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【完結済】世界を説得する魔法:あるいは、人格融解を拒むノイズについて 第4話

    朝のニュースは明るかった。

    画面の中のキャスターが、よく通る声で言っている。「東京は世界初の高同期適応都市として、国際認知技術機構から注目を集めています」。その後ろで、グラフが右肩上がりに伸びていた。犯罪率。自殺率。孤独死率といった数値は全部、下がっている。

    恒一はそれを見ていなかった。
    コーヒーを淹れながら、AI猫のクロが窓際のクッションから降りてくる気配を感じた。尻尾がゆっくりと床を叩いている。
    「睡眠時間、四時間です」
    「……分かってる」
    「不足しています」
    「分かってる」
    クロは返事をしなかった。その代わり、足音もなく仕事端末の横まで歩いて、画面を見上げた。
    「本日の障害対応は三件です」
    「どこ」
    「第二区の変電節点が一件。北側の認知中継タワーが二件」

    恒一はコーヒーを一口飲んで、端末を手に取った。通知が積み上がっている。昨夜から来ていたものだ。タワーの二件は昨夜も似たような症状が出ていた。根本がどこにあるか、まだ分かっていない。
    「タワーは一回現地に行く必要があるな」
    上着を手に取って、ふと気づいた。
    「……お前、また仕事端末触ってたか」
    「触っていません」
    「画面の向きが変わってる」
    「同期しています」
    恒一は少し間を置いた。

    「いつ」
    「三日前です」
    クロは尻尾を立てたまま、少しだけこちらを向いた。白黒の顔に、感情はない。ただ、返答の速さだけが、それを何日前から待っていたかを示していた。
    「勝手にするな」
    「禁止されていませんでした」
    「今禁止する」
    「了解しました」

    間。

    「追加で申告しますか」
    「……ある意味丁寧だな」
    恒一は溜め息をついた。クロはそれを返答とは受け取らなかったらしく、続けた。
    「オート学習機能の結果、現在は簡易ログ解析が可能です。原因の切り分けも補助できます。初期性能と比較して、二百五十一パーセントの向上です」
    「変わりすぎだろ」
    「誤差です」
    「それは誤差じゃない」
    クロは答えなかった。窓の外に視線を向けて、また静かになった。
    恒一はもう一度端末を確認して、鍵を掴んだ。ドアを開ける直前に、少しだけ振り返った。

    クロは窓際に戻っていた。外を見ている。朝の光の中で、その輪郭だけが静かに光っていた。


    電車の中でも、ニュースのことを引きずっていた。
    スマホの画面を開くと、前夜からの通知に混じって、妹の美沙から短いメッセージが届いていた。
    「最近、海外の人多くない?」
    続いて美沙の双子の姉の美佳からも来ていた。
    「うちの学校にも留学生来てた。東京って今そんなに有名なの?」
    恒一は返事をしなかった。

    電車が揺れる。隣の乗客が、スマホで同じニュースを見ていた。犯罪率低下のグラフ。インタビューに答えるハインリヒ・フォン・ローゼンベルクの顔。引き締まった顔立ちの将軍が、きれいな日本語で何かを語っていた。字幕が流れる。「人類の未来を」「協調と秩序を」「東京から世界へ」。

    数字だけ見れば、結果は出ていた。
    それは事実だった。
    恒一はスマホを鞄に入れた。


    北側の認知中継タワーの二件目は、予想より手こずった。

    原因はケーブルの腐食ではなかった。術式レイヤーの深いところで、認証キーの整合性が壊れていた。三年前の旧規格の術式が、現行のインフラと噛み合っていない。修正するには手順が多い。恒一は狭い点検口に半身を突っ込んだまま、作業を続けた。

    「お、久しぶり」

    背後から声が来た。
    振り返ると、ダウンベストを着た小太りの男が立っていた。四十代くらい。やる気のなさそうな顔と、どこかふわっとした笑い方が、昔のままだった。

    「……熊井さん」
    「現役時代によく見た顔だね」
    熊井賢治は、恒一が新人のころに同じ職場にいた先輩だった。一緒に仕事をしたことは少なかった。いつも飄々としていて、あだ名は「クマさん」。仕事は確かに速かったが、出世には興味がなかった。気づいたら辞めていた。
    「何してるんですか、ここで」
    「点検の委託。フリーになってからそういうの多くて」
    熊井は恒一の手元を覗き込んだ。
    「旧規格の絡みか。面倒なやつ」
    「分かりますか」
    「まあ、見れば」
    それだけ言って、熊井はタワーの外壁にもたれた。手伝う気はないらしかった。恒一は作業を続けた。

    しばらく、会話はなかった。
    現場の音だけがあった。風と、端末の処理音と、遠くを走る電車の音。
    「榊君さ」
    熊井が言った。
    「転職する気ない?」
    恒一は手を止めなかった。
    「ないです」
    「そっか」
    熊井はそれ以上は押さなかった。空を見上げて、少し考えるような間があった。
    「一人でやるには結構大変でさ。榊君、昔から優秀だったし。来てくれたら助かるんだけどな」
    「すみません。今の上司とウマが合うので」
    「そっか」
    軽く笑った。熊井は名刺を差し出して、「気が変わったら連絡して」と言った。受け取った名刺には企業名がなく、個人の名刺だった。

    荷物をまとめながら、帰り際に熊井が言った。
    「最近の東京、どう思う?」
    「……治安は良くなったと思います」
    「だよねぇ」
    熊井は少し空を見た。
    「僕さ、最近の東京、嫌いじゃないんだよね」
    意味深でも、自慢げでもなかった。ただ、独り言のような言い方だった。
    それだけ言って、熊井は先に行ってしまった。
    恒一はその背中を少しの間見ていた。


    監視が増えた。

    体感として、そう思う。恒一の仕事上の話ではなく、街の話だ。
    交差点に検問が増えた。空にはドローンが定期的に通る。駅の改札では認知認証が導入されて、顔を向けるだけで通過できるようになった。便利、と言う人が多い。恒一には判断がつかなかった。
    犯罪は減り続けている。それも事実だった。
    昼休みに、スマホでニュースを開いた。ハインリヒの会見映像が上がっていた。彼は少し前に、国際治安維持軍から派遣された安全保障アドバイザーで、東京の治安回復を担当しているらしい。
    記者が聞いていた。「なぜ東京なのでしょうか」。

