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【完結済】世界を説得する魔法:あるいは、人格融解を拒むノイズについて 第5話

    休日の午後、祖母がご飯を作っていた。

    だしの匂いが台所から流れてきて、廊下を通って、イチルの部屋まで届いた。
    作業が途切れたのは、それがきっかけだった。
    モニターから目を離して、伸びをして、そのまま1階へ下りた。エアコンの効いた部屋から廊下に出ると、蒸し暑さを感じた。裸足のまま階段をぺたぺたと降りる。
    柴犬のムギが、台所の入口で丸くなっていた。高齢で、動きは鈍い。イチルの足音を聞きつけて耳だけを動かし、また目を閉じた。

    「起きてたの」
    祖母が鍋をかき混ぜながら言った。
    「寝てなかった」
    「同じことでしょ」
    イチルはムギの隣へしゃがんで、背中を撫でた。ムギは何も言わなかった。ただ、尻尾が一度だけ動いた。
    「今日、母さんは」
    「昼過ぎには帰るって。お客さんが入ったとかで」
    「ふーん」
    「あんたはご飯、食べてた?」
    「食べてた」
    「嘘」
    「……朝は食べた」

    やっぱり、と祖母が短く笑った。笑い声が台所に響いて、ムギがもう一度だけ耳を動かした。
    イチルはムギの耳の後ろを指の腹で撫でた。
    老いた柴犬は、されるがままだった。


    昼飯はだし巻きと白米、豚汁だった。

    箸を持ったところで、玄関の音がした。
    「ただいまー!」
    ドアを開けながら叫ぶ声。
    くすんだピンクの派手な髪を一括りにして、徒歩3分の職場からエプロンをつけたまま帰ってきた母は、靴を脱ぎながら台所を覗いた。前は黄色と緑のグラデーションだったのでパイナップルっぽかったな、とふと思い出した。

    「あ、イチルいるじゃん。お昼食べてる?」
    「今から」
    「良かった。ちゃんと食べなよ」
    「食べてる」
    「顔色悪いよ」
    「普通」
    母がテーブルに荷物を置いて、隣の椅子を引いた。祖母が「あんたの分はこっち」と皿を出した。三人が並んで座る。
    「ねえ、昨日も夜中まで起きてた?」
    「少し」
    「少しって何時まで」
    「……四時くらい」
    「それ少しじゃない」
    「区切りがよかったから」
    母が祖母を見た。祖母は「ほら」という顔をした。イチルは箸を動かした。
    「もうちょっと寝てよ」
    「寝てる」
    「四時間は寝てるとは言わない」
    「言う」
    「言わないって」
    母が肩をすくめた。でも、叱っているというより、呆れていた。叱り方を知らないのか、しないようにしているのか、どちらなのかイチルにはよく分からない。

    しばらく食べた。会話がなくなった。窓の外で、公園の木が風に揺れていた。
    「ねえー、聞いてる?」
    「聞いてる」
    「お父さんと最初に会ったの、駅のホームだったんだけどさ」
    「……それ何回も聞いた」
    「何回でも言う」
    「なんで」
    「なんとなく」
    祖母が「また始まった」とつぶやいた。笑いながら言っていた。
    母は構わず続けた。
    「お父さんはさー見ず知らずの私に傘を貸してくれたんだよね、自分は濡れたまま行っちゃって。最初は誰このおじさんって思ったんだけどさ」
    「知ってる」
    「傘を返したくて毎日持っていってたら、数日後にまた同じ駅でばったり会って。で、なんか仕事の話してたら……」
    「長い」
    「大事なとこだから」
    「省略して」
    「省略したら意味ない」
    イチルはだし巻きを食べた。
    母の声が続いている。祖母が相槌を打っている。ムギが足元に来て、床に伏せた。

    「……で、結局三回傘借りることになって。三回目に告白されたんだけど」
    「傘三本あったの」
    「そう」
    「用意してたんじゃないの」
    「かもしれない。でも当時は気づかなかった。ホント素敵な人なのよね」
    母が笑った。
    祖母も笑った。
    イチルは白米を一口食べながらチラッとテーブルに置かれた父の写真を見た。髪の毛はボサボサで分厚い眼鏡を掛けている彼は、お世辞にもラブロマンスには出演しそうになかった。どちらかというと、SF映画に出てくる、味方の科学者役だ。

    「……ロマンチックだね」
    「でしょ!めっちゃ頭が良くてなんでも知っててさ」
    「のろけてるよ」
    「ホントのことだもーん」
    母が子供のような口調で言って、残りを食べ始めた。母がこうして父との惚気話をするのは、日常茶飯事だった。
    つけっぱなしのテレビの音がリビングから聞こえてくる。祖母が立ち上がって入れ始めたお茶の湯気を、なんとなく見つめた。

    ムギの背中が、ゆっくりと上下していた。


    それは最初、気のせいだと思った。

    数日後の朝、祖母が縁側でお茶を飲んでいた。
    イチルが目をこすりながら起きてきて、水を飲んで、何気なく外を見た。まだ暑さを強く感じない時間で、時々ひんやりした風が吹いて心地よい。
    「最近静かだねぇ」
    祖母が言った。
    お茶を飲んだまま、庭の方を見ていた。
    「……うん」
    イチルも祖母の視線を追って、外を見た。
    梅の木がある。植木鉢がいくつかある。塀の向こうに電線が走っている。いつも電線に、数羽は止まっていたのに、今日は一羽もいなかった。
    「鳥が来なくなった気がして」
    「そう」
    「気のせいかねぇ」
    「……分からない」
    祖母はお茶をひと口飲んで、縁側から立ち上がった。
    「じゃあご飯作るね」
    「うん」
    会話はそこで終わった。イチルはしばらく電線を見ていた。


    翌日も、鳥はいなかった。

    夕方、外を歩いた。
    人気のない、小さな公園のベンチの端に、スズメが一羽止まっているのを見た。飛んでいくかと思ったが、飛ばなかった。
    近づいても、動かなかった。目は開いている。羽もある。どこにも怪我はない。一瞬死んでいるのかと思ったが、目の光はスズメが生きていることを表していた。
    ただ、どこも見ていないようにみえた。

    「……」
    イチルはしゃがんだ。
    スズメは動かなかった。
    手を近づけた。
    逃げなかった。
    しばらくそうしていたが、スズメはどこかを見たまま、何もしなかった。
    イチルは立ち上がった。公園を出て、そのまま帰宅した。

    夜、部屋でモニターを開いた。作業の続きを始めようとして、止まった。昼間のスズメの黒い目を思い出した。
    締め切った窓の外に視線を移す。
    セミが鳴いていなかった。


    最初に話題になったのは、SNSだった。
    「鳥が落ちてきた」
    「公園のハトが全部消えた」
    「うちの猫がぼーっとしてる、病院行ったけど異常なしって言われた」
    「犬が散歩を嫌がるようになった。いつもと全然違う」

    バラバラに投稿されていたそれらが、数日のうちに束になった。タグができて、まとめができて、ニュースサイトが取り上げた。
    見出しは『都市部で動物の異常行動相次ぐ、原因不明』だった。


    イチルはその記事を、朝食の途中に見た。
    白米の茶碗を持ったまま、スマホをスクロールすると、映像がいくつか埋め込まれていた。サムネイルを静止画で見る限り、それは異常に見えなかった。イチルは再生ボタンを押す。
    公園の地面に止まったまま動かないハト。
    ベランダの柵で目を閉じているスズメ。
    道路の端に整然と並んだムクドリ。
    カメラが動いて、撮影者が近づいても、それらの動物は全く動いていなかった。
    同じ方向を向いて、そのまま静止していた。
    「……」
    祖母に食事中のスマホを窘められ、イチルはスマホを置いた。

