
第六話|そこは、わたしの場所じゃないよ。|恋愛ごっこに付き合って#6
第六話|そこは、わたしの場所じゃないよ。

待つやつがいい、と言われてから、その言葉だけが妙に残った。
会社にいるあいだも、頭のどこかで引っかかっている。
待つ。誰かが出てくるのを待つ。
信号が変わるのを待つ。
帰ってくるのを待つ。
そんなもの、今までいくらでもやってきたはずなのに、あいつに言われると急に形が見える。
その日の夕方、僕は珍しく残業を切り上げた。
理由なんて別になかった。
無理やりつけるなら、昨日の資料は出したし、急ぎのチャットもないし、今帰っても誰も困らない、くらいだ。
でも本当は、改札を出たところにあいつがいるんじゃないかと思っただけだった。
いてほしい、というより、
たぶんいる、のほうに近かった。
改札を抜ける。
あの子は本当にいた。
柱の横に立って、
人の流れをぼんやり見ている。
待ち合わせの顔だった。
スマホも見ないし、きょろきょろもしない。
ただ、出てくる人たちの中に、僕が混ざっているのを最初から知っていたみたいな顔をしている。
「いた」
こっちを見て言う。
「そりゃ、帰るからな」
「待つやつ、できたね」
それだけで少し満足そうにしているのが、妙に痛々しくて、少し可笑しい。
「お前さ、それでいいの」
「よくない?」
「いや……どうなんだろうな」
「そっちは難しくするの好きだねえ」
好きでやってるわけじゃない。
僕らはそのまま歩き出した。
駅前は平日らしい混み方をしている。
急いで帰る人、寄り道する人、コンビニ袋を提げた人。
あの子はその流れの中で、今日はやけに静かだった。
並んで歩いているだけで、もう少し満ちているみたいな顔をしている。
「ねえ」
「何」
「今日、寄らないの?」
「うるさいとこ?」
「うん」
「寄らない」
「偉い」
「その基準なんなんだよ」
あの子は笑う。
ちょうどそのとき、
スマホが鳴った。妻からだった。
何となく嫌なタイミングだな、と思いながら出る。
「もしもし」
『今どこ?』
「駅出たとこ」
『牛乳切れてた。あと食パンもない。帰りに買って来て』
「……ああ、わかった」
『じゃ』
「......。」
通話を切る。
顔を上げると、あの子が少しだけ離れたところに立っていた。
さっきまで隣にいたのに、
半歩どころじゃなく距離を取っている。
「何」
「別に」
「別に、の距離じゃないだろ」
「電話だったし」
「妻からだよ」
「うん」
あっさり頷く。
でも、昨日みたいに軽く線を引く感じとは少し違った。
引いたというより、自然に下がった感じだった。
「スーパー寄る」
「そっか」
「……来る?」
「いいの?」
その問いに、少しだけ引っかかった。
こいつ、昨日までなら「行く」で済ませたはずだ。
今日は聞く。
そこに違和感がある。
「いいよ」
僕は言った。
「牛乳とか買うだけだし」
あの子は少しだけ僕を見る。
それから、小さく頷いた。
駅前のスーパーは、仕事帰りの人でそこそこ混んでいた。
買い物かごの擦れる音、値引きシールの貼られた弁当、レジの電子音、子どもの声。
コンビニよりずっと生活の匂いが濃い。
僕は入り口でかごを取った。
あの子も一緒に入ってくる。
入ってきた、はずだった。
牛乳の棚の前まで歩いてから、
妙な違和感に気づく。
静かすぎる。
振り向くと、あの子が少し後ろにいた。
別に遠いわけじゃない。
数歩ぶんくらいしか離れていない。
それなのに、やけに遠く見える。
店内を照らす、無機質な白い照明が強すぎるせいか、あの子の顔の輪郭がうまく掴めない。
彼女だけが、色褪せた写真のように、背景に溶け込んでしまいそうだった。
「何してんの」