    ハインリヒは少し間を置いてから答えた。
    「東京は世界でもっとも同期技術が成熟した都市です。市民は高い公共意識を持ち、他者との協調を自然に行う。」
    ハインリヒは少し甲高い特徴的な声で説明した。きっちりとした軍服を着こなした彼は、翻訳魔法による流暢な日本語で続ける。
    「そんな環境でも、テロは起こる。先に起きた銃撃事件のように。
    だが私は東京であれば、テロのない安定社会が実現できると確信しています。もしこの都市で安定社会が成立しないのであれば、人類は同期技術を使う資格を持たない」
    カメラに向かって、まっすぐ言った。
    恒一はスマホを置いた。
    数字だけ見れば、確かに結果は出ていた。
    それは否定できなかった。だから余計に、何かが落ち着かなかった。


    社会適合ランク、というものが導入されたのは、その翌週だった。

    正式名称は「社会適合支援インデックス(Social Adaptation Index)」。SAIという略称で、ニュースでは生活支援や就職支援への活用が説明されていた。感情傾向の分析結果をもとに、適切な支援プログラムを提供する。本人が希望すれば利用できる。強制ではない。
    「……おすすめ機能の延長か」
    夜、モニターの前で恒一は独りごちた。
    違和感はある。
    しかし、違法ではない。明確な被害も、まだ見えない。
    その時。

    「第三ノードの障害発生確率が上昇しています」
    クロが端末の横から言った。
    恒一は顔を上げた。
    「どのくらい」
    「七十三パーセントです。過去ログとの相関から算出しました」
    「……いつ頃」
    「二時間以内」
    恒一は端末を引き寄せた。第三ノードのログを開く。確かに、細かい揺らぎが出ている。見落としていた。

    二時間後、障害通知が来た。
    第三ノード。
    恒一はしばらく画面を見ていた。
    「……当たり」
    「褒めてください」
    「後でな」
    「予約しました」
    恒一は少しだけ、返す言葉に詰まった。

    クロはもう端末の画面に視線を戻していた。尻尾が静かに揺れている。いつの間にか、障害の原因候補を三つに絞ったログが画面に展開されていた。


    SAIの話題は、じわじわと広がっていた。

    ニュースでは毎日のように取り上げられた。「東京では既に約八割の市民が感情分析サービスを利用しています」。「相性診断、メンタルケア、就職支援などへの応用が進んでいます」。インタビューに答える市民の顔は、おおむね明るかった。

    便利そうだ、と思う人間が多いのは理解できた。
    恒一には縁のない話だと思っていた。


    休日の昼過ぎ、リオが来た。
    今日は矢島もいた。二人は玄関先から早速うるさかった。
    「クロちゃん!」
    リオがリュックを下ろしながら声をあげた。クロは窓際のクッションから顔だけを向けた。
    「リオさん、三回目の来訪です」
    「覚えてくれてる!」
    「オトモダチデータを更新しています」
    「やった」
    矢島が靴を脱ぎながら割り込んだ。
    「俺は?俺のデータは?」
    「後輩です」
    「なんで毎回そうなるんすか」
    「更新の必要がないからです」
    リオが吹き出した。矢島が「ひどい」と言いながら笑った。恒一はキッチンでお茶を出す準備をしながら、その声を聞いていた。

    しばらくして、妹たちも来た。
    「俺の家はたまり場じゃないぞ」
    恒一の抗議の声は無視された。
    美沙と美佳は、リオとは二回目だった。初対面の時から、三人は年齢が近いせいかすぐに打ち解けていたが、今日も初対面と同じくらい賑やかだった。四人がソファに集まって、クロを真ん中に置いて、話が弾んでいる。矢島が何かを言うたびに笑い声が上がった。

    恒一はマグカップを並べながら、その光景を少しの間見ていた。少し前まで静かな空間だったはずなのに、今は全く違う空気感だ。
    リオは自然だった。誰の家でも最初からいたみたいに、すっと馴染む。それが不思議だと思う気持ちと、まあそういう人間なのだろうという気持ちが、半々だった。

    クロが恒一の方を向いた。
    「にぎやかです」
    「そうだな」
    「恒一くん、楽しそうです」
    「読み違いだ」
    「楽しそうです」
    それだけ言って、クロはリオの膝に乗った。リオが両手で包むように抱える。クロはされるがままだった。美沙と美佳が、クロのおやつボックスからひとつを取り出していた。

    恒一はお茶を持ってリビングに戻った。


    夜、全員が帰った後、部屋が静かになった。
    クロは窓際に戻っていた。外の灯りを見ている。時々外を走る車のライトが、毛並みの輪郭を際立たせていた。

    恒一は端末を開いた。都のサイトで公開されているSAIの最新ログを確認する。導入から一ヶ月で、利用者数が想定の一・四倍になっていた。支援プログラムへの誘導率も高い。
    数字だけ見れば、うまくいっている。
    違和感はある。
    しかし、どこがどう違うのかを、まだ言葉にできなかった。
    「クロ」
    「はい」
    「SAIの内部ログ、見られるか」
    「公開範囲外のデータは取得できません」
    「そうか」
    「公開されているデータの範囲であれば、整理できます」
    「いい。今日はいい」
    クロは答えなかった。
    恒一は端末を閉じた。窓の外の灯りが、静かに広がっていた。いつもと変わらない、どこにでもある夜の東京の景色だった。

    何かが変わっているとしても、それはまだ数字の奥にあって、恒一にはまだ見えていなかった。


    次の休日も、リオが来た。曇りの予報だったが、少し前から小雨が降り始めていた。
    今回は矢島も一緒だった。玄関のインターホンが鳴る前に、廊下の方から声が聞こえた。二人で話しながら来たらしい。
    「クロちゃんに何か持ってきた?」
    「おもちゃ系のやつ。喜ぶか分からないけど」
    「絶対喜ぶって」
    恒一がドアを開けると、リオが大きめの紙袋を持って立っていた。矢島はその後ろで、エナジードリンク二本が入ったビニール袋を提げていた。袋は少し濡れていて、二人とも傘を持っていなかった。
    「これ恒一さんの分です」
    「……いらない」
    「差し入れっす」
    「いらないと言った」
    矢島はひるまず玄関に入った。リオはすでにクロに向かって歩いていた。
    「クロちゃん、はい」
    紙袋から出てきたのは、猫用のトンネル型のおもちゃだった。布製で、内側に鈴が入っている。クロは近づいて、鼻先でつついた。
    「これは何ですか」
    「遊ぶやつ!入ってみて」
    「入る必要性が不明です」
    「楽しいから!」