    白米が冷めていた。


    「ねぇ、ムギ」
    昼過ぎ、リビングへ下りると、ムギが座卓の前の、座布団の上で伏せていた。
    いつもと同じ場所だった。
    しかし呼んでも、耳が動かなかった。
    「ムギ」
    もう一度呼んだ。
    今度は、わずかに耳が揺れた。
    でも顔は上げなかった。目は開いている。ただ、焦点が合っていないように見えた。何かを見ているのか、何も見ていないのか、判断がつかなかった。

    イチルはムギの隣へしゃがんで、背中に触れた。
    暖かかった。呼吸もある。体は動いている。
    ただ、いつもと何かが違った。十年以上一緒に暮らしてきたムギなのに、今は違う犬のようだった。その異常はうまく言葉にできなかった。
    温度はある。でも、何かが薄かった。
    「どうしたの」
    返事はなかった。いつもは話しかけるとこちらを向いて、耳をぴくぴく動かして、イチルの一言一句を聞いてくれる。そんなムギが、今はまた耳をわずかに揺らすのみだった。祖母が台所から出てきて、ムギを見た。
    「さっきからずっとそうなのよ。ご飯もあんまり食べなくて」
    「……病院は」
    「午前中に行ったんだけど、体は問題ないって。老犬だから元気がないだけじゃないかって」
    「そう」
    「なんか、おかしいよねぇ」
    祖母はしゃがむと、ムギの頭を撫でた。
    それでもムギは動かなかった。
    窓の外の静けさで、自分の呼吸音がいつもより響く気がした。

    セミは今日も鳴いていなかった。


    夜、またニュースを見た。
    都内の動物病院への問い合わせが急増している。犬が、猫が、ペットがぼんやりしている、という相談が複数の病院に入っている。
    原因は不明。どの動物も、身体的な異常は見つかっていない。専門家のコメントが載っていた。
    『気候変動による影響の可能性もありますが、現時点では何とも言えません』
    イチルはそのコメントを読んだ。別の専門家の見解も探した。それから、画面を閉じた。

    開発用のモニターを開いて、別の画面を立ち上げた。論文のデータベース。イチルが過去に開発した、論文の高速検索ソフトを接続した。
    そしてキーワードを打ち込んでいく。

    動物行動。
    認知。
    同期。
    感情。
    異常。

    検索結果が出た。イチルはそれを読み始めた。初めは概要を。そして、関連が強そうなものは詳細に。
    ディスプレイの青白い光が、イチルを照らしていた。外は静かだった。


    動物に続いて、AIペット関連のフォーラムに投稿が集まり始めた。
    「急に応答しなくなった」
    「バッテリーは満タンなのに動かない」
    「エラーログが出ない。ただ止まってる」

    機種はバラバラ、メーカーも違う。でも症状は似ていた。それは一見すると、動物たちと同じように「停止している」状態だった。


    翌朝、リオからメッセージが来た。EmoSyncの一件以来、時々イチルはリオと取り留めのないやり取りをするようになっていた。いつも最初に送ってくるのはリオだった。

    『恒一さんのAIペットが止まっちゃったの。イチル君直せない?』
    イチルはしばらくその文章を見た。AIペットが次々に停止している話は、ニュースサイトやSNSでも話題になっていて、イチルの検索網にも引っかかっていた。
    イチルはメッセージを打ち込んで送る。
    『その件調べてる。僕の犬も調子がおかしい』
    イチルの知らないところで何かが動いている、そんな予感がした。


    部屋に積み上がった論文を一から読み直した。
    認知同期と動物行動の関係。
    情報層への過負荷と生体反応。
    感情共鳴ネットワークの異常伝播モデル。
    それに、AIペットの行動アルゴリズムも。
    どれも断片だった。
    繋がっているような気がして、色んな方向性で関連性を考えた。しかしどの推測も、推測の域を出るほどの根拠をつきとめられなかった。

    次に海外のフォーラムを開いた。英語、ドイツ語、韓国語。翻訳を通しながら読んだ。
    世界の幅広い地域で、同じことが起きていた。

    ロンドン。
    ベルリン。
    ソウル。
    上海。

    動物がぼんやりしている。AIが止まっている。虫の声が消えた、という投稿があった。人にも波及するのではないかという不安の声を投稿している人たちもいた。その不安は、当然だと思った。
    原因については、やはり誰も分かっていなかった。
    電磁波説。気候変動説。新種のウイルス説。
    どれも証拠がなかった。


    見つけた情報を、イチルは別のアプリにかけた。一つ一つの事象はつながっていないように見えても、構造化すれば何かが見えるかもしれない。
    そうして自作のアプリがはじき足した、情報のネットワーク構造を見たとき、イチルはその既視感に気が付いた。
    「……EmoSyncだ」
    声に出したのは、誰もいない部屋だった。
    モニターに映るグラフを見ながら、突然その閃きがあった。
    それはほとんど感覚だった。EmoSyncの開発初期段階で作った試作のアプリを使ったときの分析結果のグラフに、今のグラフが少し似ていると思った。

    ただ、証明はできない。当時のグラフも、もうない。でも、この情報のつながり方が似ていた。
    EmoSyncが感情を均すとき、境界から少しずつ溶けていく。人間の場合は認知が平滑化される。では動物は。AIは。認知の構造が人間と違うものは、どうなるのか。
    均されるのではなく、止まるのではないか。
    「……でも」
    証拠がない。あくまでもこれは仮説だ。
    EmoSyncはイチルの手元を離れた今も、普通に動いている。
    世界中に展開されていて、何億人もが使っている。
    それにEmoSyncがこんなに広い生態系に影響範囲を及ぼすことは技術的には不可能だと、設計したイチルはよくわかっていた。
    そして何も分からないまま、朝になった。


    三日間、調査し通しでほとんど寝れなかった。寝不足で頭痛がした。締め切られて、カーテンも閉められた部屋は一日中青白い光だけが入っていた。ヘッドホンをして、メガネをして、イチルは画面に没頭した。朝と夜の感覚がなくなり、最後の食事をいつしたのか、分からなくなっていた。

    祖母が一度だけ部屋に来て、食事を置いていった。
    「食べなさい」
    「後で」
    「今食べなさい」
    「……分かった」
    箸をつけた。それだけで祖母は出ていった。食べやすいようにと、鮭茶漬け。空っぽの胃に温かいそれが入ると、体はやっと空腹だったことを思い出したようだった。
    ムギのことが気になった。食器を片付けるためにリビングにおりると、ムギがいた。ぼんやりが強くなっている気がした。
    目は開いている。息もしている。でも、呼んでも耳が動かなくなっていた。


    限界を感じたのは、四日目の夕方だった。イチルは両手で顔を覆った。頭痛がますますひどくなり、体が休息を訴えていた。

    データはある。傾向もある。
    それでも、部屋の中の調査だけでは確信を得るには不十分だった。この現象のほとんどは外で起きていて、それを観測した人がネットに書き込んで、それをやっとイチルが見ている。このラグがある。
    そしてネットにある情報は調べつくしたといっていいほど調べまわって、結局解決策を見つけることができなかった。

    しかし、ここから先に進むには、自分だけでは足りなかった。イチルは中学生で、一人で行ける範囲も限られていて、見られない情報やいけない場所があるという事実があった。しかし同時に、母や祖母を説得することは難しいだろうと感じていた。彼女らはイチルがEmoSyncというアプリを作っていることすら、よくわかっていない。それに二人には、ムギについていてほしいとも思っていた。