「見てる」
「何を」
「いっぱいあるなあって」
声も、少しだけ遠い。
僕は牛乳を一本取って、食パンの棚へ向かう。あの子もついてくる。
でも、さっきまでみたいにぴたりと並ばない。
商品の列の向こうにいたり、通路の端にいたり、気づくと一歩ぶん余計に離れている。
「お前、さっきから」
「うん」
返事はする。
でも、どこか薄い。
食パンをかごに入れて、レジへ向かおうとしたときだった。
あの子が、ふ、と立ち止まる。
立ち止まったまま、動かない。
「どうした」
近づこうとして、僕も少しだけ止まる。
そこだけ、空気が違った。
うまく言えない。
寒いわけじゃないし、音が消えたわけでもない。
でも、レジの並びや、買い物かごや、「この家の人がこれを買う」みたいな生活の輪郭が、急に濃くなりすぎた感じがした。
あの子は商品棚の端に手を置いて、
少しだけ眉を寄せている。
「……おい」
「大丈夫」
大丈夫、の声が細い。
僕はかごを床に置いて、そっちへ行こうとする。
「来るな」
初めて少し強く言われて、足が止まった。
「何で」
「そこ、ちょっと濃い」
言ってる意味がわからない。
でも、わからないままでも見えてしまうことがあった。
あの子の輪郭が、さっきより曖昧だ。人混みに紛れているとか、照明が白いとか、そういう話だけじゃない。そこにいるのに、目がうまく拾わない。
「何だよ、それ」
「わかんない。でも、ちょっと無理」
その言い方は、嘘ではなかった。
僕は少し焦る。
「じゃあ、出るか」
「うん」
「いや、待って、先に会計だけ」
「いいよ」
「よくないだろ」
牛乳と食パンの入ったかごを見る。妻から頼まれた、ちゃんとした用事だった。
仕事帰りの夫が買って帰る、何でもない生活の一部だ。
何でもないのに、
その“何でもなさ”が今だけ妙に重い。
僕はレジとあの子を見比べる。
「すぐ終わるから」
「うん」
「ここで待ってろ」
「……たぶん、待てない」
その返事で、
胸の奥が少し冷たくなる。
「お前」
「大丈夫。外ならたぶん」
そう言って、あの子は小さく笑った。無理してるのがわかる笑い方だった。
「だから、行ってきなよ」
僕は結局、かごを持ってレジに並んだ。
たった数人なのに、やけに長い。
前の客が小銭を探すあいだも、レジ袋の有無を聞かれるあいだも、ずっと背中が気になっていた。
会計を済ませて振り向く。
あの子はいなかった。
頭が一瞬だけ真っ白になる。
牛乳の冷たさだけが手に残る。
僕は袋をぶら下げたまま、急いで店を出た。
自動ドアの外、植え込みの横に、あの子はいた。
スーパーの白い光の外側。
自転車置き場との境目みたいな暗がりに立っている。
そこへ戻った途端、
少しだけ輪郭が戻っていた。
「……何だよ」
出た声が、自分でも少し荒かった。
あの子はこっちを見て、それから袋のほうを見る。
「買えたね」
「そういう話じゃないだろ」
「うん」
「何だったんだ、今の」
「わかんない」
「わかんないじゃ困る」
「でも、あそこ、わたしの場所じゃないよ」
それは、
思っていたより静かな声だった。
言い訳じゃない。
説明でもない。
ただ、そうなんだ、という声だった。
「スーパーだぞ」
「うん」
「牛乳と食パンだぞ」
「うん」
「何が駄目なんだよ」
あの子は少しだけ考える顔をした。うまい言葉を探しているというより、近い感覚を拾っている顔だった。
「ちゃんと暮らしてる場所、って感じが強い」
「暮らしてる場所?」
「うん。誰が何を買って帰るか、決まってる感じ。これがこの家のやつです、みたいな」
言われて、僕は袋を見る。
牛乳と食パン。
たしかに、そういう袋だ。
何でもない。
