メインコンテンツへスキップ
見出し画像

第八話|最終話|ぽてっと転がっている|恋愛ごっこに付き合って#8

    第八話|最終話|ぽてっと転がっている

    画像

    朝、目を覚ますと、家は静かだった。


    もう一度静かになったあとの静けさだった。
    妻はとっくに仕事へ出ている時間だろう、とわかる。
    洗面所の音も、玄関の気配も、もうない。
    いつもの、少し遅い朝だった。

    それなのに、
    最初に思ったのは「静かだな」じゃなかった。

    いないな、だった。

    その言葉が頭に浮かんでから、少しだけ目を伏せる。
    いないのが普通だ。

    朝起きて、知らないはずの女の子が家にいない。
    それが正しい。
    正しいのに、先にそう思ってしまった自分が、少しだけやるせなかった。

    布団の中で、ゆっくり横を見る。

    わらびがいる。

    いつも通り、僕の隣でぽてっと転がっている。
    前足を投げ出して、腹を半分だけ見せて、こっちのことなんか何も知らない顔で寝ている。

    猫はいる。

    それだけだった。

    それだけなのに、
    しばらく起き上がれなかった。

    天井を見て、もう一度わらびを見る。
    部屋は同じだ。

    カーテンの隙間から入る朝の光も、少し乾いた布団の匂いも、脱ぎっぱなしのTシャツが足元にある感じも、何も変わっていない。

    変わっていないのに、
    何かだけがちゃんと終わっている感じがした。

    「……おはよう」

    言ってから、自分でも少し間抜けだと思う。

    わらびは返事をしない。
    しないけれど、声に反応して、
    耳だけがわずかにピクッと震える。

    僕はそのまま布団から出る。
    足元の床が少し冷たい。
    部屋を出ると、洗面所の電気は消えていて、
    流しの横には伏せられたマグカップがひとつある。