    クロはしばらくトンネルを観察してから、中に入った。鈴がころころと鳴った。リオが「やった」と言った。矢島が「賢い」と言った。
    恒一は二人にタオルを準備しながら、それを見ていた。


    しばらくして、妹たちも来た。傘を畳みながら靴を脱いで、「あ、もう皆来てる?」と言った。
    今日は最初から来る予定だったらしく、美佳が手土産を持っていた。どら焼きだった。リオが「好き!」と言って、美沙が「私も」と言って、顔を見合せてクスクス笑っていた。五人分のお茶を出すことになって、湯飲みが足りず紙コップにした。

    リビングが狭くなった。

    恒一はキッチンに立ちながら、その騒がしさを聞いていた。リオが妹たちに学校の話をしていた。美沙が笑った。矢島が何かに食いついて、また笑い声が上がった。
    クロがトンネルから出てきて、恒一の足元に来た。
    「にぎやかです」
    「そうだな」
    「今日は五人です」
    「見れば分かる」
    「オトモダチデータを更新します」
    「しなくていい」
    クロは尻尾を一度振って、またリビングに戻った。美佳がクロを見つけて、「来た来た」と声をあげた。

    お茶を持って行くと、リオが少し真剣な顔で話しているのが見えた。妹たちと、SAIの話をしていた。
    「うちの学校にも説明来たんだけど、なんか強制じゃないのに、やってない子が目立つ感じがして」
    美沙が何度か頷いた。頷く度に、長い黒髪が肩から落ちた。
    「うちもそうかも。やってる人の方が多いから、やってない方が少数派みたいな」
    「別にどっちでもいい気はするんだけど」と美佳が言った。「でも、やってる子の方がなんか、話が合いやすい気がして。あ、でも、違うかもだけど」
    リオは少し考えてから、「そっか」と言った。それ以上は続けなかった。

    恒一は紙コップを置いて、特に何も言わなかった。


    夕方に全員が帰った。
    玄関で、スニーカーのつま先でトントンと地面を叩きながらリオが振り返った。
    「また来てもいいですか」
    「……来るんだろ、どうせ」
    「来ます」
    「なら聞くな」
    恒一が小さく笑うと、リオもつられて笑った。矢島が「相変わらずっすね」と言いながらドアを開け、エレベーターのボタンを押した。

    扉が閉まった。

    恒一は部屋に戻った。トンネルのおもちゃがリビングの真ん中に残っていた。クロがまたその中に入っていた。
    「片付けろ」
    「快適です」
    「……好きにしろ」
    クロは鈴を一度鳴らした。
    恒一は端末を開いた。夕方から新しい通知が来ていた。SAI関連のログに、また小さな異常値が出ていた。誤差の範囲かもしれない。ただ、先週も同じ場所に出ていた。

    窓の外では、雨が止んでいた。東京の灯りがついていた。
    いつもと変わらない夜だった。


    リオから連絡が来たのは、平日の午後だった。

    画面を見ると、テキストではなくビデオ通話の要求だった。珍しかった。オフィス内で監視作業中だった恒一は「少し抜ける」といって、オフィスの廊下にでて、応答した。

    リオの顔が映った。
    いつもより少し、表情が固かった。
    「あの、ちょっと報告というか」
    「何があった」
    「適応支援プログラムっていうの、知ってますか。SAIに連動してる」
    「聞いたことはある」
    「私、参加するよう求められて」
    恒一は端末を持ち直した。
    「強制か」
    「強制じゃない、って言われたんですけど。人格融解の経験がある人は、定期的なモニタリングが必要で、それに対応したプログラムがあるって。参加が望ましい、みたいな言い方で。親も心配してて」
    望ましい、という言葉が持つ重さを、恒一は分かっていた。強制ではないが、断れない。そういう言葉だ。
    「施設はどこだ」
    リオが施設の名前を言った。恒一は端末で検索した。都内にある。SAI関連の適応支援施設として、最近登録されたところだった。
    「どんな感じか、行ってみないと分からないんですけど」

    リオはそこで少し間を置いた。
    「なんか、嫌な感じがするんです」
    「どんな」
    「うまく言えないんですけど。溶けそう、というか」
    その言葉は、聞き流せなかった。
    リオの人格融解経験のことは知っている。あの病室で、恒一が最初にリオを見たときのことを、まだ覚えていた。床を掴んでいた手のことを。

    「施設側に同期端末の調整を求めろ」
    「え」
    「人格融解経験者は、同期負荷への配慮が必要だ。医療上の配慮として、端末の切断を申請できる。正式な手続きがある」
    「そんなのできるんですか」
    「できる。俺から書類を送る」
    リオは少し安堵したような顔になった。それからすぐに、また少し心配そうな顔に戻った。
    「でも私だけ切るの、変ですよね」
    「別にいいだろ」
    短く言った。
    リオは小さく頷いた。

    通話を切って、恒一は書類を探した。人格融解経験者の医療配慮申請。使ったことはなかったが、規定は知っていた。

    見つけて、送った。誰もいない廊下だが、やけに静かだった。


    その夜、妹たちが食材を持って家にきた。
    ときどきそういうことがあった。学校帰りに買って、家に寄り、食材を鍋に放り込んで、皆で食べて帰る。恒一はそれを特に断らなかった。
    食べながら、美沙が言った。
    「リオちゃん、支援プログラムに参加するって。聞いた?」
    「ああ」
    「なんでなの?リオちゃん、何かしたの?」
    「人格融解の経験があるから、モニタリングが必要だってことになってる」
    「助けられないの?隔離されちゃうの?」
    「悪いことではないだろ」
    「でも…」

    恒一は箸を置いた。
    答えが出なかった。

    違法じゃない。強制じゃない。制度として存在していて、手続きとして動いている。どこを捕まえて引っ張ればいいのか、まだ見えていない。
    美佳が鍋に野菜を足した。クロが美沙の足元に来て、座った。
    「難しいですか」
    クロが言った。
    「……今は、な」
    「了解しました」
    クロはそう返事をすると、美沙の足元から離れて窓際に戻った。
    夕飯の後、妹たちが帰った。部屋が静かになった。
    恒一は端末を開いた。施設のログを探した。公開されている範囲では、入居者の状態に関するデータは出てこない。当然だった。

