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夏の花に、終わらない約束を【最終話】

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     気がついたら、空が明るくなっていた。
     辺りが青白く、夜の重たさがどこかに行ってしまったみたいに空気が澄んでいて、東の空は薄く朝焼け色に染まっている。夏の朝のにおいがした。

    「朝が来たね」
     夏神なつがみくんが独り言のように呟く。
    「うん」
    「もう夏も終わりだね」
    「……」
     私は何も言えなかった。
     ここ数日、特に朝晩はひんやりしていて、夜には虫の声が聞こえる。いつもの夏なら、やっと暑さから解放されると、ほっとしていた。だけど今年は違った。夏が終わることは、夏神くんにもう会えなくなることを意味している。私は、夏がもう少し続いてほしかった。

    「陽ようくん」
     夏神くんが、ん?と、少し首を傾げてこちらを見た。
    「陽くんは寂しくないの?……夏が終わること」
     私と会えなくなること、と本当は言いたかった。けれど、夏神くんを困らせたくなくて、違う言葉を選んだ。
     夏神くんは少し考えるように空を見て、それから言った。
    「夏はまた来年も来るからね」
    「……そう、だよね」
     真っ当な答えだった。彼にとって夏は、ただ過ぎていくものではない。連れてきて、見守って、よいタイミングで帰らせるものなのだろう。

    「そんなに寂しそうな顔しないでよ」
     顔を上げると、夏神くんが優しい目でこちらを見ていた。
     ただでさえ寂しいのに、そんな風に見つめられると、もっと寂しくなってしまう。
    「だって……本当に寂しいから」
     そう言うと、夏神くんは小さく笑った。そして、私の頭をぽんぽんと、まるで子どもを褒めるような軽さで撫でた。なんだか子ども扱いされている気がして、私はその手を払う。
    「もう、からかわないでよ」
    「ごめん。なんか今の顔、かわいかったから」
     かわいい、という言葉に不意を突かれて、私は下を向いた。
     夏神くんは、私が払った手をそのままそっと取った。つないだ手を、ぶらぶらと小さく揺らした。

    「……しんみりするの、苦手なんだよね」
    「うん……わかってるよ」
     分かっているつもりだった。夏神くんは、悲しいことを悲しいままにすることが苦手なのだ。
    「でも、葵あおいちゃんは寂しいんでしょ?だったらさ、寂しいって言っていいんだよ」
    「……」
    「葵ちゃんはいつも、周りの人の気持ちを考えて、誰かのために一生懸命になれて、それってすごいと思う」
     夏神くんの声は静かで、聞いていると落ち着く気がした。
    「だからさ、少しくらい、わがままを言っても許されるよ」
     その言葉に、ふいに涙が出そうになった。

    「……わがままなことを、言ってもいい?」
    「うん」
    「陽くんが、いなくなるのが、寂しい」
     喉が苦しくて、一言一言絞り出すように声を出す。
    「これから誰に本音を言ったらいいのか、わかんない」
     声が震える。一度言葉にしてしまうと、もう止まらなかった。
    「陽くんがいなくなるのは、仕方ないのに。わたし、どうしたらいいかなあ」
     笑って冗談のように言ったつもりだったのに、涙がこぼれた。

     夏神くんと一緒にいると、私は私のままでいていいのだと思えた。大丈夫じゃないときに、大丈夫じゃないと言ってもいいのだと思えた。夏神くんがいなくなることは、その場所ごと失ってしまうように思えて、私はそれがとても怖かった。
     どうしようもなく、涙が止まらなくなった私を前に、夏神くんは何も言わず、ただ静かに傍にいてくれた。

    「……ごめん」
     謝ると、夏神くんは首を横に振った。それから、少し考えるように空を見た。
    「そうだなあ……俺は、遠くからでも見守ってるけど、葵ちゃんには見えないもんね」
    「......うん」
     夏神くんは夏神くんなりに私のことを考えてくれている。それを分かっているから、これ以上彼を困らせたくなかった。
     そのとき、ふと思い出した。
    「……ひまわり」
    「ん?」
    「向日葵がみたい」
     夏神くんは、ああ、と頷いた。
    「わかったよ。約束する。この場所に、毎年向日葵畑をつくってあげる」
    「え、あ、いや。そんなつもりは......」
    「あれ?ちがった?」
     夏神くんが首を傾げる。
    「この前みたいに、一本出してくれたらよかったの」
    「あれ?そうなの?」
    「うん」
     そう言うと、夏神くんは少し考えた顔をした。けれどすぐに、やわらかく笑った。
    「そっかあ。でも、一本だけだとすぐに枯れちゃうでしょ?」
    「......うん」
    「花畑だったら、毎年向日葵を見せてあげられる。今は人間の姿だからできないけど、本来の姿なら花畑をつくるなんて朝飯前なんだよ」
     ちょっと得意げにそう言う夏神くんは、いつもの夏神くんで、私も思わず笑顔になった。
     私の笑顔を見て、夏神くんも笑った。
    「だから、よかったら見に来て。俺の代わりに、向日葵が待ってるから」
    「......うん、わかった」
     つないでいた手から、どちらからともなく小指を絡めた。
    「約束ね」
     小指を何度か揺らす。
     まるで子どもが「明日も遊ぼうね」と約束するみたいだった。