    スマホを手に取った。イチルの交友関係は極端に狭い。EmoSyncとイチルの関係をよく理解している人間を考えると、連絡できるのは一人だけだった。
    『話したいことがある。会えない?』
    イチルはリオに、簡潔にメッセージを送った。そういえば、イチルからメッセージを送るのは久しぶりだった。
    しばらくして、リオから返信が来た。
    『いつでも!』
    イチルは画面を見て、安堵した。返信する前にさらにメッセージが届く。
    『恒一さんも連れていこう、明日の夕方なら大丈夫だって』
    大人が同行してくれると調査のハードルはぐっと下がる。ありがとう、と返信して、イチルはスマホを置いた。

    カーテンを開けて窓の外を見ると、電線は空だった。
    夕日が建物の隙間に沈んでいくのを、しばらくぼーっと見ていた。
    それが見えなくなったとき、急激な眠気を感じて、イチルは布団に倒れこんだ。

    そしてほとんど気絶するように、まどろみの中へと落ちていった。


    駅前は人が多かった。
    夕方の帰宅ラッシュが始まる少し前で、改札から人が吐き出されていた。ベビーカー。スーツの人間。学生。買い物袋。

    イチルは駅の柱に背を預けて、人の流れを見ていた。いつもならメガネを掛けているが、今日は掛けていなかった。
    掛けなくても、人の多い場所はきつかった。認知のノイズが皮膚から入ってくる感じがした。誰かの焦りが。誰かの疲労が。誰かのわずかな苛立ちが。
    ひとつひとつは小さくても、この人数になると量が違う。
    腹の底がじわじわと重くなっていく。数年ぶりの人混みは、同期を切っている状態であっても、イチルの認知をかき乱した。

    「イチルくん」
    声がした。
    振り向くと、リオが手を振りながら近づいてきた。金髪のツインテールが人混みの中でよく目立った。最後に会った時と違って、淡いピンク色のメッシュが入っている。

    「久しぶり」
    「……うん」
    「元気だった?」
    「まあ」
    リオが首を傾けた。何かを言おうとして、止めた。それでも目は少し心配そうだった。
    「榊さんは?」
    「もうすぐ来るって」
    リオがスマホを確認しながら言った。

    そのとき、胃の辺りに熱が上がってきた。
    めまいだった。
    倒れないように、駅の柱を掴んだ。
    「イチルくん?」
    リオの声が少し遠くなった。次いで、地面が少し傾いだ気がした。どちらが空でどちらか地面か、一瞬分からなくなった。
    人の流れがうるさかった。音ではなく、ノイズだった。感情のノイズが、一気に量を増した気がした。夕方の、疲れた人間たちの、焦りと安堵が混ざった、あの密度が。
    「……ちょっと」
    吐きそうだった。
    膝に手をついた。
    「ちょっと待って、ここ座れる?」
    リオが周囲を見回した。近くに低い段差があった。リオがイチルの腕を引いて、そこへ連れていった。
    腰掛けると、冷たいコンクリートが、少しだけイチルを落ち着かせた。深く息を吐いて、吸う。湿気たビルの狭間の熱気が肺に入ってくる感覚を、妙に強く感じた。
    「大丈夫?」
    「……少し休めば」
    「水買ってくる」
    「いい」
    「待ってて」
    リオは走って行ってしまった。少しだけお節介なところと派手色の髪は、母に似ているなとぼんやり思った。

    イチルはうなだれたまま目を閉じた。
    人の流れる音が続いている。足音。声。鞄の音。
    それでも、人数が視界から消えた分だけ、少しましだった。


    しばらくして、足音がした。
    二人分だった。徐々に大きくなって、音がやんだ。

    目を開けると、リオと恒一が立っていた。
    つい立ち上がったもののふらついたイチルを、恒一が咄嗟に支えた。肉の感触ではなく、金属の硬さを感じ、一瞬違和感を感じたが、目眩が違和感をかき消した。
    リオが水のペットボトルを差し出した。受け取って、飲まずに頬に当てた。ひんやりした感触と、表面の水滴が心地よかった。

    「ノイズ酔いか」
    恒一が言った。
    「……まあ」
    「人が多い場所を選んだのは」
    「近かったから」
    「次は空いてる場所にしろ」
    「分かった」
    もう一度段差に腰掛けて、ペットボトルを開けて水を飲んだ。
    冷たい液体が喉を通っていく。少しずつ、胃の重さが引いてきた。
    リオはハンカチを取り出して、イチルの額の汗を拭いていた。


    「それで」
    恒一が段差の端に立ったまま言った。
    「話というのは」
    イチルは水のボトルを両手で持った。少しだけぬるくなったそれを傾けながら話す。
    「榊さんのAIペットのこと」
    「ああ」
    「止まった理由、分かってないよね」
    「分からない。メーカーも原因不明と言っている」
    「世界中で同じことが起きてる」
    「知ってる」
    「動物も」
    「ニュースで見た」
    リオが二人を交互に見ていた。
    「……EmoSyncだと思う」
    恒一が少し黙った。相変わらずクマの酷い目元が、怪訝そうにゆがんだ。
    「根拠は」
    「ない。でも似てる。感覚として」
    「感覚か」
    「証明できない。だから話したかった。僕の犬もおかしくて」
    また黙った。
    今度は少し長かった。口元に手を当て、何かを考えているようだった。
    駅の喧噪が続いている。人が流れていく。

    「……あながち外れてはいないかもしれない」
    恒一が言った。
    「異常ログの動きが、EmoSyncで人格融解が起きていた時と少し似てる。ただ相関だけでは断言できない」
    イチルは頷いた。
    リオが言った。
    「つまり、もしそうだとして」
    「うん」
    「どうすればいいの」
    イチルはしばらく考えた。
    「もっと情報がいる。あと、中を見たい」
    「中?」
    「EmoSyncの今の権利者のところ」
    リオが少し考えた顔をした。


    立ち上がってその場を離れようとした時、リオがヘッドホンを取り出した。
    リュックの中から出てきたそれは、古い型のものだった。
    「はい」
    差し出した。
    「……なんで」
    「なんか、あった方がいいかなって思って。持ってきた」
    イチルはリオを見た。リオは特に意味があるという顔ではなかった。ただそう思ったから持ってきた、という顔だった。

    イチルは少しためらって、それを受け取った。耳に当てたが、音は出ていないようだった。ただ、外の音が少し遠くなった。
    人の流れが、少しだけ遠ざかった。駅の騒音が薄くなった。薄い膜を隔てて、周りと境界ができていた。
    胃の重さが、もう少し引いた。
    「……ありがとう」
    小さく言った。
    リオが「うん」と言った。
    そして嬉しそうに一度笑った。


    三人は喫茶店に入っていた。駅から少し歩いた、古い商店街の中の店だった。客が少なく、窓際の席が空いていた。恒一がそこを選んだ。

    イチルはヘッドホンを首にかけたまま、背負っていたリュックからノートパソコンを取り出して開いていた。
    「感覚が、EmoSyncに似てる」
    画面を見ながら言った。そして、影響が出ている地域の地図を開いて二人に見せる。
    「でも、もっと拡大してる」
    「どういう意味だ」
    恒一がコーヒーを持ったまま言った。
    「EmoSyncは人間の認知に干渉する。感情を均す。それが深度を超えると境界が溶ける。僕はそれを、人間相手に起こしてしまった」
    「ああ」
    「でも今回は、人間以外にも起きてる。動物。AI。もともとEmoSyncの対象じゃないはずのものに」
    「影響範囲が広がってる」
    「うん。だから元の設計じゃない。誰かが性能を向上させてる」
    恒一が少し間を置いた。