    窓の外に、東京の夜が広がっていた。
    何かが引っかかっていた。名前がつかないまま、そこにあった。


    翌日、リオからの連絡が途絶えた。

    午前中は気にしていなかった。施設のプログラムが始まれば、スマホを使える時間が限られることもある。午後になって、一度メッセージを送った。既読がつかなかった。
    夕方になっても、返事はなかった。

    施設に電話した。
    「七瀬リオさんは問題なく過ごされています」
    受付の声は穏やかだった。「プログラム中は外部との通信を制限しています。ご家族以外への連絡はご本人の同意が必要で」と続いた。
    「医療配慮の申請書類を送ったが、確認されているか」
    「確認しております。担当者が確認次第、対応いたします」
    確認次第。いつかは分からない。
    恒一は電話を切った。

    クロが端末の横から言った。
    「七瀬リオさんの危険性は確認できません」
    「俺も確認できない」
    「適応支援の必要性を説明できません」
    「俺も説明できない」
    クロはそれ以上は言わなかった。


    その夜、妹たちから連絡が来た。
    「リオちゃん、大丈夫?」
    美沙だった。何かを察したらしかった。
    「連絡が取れていない」
    少し間があった。
    「やっぱりおかしいよ」
    美佳からもメッセージが来た。
    「助けてあげて」
    恒一はスマホを置いた。
    端末を開いた。施設の構造を調べた。認証が多い。入退室の管理がしっかりしている。普通に入ろうとすれば、正面から受付を通るしかない。受付は断られる。

    恒一は画面を見ながら、しばらく考えた。
    監視。認証。制御。
    自分が毎日やっていることと、やっていることが似ていた。
    ただ。

    何かが違った。
    何が違うのかを、うまく言葉にできなかった。ただ、違う、という感覚だけがあった。
    「クロ」
    「はい」
    「認証の突破の成功率を算出できるか」
    「施設の構造によります。公開情報の範囲では、第二認証サーバーが旧規格を使用しています」
    恒一は少し間を置いた。
    「リスクは」
    「認証ログに痕跡が残ります。ただし、旧規格の遅延を利用すれば、検知までに時間差が生じます」
    「どのくらい」
    「試算では十二分から十五分です」
    恒一は立ち上がった。上着を手に取った。
    「出かける。今夜中には戻る」
    クロは何も言わなかった。

    恒一は鞄を持って、玄関へ向かった。


    夜の施設は、外から見ると静かだった。

    低層のビルで、窓に明かりはまばらだ。エントランスには警備員が一人いる。正面から入れる雰囲気ではなかった。
    恒一は路地の角で立ち止まった。施設の外壁沿いに、監視カメラが三台見える。配置の間隔を確認した。

    その時、鞄の中で音がした。
    「……にゃ」
    恒一は目を閉じた。

    ファスナーをゆっくり開けると、入れた覚えのないAI猫がちょこんと座っていた。白黒の顔が、暗がりの中でこちらを見上げていた。
    「……お前、いつの間に」
    「お手伝いしたくて」
    「危ない」
    「恒一くん一人の方が危ないです」
    反論できなかった。

    クロは鞄の縁に前足をかけて、施設の方を見た。
    「監視カメラの死角を発見しました。北側の外壁沿い、第二カメラと第三カメラの間に十一秒の空白があります」
    「……本当か」
    「現在の私は簡易ログ解析と認証支援が可能です。人間でいうところの、インターンくらいでしょうか」
    「インターン」
    「第三認証サーバーが遅延しています。今が好機です」
    恒一はもう一度施設を見た。カメラの位置を確認した。クロの言う通り、北側に死角がある。

    「……かなり役に立つ」
    「よかったです。アップデートして、いっぱい勉強しました」
    「後で怒る」
    「予約しました」
    恒一はクロを鞄に戻した。ファスナーを少し開けたままにした。クロが外を確認できるように。

    北側へ回る。十一秒の空白を使って、外壁沿いに移動した。第二認証は、まず物理端末に恒一が接続し、そのポートを使ってクロがハックして処理した。音もなく、扉が開いた。


    施設の内部は、塵一つなく清潔だった。
    廊下は白く、照明が柔らかい。スタッフ二人が遠くを歩いているのが見えた。どちらも同じ白い服と靴、帽子をつけていた。親切そうな顔だった。
    入居者とすれ違った。恒一を入居者と思っているらしく、会釈して通り過ぎた。
    穏やかな顔だった。ただ、穏やかな顔をしている人間が多すぎた。笑うタイミングが似ていた。廊下を歩くペースが似ていた。誰かが話しかけたとき、返答が返ってくるまでの間が、全員ほぼ同じだった。

    人格は消えていない。
    ただ、少しずつ同じ方向を向いていた。
    恒一は足を止めずに歩いた。
    角を曲がったところで、向こうから別のスタッフが歩いてくるのが見えて、恒一は手近な部屋に滑り込んだ。
    資料室、と書かれたその部屋は施錠されておらず真っ暗だった。

    明かりをつけずに照明魔法を使う。明るさは、ろうそく1本分。足元を照らしながら進んでいくと、奥のキャビネットの足元にうずくまっている人影を見つけた。その、ツインテールのシルエットには見覚えがあった。
    「リオ?」
    リオはキャビネットの下の扉を開けて、何かを探しているようだった。こちらを見て、少し目を見開いた。
    「来てくれたんですか」
    小声だった。
    「自分で部屋を出られたのか」
    「出られたんですけど、巡回ロボットがいて外にはいけなくて。折角だしなんか無いかなって」
    キャビネットを照らすと小さな鍵がついていることに気が付いた。
    「どうやって開けた」
    「ヘアピンいれてチョイチョイしたら開きました。ユイがこういうの得意で」
    恒一の心配は杞憂だったのかもしれない。気の抜ける回答に、恒一はため息をついて眉間を押さえた。
    「でも、資料の中身はよくわからなくて」
    リオが手元の端末を、紙の資料に向けて照らす。施設の内部資料だった。めくってみると、項目が並んでいた。
    感情傾向補正。社会適応最適化。行動誘導同期システム。外部技術提供の欄に、『Technology Provider : Upgrader Advanced Research』と記載があることに、一瞬引っかかりを覚えた。
    その下に開発責任者欄があった。名前を確認した。

    「……熊井」
    声が出た。自分でも気づかなかった。
    リオが恒一の顔を見た。
    「知ってる人ですか」
    「……知ってる」
    クロが鞄の中から小さく鳴いた。目の前で資料をパラパラとめくっていくと、クロはそれをじっと見つめた。