    玄関にも、もう誰の気配もない。

    やっぱり、いつもの朝だ。

    ポットに水を入れて火をつける。
    湯呑みを一つ出して、そこで少し止まる。

    もう一つあの子の分も出しかけて、やめる。

    誰に出すんだよ、と思う。
    思うのに、指は一回そこまで動いていた。

    茶葉の匂いが立つ。
    湯呑みに注いでも、
    今日は誰も「貸してみ」とは言わない。

    ひとりぶんだけ置いて、僕は椅子に座る。

    静かだった。

    でも前みたいな、空っぽの静けさじゃない。
    何かが終わったあとの静けさだった。

    テーブルの向こうに、あいつが頬杖をついている気が、少しだけする。

    もちろん、いない。

    いないのに、そういう形だけがまだ残っている。

    「……一度、できたもんな」

    湯呑みに向かって言う。

    自分で言ってから、
    でも、あの形が必要だったんだと思う。

    恋愛ごっこ。
    待つやつ。
    傘の下。
    ただいま。
    どれもちゃんと意味があるようで、ちゃんと変だった。

    僕は昨日のことを思い返す。

    マンションの前。
    少し照れたみたいな顔。
    小さい声。

     ――ただいま。

    あれは冗談じゃなかった。
    たぶん、ごっこでもなかった。
    ごっこの形を借りていただけで、
    中身はもっと切実だった。


    並ぶこと。待つこと。帰ること。
    呼ばれること。

    人が何でもない顔でやっている、
    その往復の中へ、一回だけ混ざってみたかったのだ。

    家が欲しかったわけじゃない。
    真ん中に入りたかったわけでもない。
    牛乳と食パンの袋の音がする側へ、無理に入りたかったわけでもない。

    ただ、
    帰ってくる感じだけは、やってみたかった。

    そう思うと、胸のあたりが少しだけ重くなる。

    わらびは台所までは来ない。
    寝室のほうで、たぶんまだ丸くなっている。
    僕は湯呑みを持ったまま部屋へ戻る。

    わらびは、まだそこにいた。
    さっきとほとんど同じ格好で、布団の端に転がっている。

    僕はその前にしゃがむ。

    「なあ」

    呼んでみる。
    やっぱり返事はない。
    でも、薄く目を開いて、また閉じた。

    その小さな反応が、妙に腹立たしくて、妙にありがたかった。

    「恋愛ごっこは、無理だけどさ」

    言うと、わらびの尻尾が一度だけ、ふわりと揺れた。

    偶然かもしれない。
    たまたまかもしれない。
    そんなもの、猫なんだからいくらでもそう言える。

    でも今日は、
    そういう偶然を全部たまたまで済ませるほど、素直じゃなかった。

    僕は少しだけ笑う。

    「たまになら」

    間を置く。

    「......付き合うよ」

    わらびは目を開けない。
    開けないまま、身体の向きをわずかに変えた。

    そのあと、僕は窓のほうへ行く。
    カーテンを少しだけ開けて、鍵を回す。
    窓をほんの少しだけ開けると、朝の空気が細く入ってくる。

    晴れているのに、どこか湿った匂いがする。
    遠くで車が通って、誰かがドアを閉める音がして、どこかの家の換気扇が回る。

    何でもない朝の匂いだった。

    何でもないのに、
    前より少しだけ、ちゃんと届く。

    「ただいま、って」

    僕は窓の外を見たまま言う。

    「いいよな」

    返事はない。

    でも後ろで、小さな音がした。
    振り返ると、わらびが起き上がっていた。

    完全に起きる気はないらしく、前足を伸ばして、あくびの途中みたいな顔でこっちを見ている。

    そのまま、のそのそと窓際まで来て、
    僕の足元で座る。

    外は見ない。
    開いた隙間の匂いだけを嗅いでいる。

    僕はその背中を見下ろす。

    昨日までなら、
    そこで「お前も行きたいのか」とか
    「外、好きだもんな」とか、そういうことを軽く言って終わっていた気がする。

    でも今日は違った。

    行きたいんじゃなくて。
    見たいんじゃなくて。
    そのあと帰ってくる感じのほうだったんだと、もう知ってしまっている。

    それでも、何も決着はつかない。
    あの子が何だったのかは、相変わらずよくわからない。

    わらびがほんとうに何を聞いていたのかも、たぶん一生わからない。

    真ん中へ入れなくても、端っこで待っていることはできる。

    恋愛じゃなくても、一緒に帰ることはある。

    そういう、うまく言えないものだけが、少し残っている。

    わらびは窓の隙間を嗅ぎ終わると、その場でくるりと回って、僕の足の近くに丸くなった。

    部屋の真ん中じゃない。
    窓と壁のあいだの、ちょっとだけ端っこの場所だ。

    僕はしゃがんで、その背中を一度だけ撫でる。

    「……聞いてたんだな」

    わらびは何も言わない。
    でも、耳だけがわずかに動いた。

    でも、その沈黙はもう前みたいに空っぽじゃなかった。

    僕は立ち上がって、窓をほんの少しだけ開けたままにする。

    朝の匂いが細く入り続ける。
    わらびは丸くなったまま、耳だけをそっちに向けている。

    それを見て、僕は少しだけ笑う。

    隣で寝ていたものが、たまに人間よりずっと人間の話を聞いていることがある。

    そのくらいの距離で、
    たぶんちょうどよかった。

    湯呑みの中のお茶は、少しだけ冷めていた。

    その日、仕事はちゃんとした。
    少なくとも、他人から見ればたぶんいつも通りだったと思う。

    会議に出て、返事をして、資料を直して、また返事をした。

    でも帰り道、駅を出たところで、
    足が少しだけ止まる。

    まっすぐ帰ればいい。
    そう思う。

    なのに、気づくと、いつものほうへ少しだけ曲がっていた。

    パチスロ屋の前まで来て、立ち止まる。

    入りたいわけじゃない。
    でも、入らない理由もきれいには言えなかった。

    自動ドアが開く。
    音と光が一気に来る。

    前なら、それで頭の中が少し黙った。今は少し違う。
    うるさいのに、その奥で別の何かを待ってしまう感じがある。

    僕は中へ入る。
    空いている台の前まで歩いて、結局座らずに立ち止まった。

    誰かが笑って、メダルが鳴って、店員が通る。
    それだけだ。

    それだけのはずなのに、
    ふと、横から声がしそうな気がした。

    ――また来た。

    聞こえたわけじゃない。
    でも、そういう気配だけがある。

    僕は顔を上げる。

    ホールの奥、白い照明の下を、誰かが横切る。
    見覚えがあった気もするし、そうじゃない気もする。
    立ち方だけが少し似ていた。

    僕はしばらくそのまま立っていた。
    それから、結局今日は座らずに店を出る。

    夜の空気は少しぬるかった。
    帰るほうへ足を向ける。

    背中側で、自動ドアが開いて閉じる音がする。

    振り返らないまま、僕は小さく息を吐く。

    「……ただいま、っていいよな」

    誰に言ったのか、
    自分でもよくわからなかった。


    画像

    前回
    第七話|ただいまって言ってみたい。

     
     
    掌縁堂|伏線点火文学。 猫と日常の端っこ。書いているのは、勝っても負でもない人。まだ終わっていないふりをしている人間の話です。きなこ様&わらび王の猫エッセイ、ショートショート。 コメント貰えると嬉しいです。 元放送部脚本担当。 TALESおすすめ5選へ選出。 ▶︎他投稿先模索中

    あなたへのおすすめ