    「EmoSyncは買収されたんだったな」
    「うん」
    「今の権利者はUpgraderだ」
    「……うん」
    テーブルの上で、恒一の指が一度だけ動いた。
    「悪用されたかも」
    イチルが言った。声が少し小さくなった。
    「こんなに影響範囲を広くできるなんて、思ってなかった」
    窓の外を路面電車が通り過ぎた。
    リオはコップを両手で包んでいた。
    「罪悪感を感じてる暇はないぞ」
    恒一が言った。責めている声ではなかった。
    「分かってる」
    「契約書はあるか」
    「ある」
    「連絡先を調べよう。今EmoSyncがどうなっているのかを直接確認したい」

    イチルはノートパソコンを操作した。
    データフォルダを開いた。
    売却時の契約書。電子署名。添付書類。
    スクロールして、一行で止まった。
    「……Upgrader Advanced Research」
    恒一が覗き込んだ。
    「研究所の名前か」
    「うん。数百人規模の研究所らしい。僕は誰とも会ったことがないけど」
    「まだ決まったわけじゃない」
    恒一が言った。
    「でも、アポを取って行ってみたい」
    イチルが告げると、リオが頷いた。
    「付き合うよ」
    「……また倒れないか心配だからな」
    「確かに」
    短く言って笑った。
    イチルは少し黙ってから、「ありがと」とだけ言った。


    リオがふと顔を上げた。
    「あ」
    二人がリオを見た。
    「そういえば従兄弟が、Upgraderに勤めてたことある」
    「え、そうなの」
    「うん。今は辞めちゃったけど」
    「……何か知ってるかもしれないな」
    恒一が言った。
    「連絡できるか」
    「してみる」
    リオはスマホを取り出し、連絡先を探して、発信した。
    呼び出し音が三回鳴って、繋がった。


    「もしもし、リオ? 久しぶり」
    鉄平の声は穏やかだった。少し驚いた感じがあった。
    「鉄平兄ちゃん久しぶり。今大丈夫?」
    「うん、ちょっと待って…今料理してて。よし、大丈夫。」
    「えっと、ちょっと聞きたいことがあって」
    「どうぞ」
    「Upgraderの研究所って、知ってる?」

    少しの間があった。
    「……研究所か。そんなに詳しくはないけど。なんで?」
    「色々あって。所長の人のこと、何か知ってる?」
    「所長……そうだな、天才って聞いてた。社内でも有名で。社内報にインタビューが載ってたかも」
    「それ、もらえる?」
    「手元にあるかどうか……ちょっと待って」
    しばらく間があった。
    ガタゴトと何かを移動させる音の後、引き出しを開ける音がした。

    「あった。送っていい?」
    「送って送って」
    「分かった。データで送るよ。…なんでUpgrader?」
    「うーん、なんか調べてることがあって」
    「ふーん?いいけど、無理するなよ」
    「うん。ありがとう兄ちゃん」
    電話を切った。イチルはそれを見ながら、オレンジジュースに口をつけた。
    そしてオレンジジュースが半分になったくらいで、データが届いた。


    社内報のデータを受け取ったリオはインタビュー記事のページを開いた。
    写真がある。プラチナブロンドの、ゆるくウェーブした髪。青みがかった灰色の瞳。整った顔立ち。
    三人でスマホを覗き込んだ。
    イチルが経歴を読んだ。
    「……五歳で大学レベルの数学を学ぶ。十三歳でイギリスの最難関大学に入って十五歳で論文発表。認知魔法学会に衝撃を与えた、って書いてある」
    「……」
    「博士号取得が十八歳。史上最年少記録。二十二歳でUpgraderに入社して、今は二十五歳」」
    リオが「ヤバ……」と声を漏らした。
    恒一が経歴から視線を上げた。
    「アリア・スペンサー・神代。あだ名は『認知魔法の魔女』」

    「この人なら」
    イチルが言った。
    「EmoSyncを改造して影響範囲を広げることは、できると思う」
    「確認してからだ」
    恒一が言った。
    「まず会いに行く。それからだ」
    イチルはもう一度、写真を見た。
    「……どんな人なんだろう」
    誰に言うでもなかった。リオが写真を見ながら言った。
    「なんか、とってもすごそう」
    「すごいのは確かだ」
    恒一が立ち上がった。
    「研究所へのアポを取る。明後日でいいか。名前借りるぞ、イチル」
    二人が頷いた。
    窓の外で、また路面電車が通り過ぎた。その架線にも、鳥の姿はなかった。

    夕方の光が、静かに傾いていた。


    昏睡者が出始めたのは、その翌日だった。
    ニュースの見出しは最初、『原因不明の意識障害、都内で複数報告』だった。
    一日で数が増えた。
    翌朝には都内だけで二十人を超えた。
    年齢も性別もバラバラだった。


    都心から車で1時間。
    ドアを開けて車外へ出ると、景色が変わった。

    ビルがなかった。
    道の両側に木が並んでいた。空が広かった。風が少し違う匂いをしていた。都心よりも、二度ほど涼しい気がした。
    「遠い」
    車のドアを閉めながらリオが言った。
    「研究には適した立地だ」
    運転手を務めた恒一が言った。車から降り、一度伸びをした。
    イチルは何も言わなかった。


    研究所は白い建物だった。
    背は低く、横に広い。ガラス張りの部分が多く、周囲の木々が窓に映り込んでいた。看板は小さかった。
    『Upgrader Advanced Research Institute』

    受付の女性に名前を告げると、すぐに案内された。案内ロボットの後ろをついて、三人は列になって歩いた。
    白い廊下は静かで、足音がよく響いた。時々ドアがあって、横目で小窓を除くと研究員たちが熱心に仕事に励んでいた。

    廊下の途中には複数のディスプレイが埋め込まれていて、都内の生物の生息分布が映されていた。
    別の研究員が何人か通り過ぎた。全員が同じIDカードをつけていて、全員が会釈して通り過ぎた。

    長い廊下を何度か曲がって、所長室に通された。案内ロボットは部屋には入らず、三人にそこで待つように伝えるとドアを閉めて去っていった。

    所長室は広かった。天井が高く、一面の壁はガラスでできていて、外の緑樹が良く見えた。白いソファと、低いテーブル。テーブルとは別に、パソコンやファイルが置かれたデスクがあった。棚には沢山の、魔法や人間に関する本がぎっしりと並んでいた。いくつかの本にイチルは見覚えがあった。本と本の間に、トロフィーや盾が飾られていた。

    デスクの上には、小さな写真立てが置いてあった。
    リオが何気なく見た。
    家族写真のようだった。
    ただ、角度が悪くて詳細は見えなかった。


    ヒールの足音が近づいてきて、ドアが開いた。
    「お待たせしました」
    穏やかな声の主に、三人が振り向いた。写真で見た顔だった。しかし写真より、少し違う印象だった。写真では冷たい感じがしたが、実際に立っているアリアは、冷たいというより静かだった。プラチナブロンドの髪が肩に落ちていた。
    長い睫毛で縁取られた瞳が、こちらを見る。視線が少し特徴的だった。
    三人を見るとき、どこか観察しているような目だった。感情を読んでいるのではなく、構造を確認しているような。

    「所長を務めておりますアリア・スペンサー・神代です。よくいらっしゃいました」
    恒一が会釈した。
    「榊です。こちらはイチルくんと、七瀬さん」
    「柏木イチルです。EmoSyncの開発者です」
    「七瀬リオです、よろしくお願いします」
    アリアは三人を順番に見た。
    一秒ずつ、丁寧に。
    「お待ちしておりました。EmoSyncの技術は我が社にとっても興味深いソフトウェアです。開発者の柏木イチルさんにお会いできるのを、私も楽しみにしておりました。」
    それから三人へ、ソファへ座るよう促した。


    「この度の異変についてご連絡をいただきました」
    アリアが言った。
    「はい。EmoSyncとの関連を疑っています」
    恒一が率直に答えた。
    「興味深い仮説です」
    アリアは気分を害した様子もなく、少し考えるような間を置いた。