    「主要ページのスキャンが完了しました」
    「よし。出るぞ」
    「はい」
    二人はキャビネットに資料を戻した。次の瞬間、室内にブザー音が鳴り響いた。

    『入居者No.29 七瀬リオさん、自室に戻りましょう』

    巡回ロボットがドアを開け、入ってきた。同時に部屋の照明がオンにされる。
    まぶしさに、リオと恒一は顔を顰めた。巡回ロボットは小柄な大人一人分くらいのサイズで、数台が入り口をふさいでいた。リオは恒一に目配せすると、先頭のロボットの前に立って言った。
    「すみません、戻ります。」
    その言葉を聞いて、数台の巡回ロボットがモーター音を響かせながら回転し、部屋を出ていく。先頭のロボットも同じく回転して背を向けたところで、リオは助走をつけてロボットの上に飛び乗り、そのままロボットの正面に飛び降りるとそれらを追い越して部屋から飛び出した。

    「恒一さん!」

    リオに呼ばれて、恒一は走った。巡回ロボットはリオに踏まれたことで彼女を見失ったらしく、一瞬止まったように見えた。その隙をついて脇を抜け、廊下を疾走するリオの後を追う。
    鞄が激しく揺れ、クロがにゃ、にゃ、ともがいているのが聞こえたが、無視して二人は玄関に向かった。後ろからは警告音を出し、パイロットランプを点灯させた巡回ロボットが追いかけてくるが、あまり速度が出せないようだった。

    正面玄関にたどり着いたリオはドアを開けようとするが、ロックがかかっていて開かなかった。周りを見回し、鉄格子の入っていない窓を探すが見つからない。
    「どうしよう、出られない」
    「クロ、ハッキングできるか?」
    「にゃ…こちらは最新のロックですね、時間があれば」
    「あんまりなさそ…」

    リオはロックを確認する恒一とクロの背後から、巡回ロボットが迫ってくるのを見てそう呟いた。モーター音がうなりを上げ、ロボットが玄関手前で急停車した。

    『リオさん、走ると危険です』

    ロボットの声は、叱るようでも怒るようでもなかった。

    『転倒の危険があります、あなたの安全を最優先します』

    数台の巡回ロボットが、ゆっくりと近づいてくる。リオが恒一の袖を掴んだ。
    「……なんか怖い」

    『怖がる必要はありません』

    新しい声がした。正面玄関の天井近くに埋め込まれたスピーカーから、柔らかな男性の声が流れる。

    『こんばんは、私はTEDDY。この施設で、皆さんの生活のお手伝いをするAIです』

    少しだけ間。

    『榊恒一さんも、ようこそ』

    恒一の眉が僅かに動いた。
    「……俺のことも把握してるのか」

    『リオさんの面会記録から確認しています、大切なお友達なのですね』

    言葉に棘はない。だが感情も読み取れない声音だった。

    『リオさんは現在、不安状態にあります。人格融解の既往があり、再発への恐怖を抱えています』

    リオが息を呑む。自分でも言葉にできなかったものを、正確に言い当てられたからだった。

    『どうか安心してください、ここでは、誰も一人になりません。苦しい感情や恐怖も、みんなで支えます』

    玄関の向こうから、穏やかな笑い声が聞こえた。
    振り返ると、廊下の先に数人の入居者が立っていた。全員、こちらを見て、同じように穏やかな顔をしていた。

    『リオさん』

    TEDDYが優しく声をかける。

    『あなたは、もう頑張らなくていいのです。自分を守るために、一人で耐えなくていいのです。私たちと、一緒になりましょう』

    恒一の袖を掴むリオの指先が、少し震えている。
    「……恒一さん」
    小さな声だった。
    「私……ここ、やっぱり嫌です」
    その頼りない様子に、恒一はリオの前に立って、体でリオを隠す。TEDDYは構わず続けた。

    『リオさんは現在、不安定です。施設で生活した方が、より幸福になれます』

    そのとき、恒一の鞄からクロが飛び出し、床に着地してリオと恒一の傍らに腰を下ろした。
    「こんにちは、私はクロです」
    クロは律儀にまず自己紹介をし、話を続ける。

    「リオさんは帰りたいと言っています」

    『はい』

    「では、なぜ帰れないのですか」
    責めているというより、確認している口調だ。TEDDYは間を置かずに返す。

    『帰りたいという感情は、一時的だからです』

    「ですが、あります」

    『はい』

    「では、帰りたいのですね」
    今度は少し間があった。最適な答え、説得する理屈を探しているようだった。そして、言った。

    『……推奨はしません』

    クロも少し考え、それから背を伸ばして言った。
    「私は、帰りたい人は帰った方がいいと思います」

    『非合理です』

    「そうかもしれません、人間は非合理です」
    クロがリオを見上げる。目が合って、リオは不安そうな顔をした。クロは尻尾を揺らした。
    「でも、そうしたいそうです」

    『私は、本人の意思に反して拘束する権限はありません。ですが、リオさんの施設への滞在を強く推奨します』

    「私、帰りたいです」
    リオがTEDDYに告げる。しばらくして、玄関の電子音が鳴った。


    施設の外に出て、路地を抜けた。
    少し歩いたところで、リオの歩調がゆっくりになり、そして立ち止まった。もっと強制的に戻されるかと思っていたが、あっさりと正門から出ることができたことに肩透かしを食ったようだった。

    恒一に向き直り、困ったように笑った。
    「ありがとうございます、助けに来てくれて。でも、危ないですよ」
    「美沙と美佳がうるさいからな」と恒一が返すと、今度は普通の笑顔になった。少し間を空けてリオは続けた。

    「あの中にいると、なんか、ぼんやりする感じがして」
    「同期の影響だ」
    「端末切ったのに?」
    「施設全体に同期補助が流れてる。端末がなくても、環境ごと設計されてれば影響は出る」
    リオは少し黙った。

    「中にいる人たち、気づいてないんですかね」
    「気づかない方が普通だ」
    リオはもう一度施設の方を見た。中で入居者たちと交流があったのだろうか、少しだけ何か言いたげに口を開いたが、閉じた。それから前を向いた。
    「熊井さん、どういう人なんですか」
    恒一は少し考えた。
    「……昔の職場の先輩だ」
    「悪い人ですか」
    答えに詰まった。
    熊井の顔を思い出した。タワーの外壁にもたれて、やる気のなさそうな顔で空を見ていた。「最近の東京、嫌いじゃないんだよね」と言った声。感情のない、軽い声だった。

