい。|恋愛ごっこに付き合って#7
第七話|ただいまって言ってみたい。

その日、仕事をしているあいだ中、頭の隅に残っていたのは牛乳と食パンの袋の音だった。
しゃら、と少しだけ鳴る、あの帰る音。
昨日、あの子は言った。
そこは、わたしの場所じゃないよ。
それはたぶん、
拗ねたとか、遠慮したとか、そういう言い方じゃなかった。
コンビニはよかった。
夜道もよかった。
傘の下も、たぶんよかった。
でも、牛乳と食パンを持って帰る側には、入れなかった。
そこを一日中考えていた。
うまく言えないまま、終業時間が来た。
終業時間を少し過ぎたころ、妻からメッセージが届いた。
『今日遅いから。適当に食べといて』
短い。
助かった、と思ってから、
その感想もどうなんだと少しだけ自分が情けなくなる。
でも今日は、少しだけ都合がよかった。
僕は会社を出て、駅前へ向かった。
いる気がした。
こういうとき、もう「何でいるの」とは思わない。
いるならいるだろう、というほうが先に来る。
それが、何よりいちばんタチが悪かった。
改札を抜けると、あの子は本当にいた。
今日は柱じゃなく、少し端のベンチの近くに立っていた。
座らない。人の流れを見ている。
待っている顔だった。
「いた」
僕が言うと、あの子はこっちを見た。
「いたねえ」
「そこはお前が言うなよ」
「でも、いたやん」
そう言って笑う。
僕は少しだけ迷ってから、そのまま言った。
「今日、ちょっと寄る」
「うるさいとこ?」
「違う」
「コンビニ?」
「違う」
「じゃあ何」
「遠回り」
あの子が目を丸くする。
「いいの?」
「何が」
「そっちから言うの」
「……たまには言う」
「またたまにだ」
でも嬉しそうだった。
僕らは駅前を抜けて、そのまま家と反対方向へ少し歩いた。
どこかに行きたいわけじゃない。
わざわざ行くほどの場所でもない。
ただ、家へ帰る前に、少しだけ外へ出て、それから帰ってくる。
その順番を一回つくりたかった。
「どこ行くの」
「別に」
「別にで歩いてるんだぁ」
「お前にだけは言われたくない」
あの子はくすっと笑った。
夕方と夜のあいだみたいな時間だった。スーパーの袋を提げた人がいて、犬の散歩をしてる人がいて、コンビニの前で立ち話をしてる学生がいて、空はもう青くないのに、完全には暗くなりきっていない。
あの子はそういうものを一個ずつ見ていた。
立ち止まるほどじゃない。
でも見ているのはわかる。
「今日、静かだな」
僕が言う。
「見てるから」
「何を?」
「帰る前のやつ」
「何だよ、それ」
「帰る前って、ちょっと違うやん」
「何が」
「まだ外の顔してる」
またよくわからないことを言う。
でも、たぶんそういうのを見ているんだろうと思う。
あの子は前から、物そのものより、そのまわりの気配を見ている感じがあった。
駅前の喧騒が少し遠くなったところで、小さな公園があった。
滑り台とベンチだけの、夜には誰もいなくなるやつだ。
「座る?」
僕が聞く。
「座る」
ベンチに並んで腰を下ろす。
間に人ひとりぶんは空かない。
でも肩が触れるほどでもない。
あの子が言うところの「ごっこ」にちょうどよさそうな、半端な距離だった。
「ここ、いいね」
「何が」
「帰る前っぽい」
「場所にそんな機能あるか?」
「あるよ」
「ないだろ」
「あるって」
言い切る。
僕は少しだけ笑う。
笑ってから、自分が笑ったことに気づく。
こいつといると、
変なタイミングで顔が緩むのが嫌だった。
しばらく何も言わずに座っていると、どこかの家から味噌汁みたいな匂いが流れてきた。
少し遅れて、自転車のブレーキの音がする。
遠くの道路では、車が信号で減速して、また流れる。
「ねえ」
あの子が言う。
「何」
「今日、そっち偉いね」
「何だよ急に」
「ちゃんと寄り道してる」
「寄り道はいつもしてるだろ」
「違うよ、そっちのためじゃないやつ」
「……ああ」
そうだった。
いつもの寄り道とは、少し違った。
そのことを言葉にされると、少しだけ気恥ずかしい。
「お前さ」
「んー?」