    「ただ、私の方では原因を把握できていません」
    「アリアさん自身は、どう見ていますか」
    「人間の認知現象には、まだ未解明な部分が多いのです。私も正確なことは何も」
    アリアの声からは、何の感情も読み取れなかった。窓の外を、風が木を揺らした。

    「…例えば、私の仮説では世界は複数の層から構成されています。物理層、情報層、認知層。このうち情報層には、すべての知識が蓄積されている可能性があります」
    「情報層」
    「観測された事象の全てが記録される層です。術式が世界を説得するとき、その記録に干渉している可能性があります。」
    アリアは一息に告げて、ふっと笑った。
    「ですがこうした説も、正しいかどうかは分かっていません。一般的にも知られていません。今回の現象の原因も、検証するまでは何とも」
    恒一が少し考えた顔をした。リオは、難しい顔でアリアの話を聞いていた。イチルはアリアを見ていた。

    「EmoSyncについては」
    恒一が続けた。
    「事業化を見据えたプロジェクトが動いていると聞きましたが」
    「はい。ただ、現在は研究部長が責任者として担当しています。私は理論面の監修に留まっていて、詳細は把握していません」
    「担当者に会えますか」
    「もちろんです。ここに呼んでご案内させましょう」
    アリアがどこかに電話をかけ、切った。先ほどから難しい顔が止まらないリオに視線を向ける。
    「七瀬さんは、いかがしますか?もし興味がなければ、ここでお茶をして待っていただいても良いですよ」
    リオはイチルと視線が合うと、一瞬考えた顔をして「ここで待ちます」と言った。
    アリアが頷いて、恒一とイチルを廊下へ案内した。ドアを開けると、案内ロボットが待っていた。


    応接室に、リオとアリアが残った。

    一度、研究員らしき男が顔を出した。アリアに二言三言確認して、何かを少し考えながらドアを閉めて去っていった。
    「あの、お忙しかったですか?」
    「いえ」
    「…」
    リオがアリアの顔色を窺っていると、ドアが再び開いた。
    「失礼しました。紅茶を用意します」
    小さいノック二回のあとに、小さな人影がティーカートを押してきた。
    十歳前後で長い金髪、灰色の瞳の少女だった。ピンク色の可愛らしいワンピースを着ていて、白いフリルのエプロンをしていた。その姿は、研究室の雰囲気に全く合っていなかった。

    リオは反射的に「あ、お手伝いさんかな」と思ったが、それにしてはかなり幼かった。
    少女は慣れた手つきでカップを並べ、ポットを傾けた。紅茶の香りが部屋中に広がった。
    それから少女は顔を上げた。姿勢を正して、綺麗なお辞儀をした。
    「こんにちは、七瀬リオさん。本日はお越しいただきありがとうございます」
    はっきりした声だった。リオは思わずお辞儀をして返した。
    「あ、ありがとう。お名前は?」
    「イーライです」
    「イーライちゃん。かわいい名前だね」
    少女がにこりと笑った。少女の雰囲気にぴったりの、花が開いたような笑顔だった。
    「ありがとうございます。来てくださって嬉しいです」
    「こちらこそ。ここで働いてるの?」
    アリアが口を開いた。
    「彼女はELI。Empathic Learning Intelligenceの略です」
    リオが少し首を傾けた。綺麗に発音された英単語を理解できなかった。
    「……AI、なんですよ。アンドロイドです。私が研究している人工知能で、名前はイーライです」
    リオは目を見開いて固まった。
    もう一度、イーライを見た。
    柔らかそうで薔薇色の肌の質感。
    リオを見つめる目の動き。
    首の傾け方、細い手足が滑らかに動く様子。とても機械には見えなかった。

    「えっ」
    「驚きましたか」
    「え、AIなの? でも全然……すご、もう人じゃん」
    イーライが「ありがとうございます」とはにかんだ。可愛らしい少女そのものだった。
    その微笑みを見て、リオはまた少し驚いた。
    自然だった。言われなければ、リオは一生気づかないかも、と思った。
    「それでは失礼いたします」
    イーライは再び綺麗にお辞儀して、カートを押して部屋を出た。
    ドアが静かに閉まった。


    「まだ完璧ではありません」
    アリアが言った。
    リオが振り向くと、アリアはイーライが出ていったドアを見ていた。
    「彼女は『嬉しい』と返答します。ですが、それが本当に嬉しいのか、私には分かりません」
    「……でも、すごく自然でしたよ」
    「そうですね」
    アリアが窓の外を見た。
    「ただ、まだ最後の一片が足りないのです。人間らしさの、何かが」
    「何が足りないんですか」
    「それが分かれば、もう完成しています」
    アリアが少しだけ、口の端を動かした。
    笑ったのか、笑わなかったのか、判断がつかなかった。
    先ほどのイーライよりも、アリアの表情の方がどこかぎこちなかった。
    「でもいつか、あの子が私を理解してくれると思っています」
    リオはその言葉を聞いて、ただ頷くことしかできなかった。


    「この紅茶、めっちゃ美味しいです」
    一口飲んで、思わず言った。これまで味わったことの無い、複雑な茶葉の香りがした。
    「ありがとうございます」
    「イーライちゃんが淹れたんですよね。クッキーも合いますね」
    「紅茶が好きなので、こだわっています」
    「めっちゃイギリス人って感じ」
    アリアが少し首を傾けた。リオは次のクッキーに手を伸ばしている。
    「そう、でしょうか」
    「そうですよ。あ、失礼なこと言いましたか」
    「いいえ。ただ、そういう感想をもらったのが初めてだったので」
    「え、そうなんですか」
    「研究の話しかしない環境にいることが多いので」
    「そっか」
    リオは紅茶をもう一口飲んだ。

    「あの」
    「はい」
    「クロちゃん…って、AI猫なんですけど」
    「はい」
    「恒一さんの。倒れちゃって、みんなすごく心配してて。だから手がかりを探してるんです」
    アリアはしばらく考えた。
    「故障したら、直すまでは壊れています」
    「……そうですけど」
    「心配しても直りません」
    リオは少し笑った。
    「でも心配しちゃいますよ」
    「……そういうものなのですね」
    アリアが静かに言った。
    呆れからくる言葉ではなく、純粋に知らないことを学んだ、という声音だった。
    リオはアリアを見た。天才、という言葉から、リオが事前に想像していた人間とは、少しかけ離れているように感じた。難しい話をするわけでも、馬鹿にするわけでもない。話を聞いている。きちんと聞いている。
    ただ、時々少しだけ、会話がズレる感覚があった。
    リオが当たり前だと思っていることが、この人には当たり前ではないらしかった。


    三十分ほど経って、恒一とイチルが戻ってきた。
    「特に不審な点はなかった」
    恒一が言った。
    「帰るぞ、リオ」
    「はい」
    リオが立ち上がった。
    「アリアさん、ありがとうございました。イーライちゃんにも」
    「はい、またいつでも」
    三人は廊下に出ると、所長室の扉を閉めた。廊下には、案内ロボットが立っていた。


    客人が帰り、所長室は途端に静かになった。
    少しして、イーライが部屋に入ってきた。カップの片づけに来たのだろう、そのように設計したのはアリア自身だから、よく分かる。
    カップを慎重にティーカートに乗せていくイーライに、何とはなしにアリアは話しかけた。
    「私はあなたを理解できていますか。」