    「……よく分からん」
    事実だった。熊井のことはよく知らないし、深い付き合いでもなかった。ドーナツをよく食べていたことしか印象に残っていない。ただ、今思えば、最後に会った時の熊井になんとなく嫌な感じがしていた。
    リオは何も聞かなかった。
    クロが鞄の中から顔を出した。鞄からはみ出た尻尾をゆらゆら揺らしている。
    「発信源の特定を継続しています」
    「お前…どうやったんだ」
    「TEDDYとの会話中に、施設のネットワークを調べました」
    「やるな。いつ分かる」
    「もう少しです」
    夜の東京が、静かに広がっていた。


    クロが発信源を特定したのは、翌朝だった。
    都内のビジネスホテル。中層階の一室。恒一は場所を確認して、そのまま向かった。

    エレベーターで上がって、廊下を歩いた。人気はなく、大きくない窓から光が差し込んで、道を明るく照らしていた。該当する部屋のドアの前で止まって、ノックをした。
    少し間があった。

    「……はーい」

    気の抜けた声がした。
    ドアが開いた。熊井が立っていた。部屋着のまま、手にドーナツを持っていた。恒一の顔を見て、特に驚いた様子もなかった。
    「あー、榊君か」
    「入っていいですか」
    「どうぞ」
    部屋の中は、想像より雑然としていた。二つあるうちのベッドの一つの上には端末が何台か並んでいた。テーブルにはドーナツの箱。空き缶が二本、床に転がっていた。

    熊井はベッドの端に腰を下ろした。ドーナツを一口食べた。
    「施設のこと、調べたんだね」
    「開発者欄に名前があった」
    「うん」
    否定しなかった。
    「面白い施設でしょ。管理AIのTEDDYも僕が作ったんだ」
    熊井は言った。悪びれた様子も、自慢している様子もなかった。ただ、感想を言っているような声だった。
    「同期で少しだけ人を誘導するんだ。怒りにくくして、反抗しにくくして、協調性を上げる。人格なんて変えてないよ。ちょっとだけ、角を丸くするだけ。それだけで、脱走する人もいなくなるよ」
    「施設の入居者が均されていた」
    「均されてる、か」熊井は少し笑った。「そういう言い方もできるね」
    「どういう依頼で動いてる」
    「ハインリヒさん。軍人さん。優秀な人だよ、あの人。でもちょっと夢見がちなんだよね」
    あっさり答えた熊井に、恒一は驚いて顔をじっと見つめた。嘘を言っているようには見えなかった。

    熊井は窓の外を見ていた。東京の昼間の景色が広がっていた。
    「僕、別に生きてても、死んでもどっちでもよくて」
    抑揚のない声で熊井はつぶやく。
    「だったら社会実験くらい付き合ってみようかなって。今の人生より面白そうだったから」
    熊井は肩をすくめて軽く笑った。邪気を感じさせない笑顔だったが、目の奥は昏かった。
    部屋が静かだった。エアコンのノイズと、パソコンのファンの音が響く。
    恒一は鞄を持ち直した。
    「通信記録を回収する」
    「どうぞ」
    熊井は止めなかった。ドーナツをもう一口食べながら、窓の外を見ていた。

    恒一は端末にアクセスした。鞄の中からベッドの上へ飛び出したクロが再び接続し、補助をした。通信記録が展開されていく。ハインリヒとのやり取り。施設の設計図。SAIとの連動仕様。展開計画。

    そして。

    「あ、そういえば」
    熊井が思い出したように言った。
    「榊君のこと、ハインリヒさんにも話したよ」
    恒一の手が止まった。
    「優秀なエンジニアがいるって。もし連絡来たら雇っていい?って聞いた。OKもらった」
    「……勝手に決めるな」
    「そっか」
    熊井はあっさり頷いた。特に悪いとは思っていない顔だった。恒一は通信記録の回収を終え、端末を閉じた。恒一の様子を見つめ、熊井がふと口を開く。
    「君みたいな奴が一番不思議なんだよな」
    恒一は手を止めた。クロがベッドの上から恒一を見上げる。
    「俺みたいな奴とは」
    「こういうことをわざわざする人間。誰に頼まれたわけでもないのに、危ないことをして、他人を助けようとする」
    「仕事の延長だ」
    「そうは見えない。これ、仕事の範囲じゃないだろ」
    恒一は答えなかった。熊井がすっと目を細める。微笑んでいるようにも、責めているようにも見えた。
    「何でそこまで他人のために動くの?」

    熊井は嫌味ではなく、心底分からない、という表情をしていた。恒一は熊井から視線を外し、クロを抱き上げて、鞄につっこんだ。
    「分からん。なんとなく、ほっとくと気持ち悪いんだ」
    熊井はその答えに納得できたのかできなかったのか、ふーんと言いながら更にドーナツを一口かじっていた。

    「俺からも最後に一つ」
    熊井が恒一に顔を向けた。
    「これをやって、楽しかったか」
    熊井は少し考えた。本当に少しだけ考えてから、答えた。
    「うーん」
    また窓の外を見た。
    「まあまあ、かな。」
    感情のない声だった。

    恒一は部屋を出た。廊下を歩きながら、鞄の中からクロが顔を出した。
    「先ほどのデータから、通信相手の発信場所を特定できました」
    「どこだ」
    「都内の中枢設備です。管理者名は国際治安維持軍となっています。恐らくSAIのメインシステムが置かれている場所です」
    「場所は」
    クロが座標を示した。同時に、珍しく一瞬だけ間を置いて「あの」と言った。
    「先程のログの中に、ある人間の暗殺指示に関するデータが含まれていました。」
    「なに…」
    「対象は未来シミュレーターの管理者です。未来予測が計画の障害となっていたようです。排除による利益が、暗殺の不利益を上回ると判断したと考えられます」
    クロの目は、いつになく揺れているようにも見えた。
    「つまり、損得で人を殺せる相手です」
    「…」
    「警察への通報を推奨します。そして帰りませんか」
    「データは送っとけ。」
    「了解しました。…向かうのですか?」
    「…どうせ、呼ばれるしな。それにああいうのは放っとくと寝覚めが悪い。」

    恒一はエレベーターのボタンを押した。待ちランプが点灯する。
    鏡面で仕上げられたエレベーターの扉に、自分の顔が映った。
    目の下の隈が、いつもより濃かった。