     空がゆっくり明るくなっていく。
     夏が終わっていく。
     夏神くんと一緒にいたこの時間を、ずっと忘れたくないと思った。

     ◇

     夏休み明け。新学期初日に、権田ごんだ先生が夏神くんの転校をみんなに知らせた。
     何も言わずに去っていった夏神くんに、教室全体がしばらくざわついていた。けれど数日も経てば教室はいつもの空気に戻っていった。受験も迫っていて、沈み込んでばかりはいられない。
     私もみんなと同じように受験勉強に励んだ。夏神くんがせっかく背中を押してくれたんだから。受験勉強が遅れていた分、周りに追いつこうと夜遅くまで必死に机に向かった。

    「葵、大丈夫?」
     そんなある日の放課後、優香が心配そうに話しかけてきた。
    「うん?何が?」
     首を傾げると、優香が少し言いにくそうな顔をした。
    「なんか、追い詰められてないかなって。陽くんがいなくなってから、何かに追われているみたいに勉強をしてるから......」
     優香の言葉に、私はいつものように「大丈夫」と笑おうとした。
    「......」
    「葵?」
     大丈夫、とは言えなかった。
     外では普通に過ごしていたけれど、夜になると眠れないことが増えた。ようやく眠っても、誰かがいなくなる夢を見て目が覚めた。受験の不安なのか、夏神くんがいなくなった寂しさなのか、自分でもよく分からなかった。

     黙っている私に、優香は笑いかけた。
    「大丈夫って、無理に言わなくていいよ」
    「......うん」
     私は小さく息を吸った。
    「あんまり大丈夫じゃないかも」
     小さい声でそう言うと、優香は私の頭をぽんぽんと撫でた。
    「よかった」
    「え?」
    「だって、いつも『大丈夫』って言う葵が、大丈夫じゃないって教えてくれたから。ちょっと安心した」

     優香はまた少し笑って、「よかったらさ、帰りにファミレスで勉強していかない?透くんも誘って、ちょっと息抜きしながら」
     その言葉に、ふっと身体の力が抜けていく気がした。
    「うん、ありがとう」
     夏神くんがいなくなっても、私がひとりで頑張り続ける必要はなかった。
     私はもう、無理に大丈夫と言わなくてもいい場所にいた。

     ◇

    「みゃあ」
     足元にすり寄ってきた白猫の頭をよしよしと撫でる。あの時と同じように、目を細めて喉をゴロゴロと鳴らした。
    「陽くんは元気にしてる?」
     にゃー、とまたひとつ鳴き声をあげる。「げんきだよ」と言ってくれているようで、私は笑った。
    「そっか。私も元気だよって伝えて」
     そう言うと、猫は立ち上がり、その場から離れていった。

    「ママ、何を話してるの?」
     振り返ると、陽葵ひまりを抱っこした夫の陽太ひなたが立っていた。
    「ううん、何でもないよ」
     私は笑って立ち上がる。
    「ここの向日葵畑は毎年満開だよな」
     陽太が言う。
    「そうだね」

     陽太とは大学で出会った。隣の席に座ったことをきっかけに話すようになって、気がつけば、毎年一緒に向日葵畑に来るようになっていた。大学を卒業した年、彼は向日葵の花を持って、私に結婚しようと言った。
     それから五年が経った。いま私は、娘の陽葵と、陽太と一緒に向日葵畑を見に来ている。

    「ママも、白い猫さん見たの?」陽葵が聞いてくる。
    「うん。猫さんに挨拶をしたの」
    「そっかあ」
     陽葵が笑う。
    「じゃあ、行こっか」陽太が言う。
    「うん」
     私たちは並んで向日葵畑を後にする。
    「ねえパパ。向日葵畑の秘密って知ってる?ママがさっき言ってたの」
    「うん?なんだろう、知らないなあ。ママ、教えてよ」
     陽太と陽葵が顔を見合わせてから、私を見る。
    「それはね」
     私は振り返って、もう一度向日葵畑を見渡した。
     誰も種を蒔かなくても、夏になると必ず咲くんだよ。ーそう言おうとしたとき、強い風が吹いた。

     向日葵が笑っているようだった。



    おわり


     
     
    小説を書きます お手柔らかに

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