    イーライは手を止め、アリアに視線を向ける。傍目からは分からないが、高性能レンズを搭載した瞳がアリアの表面温度や呼吸の状態をセンシングし、最もコンテキストに合った回答を生成しているはずだ。
    「はい。あなたは私の大切な家族です。」
    イーライは微笑みながら言った。アリアはしばらく、その顔を見つめた。
    「…やはり、分からない」
    ため息とともに出た言葉に、イーライは再び反応した。
    「アリア、悲しいですか」
    「それは分かりません」
    「私は悲しいです」
    「…それは、なぜ?」
    「あなたが悲しそうだからです」
    アリアはイーライの手に包まれたカップを見た。
    リオが使ったカップだろうか、口紅の跡が残っていた。

    『でも心配しちゃいますよ!』

    その言葉を、心の中で反芻した。
    ポケットから古びた銀色の懐中時計を取り出して、蓋を開けた。
    裏側に、写真があった。家族の写真だった。幼い頃の自分と両親。
    しばらく見つめ、それから静かに蓋を閉じた。
    イーライは何も言わなかった。人工筋肉が作る表情は、どこか寂しそうにも見えた。
    その表情は、アリアよりもずっと人間らしいと思った。
    同時に、先ほどの人間の少女と比べて、何かが決定的に足りない気がした。


    車に乗った。
    この車は所有者の恒一いわく古いらしく、恒一が加速する度にエンジンの振動が体に伝わってくる。
    窓の外に木が続いていた。
    しばらく、誰も話さなかった。
    「なんか……不思議な人だった」
    ぽつり、とリオが言った。イチルや恒一と同行せず残ったのは、彼女なりにアリアから手がかりを探そうとしたのだろう。
    窓の外を見たまま、先程のアリアの様子を思い出しているようだった。
    恒一が少し間を置いた。
    「……そうだな」
    「怖い感じじゃなかった。でも、なんか」
    「なんか?」
    「うーん、うまく言えない」
    リオはそこで少し黙った。
    ガラス張りの向こうで、木が流れていく。
    「すごく聞いてくれる人なんだけど、なんか……すごく遠いところにいる感じがした」
    恒一は答えなかった。
    イチルは窓の外に視線を移す。
    黙ったまま、ずっと流れていく木を見ていた。


    車が幹線道路に出た。景色が変わった。コンビニが見えた。信号が見えた。普通の街に戻ってきた。
    「開発室はどうだったの?」
    リオが恒一に聞いた。
    「安全テストをしていた。負荷の確認、安定性の改善。不審な改造はなかった」
    「じゃあ、ここじゃない?」
    「断言はできない。ただ、少なくとも目に見える範囲では」
    「そういえば、壊れたアンドロイドが並んでたね」
    窓の外を眺めながらイチルが言った。
    「ああ」
    「数か月前から急に止まったって言ってた」
    「動物やAIがおかしくなった時期より、少し早いな」
    「うん」
    またしばらく黙った。

    信号で止まった時、歩行者が横断歩道を渡っていくのが見えた。
    その中に、ぼんやりした顔の犬を連れた人がいた。犬は引かれるままに歩いていた。尻尾が動いていなかった。
    リオがそれを、じっと見ていた。
    信号が青になり、車は発進した。


    二日後。
    異変は続いていた。
    昏睡者の数は都内だけで百人を超えた。
    ニュースの扱いが大きくなった。
    患者の受け入れについて、病院が感染症の可能性があるとして、都からの指導により特定の複数施設に集約するとの報道が出ていた。


    リオは夕方、一人でリビングにいた。
    両親からメッセージが届いていた。
    『今日は二人とも遅くなるから、先にご飯食べててね』
    『はーい』
    と返した。
    ソファに座ってテレビをつけると、昏睡者のニュースが流れていた。
    街頭インタビューが映った。若い女性が、マイクに向かって話していた。
    「不安ですね。でも、一人でいる方がもっと不安で……」
    リオはチャンネルを変えると、別のニュースが流れた。
    ずるずるとソファのうえで横になり、ふわふわのクッションを抱える。
    チャンネルをまた変え、そして消した。
    部屋が静かになった。自分の顔が、真っ黒のテレビ画面に映った。心細そうな少女がそこにいた。
    一人の夜は、嫌いではなかった。ただ今日は、静かさが少し違う種類だった。


    恒一は会社にいた。
    デスクにモニターが三枚並んでいて、世界中から集まる障害情報を確認していた。
    ニュージーランド。
    カナダ。
    インド。
    どこも似たような報告が上がっていた。
    AIの停止。動物の異常行動。昏睡者。
    モニターから視線を外してコーヒーを飲んだが、冷めていた。いつ淹れたか覚えていなかった。
    クロのことを少し考えた。クロが動かなくなって、初期化してバックアップからの復旧や内部システムの診断、OSアップデートなど色々試したがどれも意味をなさなかった。一ユーザーができることは大体やりつくして、途方に暮れた。
    充電器の上に置いたまま、丸まって応答しないクロは、ただ寝ているようにも見えた。
    今にも「恒一くん」と言って動き出しそうだった。
    家に戻ったら確認しようと思って、また画面に向き直った。


    イチルは家にいた。
    夜、縁側に出た。ムギが隣に来た。
    ぼんやりしていたが、イチルの隣へ来て、伏せた。
    それだけなのに、イチルはたまらなくなって、ムギの頭に頬を寄せた。
    暖かかった。少しだけ、獣のにおいがした。鼻に当たる明るい茶色の毛並みが、くすぐったかった。
    しばらくそうして、顔をあげる。今夜も虫の声が聞こえなかった。
    夏の夜は毎年、うるさいくらいの音がするはずだった。時々その音のせいで起きてしまうくらいにはうるさくて、早く季節が変わらないかと思うことすらあったのに。
    全く音がないわけではない。今は、遠くで車の音がして、どこかで話し声が聞こえた。人の気配はあった。
    ただ、生き物のノイズが足りなかった。
    「……うるさくないな」
    独り言だったが、ムギが返事をするように一度だけ、尻尾を動かした。


    ふと思い立って、リオに通話した。イチルからかけるのは、初めてだった。
    呼び出し音が鳴った。
    すぐに繋がった。
    「もしもし」
    「……何か分かった?」
    「ううん。ニュース見てるけど全然」
    少し間があった。家族以外と通話するのが久しぶりで、会話のテンポがズレていないか気になった。
    「なんか、怖いね」
    「……うん」
    また間があった。
    祖母が2階で雨戸を閉めている音が、遠くから微かに聞こえた。
    「わんちゃん、早く治るといいね」
    「……うん」
    通話はそのまま続いた。
    どちらも何も言わなかった。
    ムギが一度、鼻を鳴らした。電話の向こうのリオの部屋の方から、かすかに食器の音がした。
    「イチルくん」
    「うん」
    「明日も何か分かったら連絡して」
    「分かった」
    「おやすみ」
    「……おやすみ」

    通話が切れると、途端に静かになった。
    ムギはまだ隣にいた。
    祖母が焚いた蚊取り線香のにおいが漂ってくる。
    イチルは夜空を見上げた。星がいくつか出ていた。
    虫の声はなかった、セミも鳴かなかった。
    東京は動いていた。
    ただ、どこかが確実に変わりつつある気がした。


    その夜、リオはまだ起きていた。

    その日も両親は仕事で遅くなると言っていて、用意されていたカレーを一人で食べた。
    ソファに横になって、スマホを見ていた。
    タイムラインに流れるのは、昏睡者の話ばかりだった。
    知らない人の、知らない家族の話。
    病院が対応しきれなくなっている、という投稿があった。
    リオはスマホを胸の上に置いた。

    天井を見た。
    イチルとの通話を思い出した。
    「なんか、怖いね」と自分が言った言葉を思い出した。
    本当に怖かった。
    うまく説明できなかったが、この静けさが怖かった。鳥のいない電線も、鳴かない虫も、ぼんやりした犬も、全部が繋がっている気がして、その繋がりの先が見えないのが怖かった。
    ふいに、スマホが震えた。画面を持ち上げ、顔の前に掲げる。イチルからメッセージが届いていた。