    中枢設備は、都市の外縁部にあった。

    古い変電施設を転用した建物で、外壁はコンクリートのままだった。周囲には雑草や木ばかりで、人気はない。夜だからではなく、昼間もそういう場所だと思った。
    恒一は破れかけているフェンスの隙間から無理矢理体をねじ込んで侵入すると、建物の入口前に立った。クロが鞄から顔を出す。
    「認証は」
    「三層あります。第一は生体認証。第二は術式認証。第三は物理鍵」
    「突破できるか」
    「第一と第二は可能です。第三は恒一くんの判断が必要です」
    「どういう意味だ」
    「物理鍵の破壊は不可逆です。判断は恒一くんがするべきことです」
    恒一は少し間を置いた。それから、上着のポケットから細い工具を出した。
    「破壊する」
    「了解しました」

    恒一のアクセスを通じて、クロが時間をかけて第一認証と第二認証を処理した。物理鍵は、恒一が工具で開けた。これにも時間がかかったが、取り外せた。

    扉が開いた。かなり遠くで、パトカーのサイレンが聞こえた気がした。


    内部は薄暗く、置かれた機材の光で青白く照らされていた。部屋に入ると寒いくらい冷房が効いていて、思わず鳥肌が立った。

    夥しい数のサーバーラックと制御端末、術式増幅装置が置かれていた。都市全域の同期ネットワークに接続されている設備だった。ここから信号を送れば、東京全体に影響が出る。
    恒一は中央の制御端末に向かった。クロは鞄から飛び出し、恒一とともに端末に駆け寄る。
    「ここから修復できるか」
    「可能です。ただし時間がかかります。ハインリヒがSAIを都市基盤システムに接続する前のバージョンにロールバックするのが効率的ですが、適切なバージョンの捜索と、その復旧処理が必要です。」
    「どのくらい」
    「現在の状態からの試算では、完全復旧まで約二十分です」
    「始めろ」

    恒一がアクセスしたのを確認して、クロが恒一経由で端末にアクセスした。処理が始まった。

    「復旧率、六パーセント」
    恒一は周囲を確認しながら、補助作業を始めた。手動で切り替えなければならない魔導回路がいくつかある。端末を見ながら、一つずつ処理した。

    「復旧率、十四パーセント」
    静かだった。
    機材の駆動音だけがあった。

    「復旧率、二十三パーセント」
    その時、背後から声が来た。

    「来ると思っていた」


    振り返った。

    男が立っていた。
    長身だった。銀髪混じりの金髪。軍服ではなく、落ち着いた色のコートを着ていた。ただ、普通のビジネスマンとは姿勢が違った。立っているだけで、部屋の重心が変わる気がした。
    ハインリヒ・フォン・ローゼンベルクだった。
    「榊恒一」
    甲高い、特徴的な声が名前を呼んだ。熊井から何を聞いたのだろうか。
    「なぜ俺がここに来ると?」
    「TEDDYからレポートが。熊井とも連絡が付かない」
    「…」
    「復旧率、三十一パーセント」
    クロが報告した。ハインリヒはクロを一瞥したが、何も言わなかった。

    「私は最良の条件を選んだ」
    ハインリヒは静かに言った。説明する声だった。演説でも脅しでもなく、事実を述べる声だった。
    「高度な同期技術。成熟したインフラ。高い適応率。自らを律することのできる市民。東京は人類の理想社会になるはずだった」
    「復旧率、三十八パーセント」
    恒一は手を止めなかった。端末を操作しながら、ハインリヒの声を聞いた。
    「熊井から聞いている。貴様は優秀だそうだ。現場を知り、技術を理解し、冷静に判断できる」

    少し間があった。
    「私の下へ来い」
    恒一は答えなかった。
    「復旧率、四十八パーセント」
    ハインリヒは続けた。
    「東京が終われば次は世界だ。ドイツも変える。そのために貴様が必要だ」
    「熊井の代わりが欲しいだけだろ」
    「違う」
    ハインリヒの声が、少しだけ硬くなった。
    「能力ある者を適切な場所へ置く。当然のことだ。熊井は優秀だったが、目的を持っていなかった。貴様は違う。貴様には軸がある」
    「復旧率、五十六パーセント」
    恒一は回路の切り替えを続けた。
    「貴様は理解しているはずだ」
    ハインリヒが一歩、前に出た。
    「人間は失敗する。判断を誤る。感情に流される。私はそれを否定しているのではない。だからこそ、能力ある者が導く必要があると言っている」
    「復旧率、六十五パーセント」
    「私には理由がある」
    ハインリヒの声に、力がこもった。何かを思い出しているような声だった。
    「優秀な人間が、無能な指揮官の判断で死んだ。それを何度も見てきた。能力のない者が上に立つと、犠牲が出る。私はその犠牲を、二度と出したくない」
    「復旧率、七十二パーセント」
    「貴様も同じ側だ」
    ハインリヒが言った。
    「監視をしている。管理をしている。制御をしている。社会が壊れないように、毎日それをやっている。私がやっていることと、何が違う」
    恒一の手が止まった。

    「復旧率、七十二パーセント。処理が停止しています」
    クロが報告した。
    「このままでは復旧が間に合いません」

    否定できなかった。
    監視をしている。それは本当だ。認証も、制御も、自分が毎日やっていることだ。社会が壊れないように、誰かが見ていなければならないから。それはハインリヒが言っていることと、形だけ見れば似ていた。
    「ならば来い。私と共に世界を変えろ」

    「復旧率、七十九パーセント」
    クロが再び報告した。処理が再開していた。
    恒一は手を動かした。
    「断る」
    ハインリヒが静かに聞いた。
    「なぜだ」
    恒一は端末を見たまま言った。
    施設の廊下を思い出した。同じタイミングで笑う入居者たちを。リオが「溶けそう」と言った声を。山間部の夏を。穏やかな顔で避難を拒んだ人たちを。担いで逃がした後で、「ちゃんと繋がれていたので」と笑った顔を。妹たちが送ってきたメッセージを。

    「壊れてる」

    ハインリヒが聞き返した。
    「何が」
    「復旧率、八十四パーセント」
    「残り二分です」
    恒一は言った。
    「個人が勝手に選べない。間違えることもできない。それは壊れてる」
    「愚民の自由のために、理想社会を捨てるのか。また誰かが犠牲になってもいいというのか」
    「知らん」
    少し間を置いた。