何でもないけど、これを持って帰る僕には役割がある。
夫とか、同居人とか、そういう名前のついた位置だ。
あの子はその袋を見て、少しだけ目を細めた。
「そこは、わたしの場所じゃないよ」
今度は、さっきよりはっきり聞こえた。
僕は何も言えなくなる。
コンビニはよかった。
夜道もよかった。
傘の下もよかった。
帰り道もよかった。
でも、
牛乳と食パンの入った袋を持って帰る生活の真ん中には、こいつは入れない。
引き止めるとか、説明をさせるとか、そういう気持ちより先に、
ようやく少しだけ腑に落ちた。
たぶん、入らないんじゃない。
入れない。
「……だったら」
僕は言いかける。
「もっと外のほうならいいのか」
「たぶん」
「じゃあ、そっちにいればいいだろ」
「それはいるよ」
「いや、そうじゃなくて」
少し苛立っているのが、自分でもわかった。
「何でそんな、急に薄くなったりすんだよ」
「急じゃないよ」
「急だった」
「そっちが、急に連れていったやん」
その返しで、少しだけ詰まる。
たしかにそうだった。
牛乳を買う。食パンを買う。
妻が先に帰っている家へ持っていく。そういう現実の線の上へ、僕が勝手に連れていこうとした。
「……悪かった」
「怒ってないよ」
「でも」
「ただ、そこはちょっと違っただけ」
あの子はそう言って、少しだけ笑った。無理してないほうの笑い方だった。
「そっち、たまにすぐ真ん中に持っていこうとするね」
「何だよ、それ」
「端っこでいいのに」
「お前はそれでいいのかよ」
「いいよ」
即答だった。
「端っこ、好きだし」
それが妙に本当っぽくて、
腹が立つより先に黙るしかなかった。
少し歩く。
スーパーの明かりが背中側へ回ると、あの子の輪郭はもう普通だった。
さっきのことが嘘みたいで、余計にたちが悪い。
「ねえ」
「何」
「その袋、音するね」
「牛乳が当たってるだけだろ」
「うん。でも、帰る音って感じ」
またそれだ、と思う。
でも今日は、その言い方が少しだけ違って聞こえた。
欲しい、じゃなくて、知ってる、に近い。
マンションの前まで来る。
オートロックの灯りが白い。
僕は無意識に、「来る?」と言いかけて、やめた。
あの子はその未遂に気づいたらしく、少しだけ笑う。
「今日はやめとく」
「……そうか」
「うん。その袋のときは、たぶんやめといたほうがいいやつ」
「何だよ、その言い方」
「わかりやすいじゃん」
わかりやすいのは、たぶんこっちのほうだった。
僕は袋を持ち直す。
牛乳が中で少し鳴る。
「じゃあな」
「うん」
「また」
「端っこのほうなら」
あの子はそう言って、歩道の端へ一歩下がる。
その立ち姿が、妙に正しくて、やり場のない重苦しさが残った。
僕はエントランスへ向かう。
オートロックを開ける前に一度だけ振り返ると、あの子はまだそこにいた。
でも、来ない。
手も振らない。
ただ、ちゃんとこっちを見ている。
生活の中心じゃなくて、
その少し外側から。
部屋に入ると、妻がキッチンにいた。
「買った?」
「ああ」
袋を渡す。
牛乳と食パン。
ほんとうに何でもない。
「どうも。」
「別に」
それだけの会話だ。
でも、そのやり取りをしているあいだ、さっきの言葉が頭の中でずっと残っていた。
そこは、わたしの場所じゃないよ。
着替えて、部屋へ戻る。
わらびがいた。
窓際じゃなく、今日は部屋の隅の、棚と壁のあいだみたいな場所で丸くなっている。
真ん中じゃなく、端っこだ。
僕は少しだけしゃがむ。
「……お前さ」
呼んでも、返事はない。
けれど、
耳だけが
わずかに動いた。
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