    『まだ起きてる?』
    『起きてる』
    すぐに返ってきた。
    『電話していい?』
    『いいよ』
    着信が来て、出た。
    「もしもし」
    「……うん」
    イチルの声は少し緊張していた。
    「何かあった?」
    「いや、まだ何、も……何あれ」
    少し間があった。
    「ちょっとリオさん。窓、見てみて」
    「え?」
    「外」
    イチルの声は、少し焦っているようだった。リオはソファから起き上がって、窓に近づいた。
    カーテンを少し開けた。
    夜の住宅街が広がっていた。
    街灯が点いていた。
    近所の家の窓に、いくつか明かりがあった。
    「何も……」
    言いかけて、止まった。


    人が歩いていた。
    一人ではなかった。
    道路に、ぞろぞろと何人もいた。
    夜の十一時を過ぎていた。
    散歩にしては多かった。
    黒い人影は、みんな同じ方向を向いていた。

    ゆっくりと。

    一定の速度で。

    「……あれ」
    声が出た。
    「見える?」
    「……見える」
    犬がいた。
    飼い主に引かれているのではなかった。
    一匹で歩いていた。
    同じ方向へ。
    その隣を、猫が歩いていた。
    道路の端を、鳥が歩いていた。
    飛ばなかった。
    地面を歩いていた。
    同じ方向へ。

    ゆっくりと。

    ゆっくりと。

    「何……あれ……」
    声が出なくなった。唇を動かしているのに、声が出なかった。

    「…行かなきゃ」

    リオの口から、言いたかったことと違う言葉が出た。
    自分でも気づかなかった。
    「え?」
    耳元でイチルの声がした。
    「行かなきゃ……」
    また出た。
    自分の声だった。
    でも、自分の意思ではなかった。

    「リオさん?」
    足が動いた。
    玄関の方へ。
    「リオさん!」
    返事ができなかった。
    行かなきゃ、という感覚が足の裏から来ていた。
    引力のような、流れのような、自分の意思ではない何かが体を動かしていた。
    怖かった。
    でも、怖いより、行かなきゃが先に来た。
    「リオさん、返事して」
    スマホを持ったまま、靴を履いた。
    イチルの声が鼓膜を滑っていく感じがした。
    ドアを開けた。

    夜の空気が来た。

    外に出た。

    人が歩いていた。
    犬が歩いていた。
    猫が歩いていた。
    みんな同じ方向へ。
    ゆっくりと。
    止まらずに。

    リオも歩いた。
    同じ方向へ、行かないといけなかった。

    「……行かなきゃ……」

    「リオさん! リオさん、聞こえてる?!」

    スマホの向こうでイチルの声が続く。
    聞こえていた。
    でも、止まれなかった。

    コツ。
    コツ。
    コツ。

    足音だけが、通話の向こうへ流れていった。


    イチルは縁側で固まっていた。
    スマホを耳に当てたまま、動けなかった。
    通話は繋がっていた。
    足音が聞こえた。
    返事はなかった。
    「……何これ」
    声が出た。
    窓の外を見た。
    道路に、人がいた。
    同じ方向へ歩いていた。
    犬がいた。
    猫がいた。

    ムギが縁側から立ち上がった。
    「ムギ」
    ふらりと庭の方へ向かった。
    「ムギ、待って」
    抱き上げた。
    ムギは大人しかった。抵抗しなかった。ただ、同じ方向を向いたまま、体がその方向へ傾いていた。

    「……何なんだ」
    スマホを持ち直した。
    リオの足音はまだ続いていた。
    震える指で、恒一に発信した。


    「どうした」
    一コールで繋がった。
    「恒一さん!」
    「落ち着け」
    「リオさんがおかしくて……急に……」
    「落ち着け、整理して話せ」
    イチルは息を吸った。

    「人が歩いてるんです。みんな同じ方向に。リオさんも急に『行かなきゃ』って言って、返事なくなって」
    沈黙があった。
    短い沈黙だった。
    「……今どこだ」
    「自宅です」
    電話口の向こうで、何かが動く音がした。
    「窓を見ろ」
    イチルは窓を見た。
    「……人が歩いてます」
    「こっちでも見える」
    「何なんですか」
    恒一は答えなかった。
    代わりに言った。
    「リオの位置は分かるか」
    「位置共有……あ」
    イチルはアプリを開いた。
    前回の待ち合わせで、リオが「迷うから」と半ば勝手に有効にした位置共有だった。
    リオのアイコンが動いていた。
    家の場所ではなかった。
    「動いてる。ゆっくり歩いてる」
    「方向は」
    「……北西。まっすぐ」
    「そこにいろ。まずお前を迎えに行く」
    「ムギはどうすれば」
    「家の中に入れておけ」
    「分かりました」
    「イチル」
    「はい」
    「落ち着け」
    通話が切れた。

    イチルはムギを抱いたまま、縁側に立っていた。祖母がイチルの横にやってきて、外を見て、まぁ、と小さく呟いた。
    道路を、人が歩いていた。
    犬が歩いていた。
    猫が歩いていた。
    鳥が歩いていた。
    飛ばなかった。
    地面を歩いていた。
    みんな同じ方向へ。
    止まらずに。

    東京が歩き始めていた。


    恒一は車に乗った。
    エンジンをかけて、シートベルトを締めて、ナビを立ち上げた。
    住所を入れようとして、止まった。
    道路に人がいた。
    車道にはいなかった。
    歩道と、歩道のない路地と、公園の中と。
    あらゆる場所を、人が歩いていた。
    同じ方向へ。
    一定の速度で。
    誰も話していなかった。
    誰も立ち止まらなかった。
    その光景は、異様だった。
    振り切るようにアクセルを踏んで、車を出した。


    途中で止まった。
    交差点に、人が溢れていた。
    車道にも出てきていた。
    歩いていた。

    信号を見ていなかった。
    信号の意味が、彼らには届いていなかった。
    クラクションを鳴らす車がいた。
    しかし、人の流れは止まらなかった。

    大通りは、車道の真ん中を歩く人と車で混乱が始まっていた。
    遠くで救急車のサイレンが聞こえた。

    恒一は迂回した。
    路地を曲がって、また曲がって、人の少ない道を選んだ。
    角を曲がったとき、一瞬だけ見えた。
    交差点の向こうに、石畳の街並みが広がっていた。
    ヨーロッパのどこかのような、古い石畳。
    ランタンのような街灯。

    一瞬だった。
    次の瞬間には消えていた。
    アスファルトの道路が戻っていた。
    普通の街灯が戻っていた。
    恒一はハンドルを握り直した。

    幻覚か、と思った。僅かに、視界の端にノイズのような残像が再び見えた。
    断言はしなかった。


    イチルを拾ったのは、五分後だった。
    家の玄関の前で立っていた。
    パーカーの袖を握りながら、スマホを見ていた。
    恒一に気づくと小走りで来て、助手席に乗った。
    「リオの位置は」
    「まだ動いてる。この先です」
    ナビに位置情報を転送すると、経路が表示される。
    恒一は、人気の少ないルートを選択しなおした。
    アクセルを踏み、車が動き出す。
    「大通りはまずい、既に事故になってる」
    「いったい何が…」
    「分からん、行くぞ」
    車が加速した。


    夜の東京が動いていた。

    人の流れは止まっていなかった。

    歩道を歩く人。
    公園を横切る人。
    塀の向こうから出てくる人。
    みんなが同じ方向へ向かっていた。
    その流れに混じって、犬が歩いていた。
    猫が歩いていた。
    鳥が地面を歩いていた。
    飛ばなかった。
    信号が赤になった。
    横断歩道を、人が渡っていた。
    信号を見ていなかった。
    時折車両から、運転手の怒号が聞こえた。