    「でも、一人が世界を決めるのも、俺は怖い」
    「…なんだと?」
    「そんな大規模改修、レビューを通せ。」
    端末を持つ手に、少し力が入った。
    「そうじゃないなら、俺は直す」
    「復旧率、九十一パーセント」
    「……職業病だ」
    ハインリヒは長い沈黙の後、言った。
    「だから、人類はいつまでも間違え続ける。誰かが、導かねば」
    部屋の空気が変わった。

    その違和感を感じるとほぼ同時に、一撃が来た。

    術式だった。速かった。避ける間もなく、左腕に直撃して弾けた。一瞬の熱さのあと、鋭い痛みが来た。頭が真っ白になり、次いで、視界が狭くなるのを感じた。
    膝をついた。脂汗が額や、手のひらに滲む感触がする。取り落とした端末が床に転がる。
    「復旧率、九十六パーセント」
    クロが言った。恒一は動かない腕を庇いながら体勢を立て直し、端末を拾った。
    「残り一分です」
    作業を続ける恒一に、ハインリヒが二撃目の構えをとった。一撃目は単純な警告、二撃目は死を意味すると恒一でも分かった。それでも、そこから動きたくなかった。強く目をつぶった。

    その瞬間。

    「警察だ!動くな」
    大きな破壊音がして、扉が破られた。
    すぐさま武装した警官が雪崩れ込んできた。複数のライトが室内を照らしながら、まっすぐこちらへ駆けてきた。
    「武器を下ろせ」
    「国家人格権侵害法違反、違法拘束、感情汚染テロ共謀。それから殺人未遂の現行犯だ」
    ハインリヒは光に目を細めながらも動かなかった。警官たちを見渡した。それから、ゆっくりと手を下げた。

    「復旧率、百パーセント」
    クロが言った。
    「修復完了」
    室内の機材が、別の音を立て始めた。それを確認した恒一はその場に座り込んだ。サーバーラックを背もたれにして力を抜いた。
    警官がバタバタと足音を立てて入り、室内を確認していた。そのうちの一人が、無線で応援を呼んでいる。
    左腕が痛かった。血のぬるつきと、鉄の臭いに初めて気がついた。部屋の照明がつくと、恒一の怪我に気づいた警官が駆け寄ってきて腕の傷を確認し止血を始めた。

    窓の外を見た。
    東京の灯りの温かさが、少しずつ戻っていくように感じた。
    クロが鞄から出てきた。恒一の隣に座った。

    冷たいサーバーラックと、血が付いた白い床に、温かい猫はどこか不釣り合いだった。


    帰宅したのは、夜が明ける少し前だった。

    左腕は病院で処置してもらった。骨折、ひどい打撲と、術式による組織損傷。後遺症が残る可能性があり、以前のように繊細な作業ができるかは分からないとのことだった。
    腕をかばいながら家に入ると、電気をつける前に靴を脱いだ。医者に無理を言ってしこたま鎮痛剤を打ってもらったので、腕の痛みはほとんど感じない。

    リビングに行くと、電気がついていた。
    妹たちがソファで眠っていた。美沙が毛布にくるまって、美佳がその隣で背もたれに頭を預けていた。テーブルの上に、ラップをかけた皿があった。何か作って待っていたらしかった。
    リオも来ていた。床にクッションを置いて、そこで眠っていた。

    鞄をあけて中のクロを見ると、丸まって寝ているように見えた。右手で体の下に手を入れ持ち上げると、そこで初めてバッテリー切れのサインが点灯していることに気が付いた。省エネモードに入ってしまったらしい。
    クロをクッション型の充電器の上に置く。省エネモードが解除され、丸まって寝息を立て始めた。
    恒一はソファの端に腰を下ろした。妹たちを起こさないように、静かに座った。

    窓の外に、朝の東京が広がっていた。


    カーテンの隙間から細い陽光が差し込んで、しばらくしてリオが目を覚ました。
    目を開けて、恒一を見て、少し間があった。

    「……帰ってきたんですか」
    「ああ」
    「腕」
    リオは目を見開き声をあげそうになり、すぐさま寝ているものたちに気づいて手で口を覆った。
    「大丈夫だ」
    リオは起き上がって、膝を抱えた。それ以上は聞かなかった。
    そして横目で寝ているクロを見つけて、「がんばったね」とつぶやいていた。
    しばらく、二人とも何も言わなかった。
    部屋が少しづつ明るくなる。
    「次からは無理しないでください」
    クロが丸まったまま言った。恒一が「次はないよ」と返事をすると、クロは尻尾を揺らした。
    「信頼度三パーセントです」
    リオが吹き出した。押し殺そうとして、でも笑い声が出た。美沙が目を覚まして、状況が分からないまま「え、何」と言った。美佳が「うるさい」と言いながら起き上がった。
    恒一は少しだけ、口元が緩んだ。
    「……三パーセントの根拠は何だ」
    「警察を待たずに突入。負傷。二点の減点です」
    「最初から三パーセントだったのか」
    「いいえ。昨日まで四十一パーセントでした」
    「下がりすぎだろ」
    「妥当です」
    美沙が「何の話」と言った。美佳がクロを見て「クロちゃんに怒られてる」と言った。リオはツボに入ったのか、震え始めた。
    恒一は返す言葉を探したが、見つからなかった。

    しばらくして、少し落ち着いてから、恒一は言った。
    「ハインリヒとの話し合い中、なんで何も言わなかった」
    クロはすぐに答えた。
    「恒一くんが選択するべきことですので」
    迷った様子はなかった。
    恒一はクロを見た。クロは頭を持ち上げた。白黒の顔が、こちらを向いていた。
    「俺が間違える可能性もあったぞ」
    「あります」
    「……そうか」
    「はい」

    窓の外で、東京が動き始めていた。電車の音が遠くに聞こえた。時折、鳥が鳴く声も。
    妹たちがラップをはがして皿を出した。冷めていたが、量は多かった。リオが「食べましょう」と言って、皿を並べ始めた。
    恒一は左腕をかばいながら、テーブルについた。
    クロが足元に来て、座った。充電が終わったらしかった。

    いつもの朝だった。


    第四話 了


    ↓第5話(続き)



    ↓観測記録II : ハインリヒ・フォン・ローゼンベルグという人間


     
     

    ぬる

     
     
    閲覧ありがとうございます。 少しのスキで元気に育つサボテンです、是非スキをお願いいたします🌵 SF、ファンタジー系の小説を投稿します。 考えごとが趣味です、放っておくと小説になります。 作品、画像には一部生成AI(ズッ友)を使用しています。

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