「そういうの、すぐわかるよな」
「だいたい顔」
「また顔かよ」
「だって書いてあるし」
「書いてない」
「書いてる」
あの子は満足そうに頷いた。
「ねえ」
少しして、また言う。
「何」
「一回、歩こ」
僕はベンチから腰を上げる。
あの子も立つ。
それから僕らは公園を出て、ほんの少しだけ大回りする。
家へ向かうには遠い道。
でも遠すぎもしない道。
並んで歩く。
信号で止まる。
また歩く。
それだけだった。
でも、今日は少し違って見えた。
あの子は一度だけ、僕の少し前へ出て、それからすぐに戻ってくる。
勝手に先へ行ききらない。
ちゃんと同じ速度に合わせる。
「今日のは、何なんだよ」
僕が聞く。
あの子は少しだけ考えてから言った。
「帰るやつ」
「ざっくりしてるな」
「でも大事」
それから前を向いたまま、少しだけ付け足す。
「並ぶのと、待つのと、帰るのは、たぶんだいぶ大事」
その言い方は、相変わらずどこか表面だけをなぞっているみたいなのに、変に軽くは聞こえなかった。
家の近くまで来る。
いつもの道だ。見慣れた電柱、見慣れた駐車場、見慣れたマンションの灯り。
でも、今日はそこへたどり着くまでの順番が違った。
一回外へ出て、一緒に歩いて、それから戻ってくる。
マンションの前で、
あの子は少しだけ歩幅を緩めた。
さっきまで普通に歩いていたのに、ここに来て初めて、どう入ればいいのかわからなくなったみたいな顔をする。
「ここから先、どうするの」
僕が聞く。
「どうするって?」
「帰るなら、帰るで」
あの子はすぐには答えなかった。
マンションの灯りを見て、オートロックの白い表示を見て、それから自分の足元を見る。
指先だけ、少し落ち着かない。
それから、小さく息を吸う。
たぶん練習してきたのに、まだ少し照れるみたいな声で言う。
「……ただいま」
僕は返せなかった。
用意していたわけじゃない。
でも、
そこで「おかえり」と言ってしまったら、何かがきれいに閉じすぎる気がした。
「恋愛ごっこ」の台詞にしては、
あまりに体温がこもりすぎていた。
「……お前」
やっとそれだけ言う。
「何」
「いや……」
続かない。
返せないまま黙っていると、あの子は少しだけ肩をすくめた。
「難しいね」
「お前が急に言うからだろ」
「でも、言ってみたかったし」
その言い方だけ、冗談じゃなかった。
少し間が空く。
マンションのオートロックが、別の住人の帰宅で一度だけ鳴る。
その音を、
あの子はちゃんと聞いていた。
「いいや」
あの子が言う。
「一回できたし」
僕は何も返せない。
あの子は少しだけ笑って、
それから一歩下がる。
さっきまで並んでいたのに、
もうそこは少し端っこだった。
「じゃあ、帰って」
その言い方が変で、でも正しかった。
僕がエントランスへ向かうと、あの子はついてこない。
振り返ると、歩道の端に立ったまま、こっちを見ている。
手も振らない。
名前も呼ばない。
ただ、ちゃんと見ている。
僕がオートロックを開けて中へ入るまで。
ドアが閉まる直前まで。
見届けるみたいに。
部屋へ戻ると、妻はまだ帰っていなかった。
静かだった。
けれど今日は、
その静けさが少し違って聞こえる。
玄関で靴を脱ぐ。
鍵の音。ドアの音。袋のない手。
ただそれだけの帰宅なのに、さっきの「ただいま」がまだ耳に残っている。
部屋に入ると、わらびがいた。
布団の上ではなく、珍しく玄関から部屋へ続く廊下の途中みたいな場所に丸くなっている。
ちょうど、誰かが帰ってくる音を聞くのに都合のよさそうな位置だった。
僕は立ち止まる。
「……お前、いつもそこで聞いてたのか」
わらびは返事をしない。
しないけれど、耳だけがわずかに動いた。
僕はそのまま少ししゃがむ。
撫でるでもなく、
抱き上げるでもなく、
ただ近くで見る。
それ以上は、考えなかった。
考えたら、
少しだけ終わりの気配が立つからだ。
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第六話|そこは、わたしの場所じゃないよ。