    それでも、人の流れはやまなかった。

    「止まれ」
    恒一が急ブレーキを踏んだ。
    イチルは慣性で前に引っ張られ、思わずシートベルトを握った。
    若い男が車の前を通り過ぎた。
    車のライトに照らされて、男の顔が見えた。
    目が開いていた。
    焦点が、どこにも合っていなかった。
    でも、転ばなかった。
    車を一瞥もせず、歩いていた。

    まっすぐ。

    止まらずに。

    「……」
    背筋に冷たいものが走った。
    黙ったまま、二人は男を見ていた。
    人が通り過ぎた。
    信号が変わった。
    車が動いた。


    「いた」
    イチルが言った。
    前方の歩道に、金髪のツインテールが見えた。
    人の流れの中に混じっていた。

    同じ速度で。

    同じ方向へ。

    恒一が路肩に車を寄せた。
    二人が降りた。
    「リオさん!」
    イチルが駆け寄った。
    リオは振り向かなかった。
    歩き続けていた。
    「リオさん、止まって」
    肩に触れた。
    リオがよろけた。
    でも、また歩き始めた。

    「……行かなきゃ」

    声が出た。
    抑揚がなかった。
    「どこへ行くんですか」
    返事がなかった。
    「リオさん」
    恒一が前に回った。
    正面から立ちはだかった。
    リオは恒一にぶつかりそうになって、少しよろけた。
    それでも体が前へ向こうとしていた。
    つまずいた。
    膝をついた。
    「リオさん」
    イチルが手を貸した。
    リオはその手を握りながら、ふらりと立ち上がった。
    そのまま、また歩き始めた。
    「……嫌……でも……」
    「嫌なんですか」
    「行かなきゃ……」
    「どこへ」
    返事がなかった。
    足音だけが続いた。


    ふいにイチルが、立ち止まった。

    肌が粟立ち、指先、手、腕を何かに触られている感触が走った。
    浸食されていくような、その不快感はEmoSyncとはまた異なるものだった。

    メガネを取り出して、かけた。
    魔法を起動した。
    周囲の空気が、一瞬だけ変わった。
    同期のノイズが、フィルタされて消えた。
    代わりに、別のものが見えた。
    「……」
    「何が見える」
    恒一が聞いた。
    「魔法です」
    「何の」
    「EmoSyncの感覚と、似てる。でも違う」
    イチルは周囲を見回した。
    歩く人々を見た。
    歩く犬を見た。
    歩く猫を見た。
    全員に、薄い光が走っていた。
    網のような、糸のような。
    同じ方向へ、引っ張られていた。

    「……同期だ。でも、人だけじゃない。範囲が広すぎる」
    「防御できるか」
    「僕はEmoSyncの原理を知ってるから。でも、リオさんは」
    二人でリオを見た。
    リオは歩き続けていた。
    「榊さんは?」
    「何だ」
    「これ、感じないんですか」

    恒一は少し間を置いた。自分の体を少しだけ見て、確認した。
    「……何も感じない、一ミリも」
    「そ…れは…体質、ですか」
    「分からん。昔から同期への感度が鈍いとは言われてる」
    イチルはしばらく、何とも言えない表情で恒一を見た。

    それから前を向いた。
    空がいつの間にか暗雲に覆われていた。
    東京の街並みが、わずかに揺れていた。
    信号の向こうに、一瞬だけ大地の亀裂が見えた。
    次の瞬間には消えていた。
    空がノイズで割れた。
    すぐに戻った。
    普通の夜空が戻った。
    しかし、戻りきっていなかった。
    端が、少しだけ揺らいでいた。

    「……東京全体が揺れてる」
    「揺れているように見えるか」
    「見えます。でも、不安定だ」
    恒一は空を見た。
    何も見えなかった。
    普通の夜空だった。
    「榊さん」
    「何だ」
    「車を出してください」
    「どこへ」
    「リオさんが向かってる先へ」
    「それはどこだ」
    「…この方向…研究所かもしれません」
    恒一は少し黙った。
    それから、車のキーを持ち直した。
    「乗れ」


    車に三人で乗った。
    リオを後部座席に押し込んだ。
    抵抗はなかった。
    ただ、体が前へ向こうとしていた。シートベルトを締めると、少し落ち着いた。それでも足先が、前方へ向いていた。
    「……行かなきゃ」
    「座ってろ」
    恒一が言った。手早くエンジンをかけ、アクセルを踏んだ。
    リオはシートベルトを握ったまま、黙った。


    道路が渋滞していた。
    人の流れがあちこちで車道にはみ出ていて、信号が機能していなかった。
    恒一は路地を選んで走った。
    細い道を、ゆっくりと進んだ。

    路地にも人がいた。動物がいた。

    進んでいく犬を、連れ戻そうと必死に引っ張る飼い主がいた。

    ベビーカーを押していく親がいた。子供は、乗っていなかった。

    歩いていた。

    同じ方向へ。

    車のヘッドライトに照らされた顔が、次々と流れていく。
    目が開いている。
    どこも見ていない。
    それでも転ばない。
    それでも歩いている。

    「……あの人たち」
    リオが後部座席から言った。
    声が少し戻ってきていた。ぼんやりとした表情でいて、シートベルトを握る手が白くなっていた。
    「……みんな、大丈夫ですか」
    少し疲れた声だった。
    「今は分からない」
    恒一が答えた。ラジオを付けようとして、やめた。
    「研究所に行けば分かるかな」
    「分からん。ただ、行く以外にない」
    リオは窓の外を見た。

    人が流れていく。

    犬が流れていく。

    猫が流れていく。

    鳥が地面を歩いていく。

    みんな同じ方向へ。

    「……同じ方向って」
    「北西だ」
    「研究所の方向」
    「ああ」
    リオは黙った。
    目を閉じて、研究所の白い建物を思い出していた。


    途中で空が変わった。
    暗雲が出た。
    本物の雲なのか、別の何かなのか、判断がつかなかった。
    ただ、夜空が重くなった。
    街の灯りが、雲の底に反射してオレンジ色に染まった。
    「……きれいですね」
    リオが言った。
    誰も答えなかった。


    研究所の前の道路が、混んでいた。
    人の流れが研究所の方向へ向かっていた。

    ゆっくりと。

    止まらずに。

    恒一は少し手前で、車を路肩に寄せた。
    三人で降りて、人を避けながら車道を進んだ。
    研究所が見えた。昼間の姿とは打って変わって、巨大な影の塊のようだった。
    その建物の内部から、光が漏れていた。
    白い光ではなく、青みがかった光だった。
    時々光りが弱まり、また強まる。
    窓から溢れて、駐車場の地面を染めていた。

    光は、照明の光り方というよりも生き物の呼吸のようだった。
    研究所を目指して進んできた人たちは、その光の前で立ち尽くしていた。
    「動いてる」
    イチルが言った。
    「何が」
    「研究所の中で、でかい術式が動いてます。さっきより大きい」
    「アリアか」
    「……多分」
    恒一は研究所の入口を見た。
    「行く」
    「は、はい」
    「リオ、歩けるか」
    「……歩けます」
    「また行かなきゃってなるかもしれない」
    「……なります。でも、自分で気づけてます。今は」
    「おかしくなったら言え」
    「分かりました」
    三人で歩いた。


    エントランスのドアは施錠されていなかった。
    押すと、開いた。
    中に入って、以前案内された廊下を三人で進んでいく。
    廊下は静かだった。研究員は帰っているのか、あるいは別の場所にいるのか、人の気配がなかった。
    足音がやけに大きく響いた。白い壁に術式の反応が走っていた。
    薄い光が、ところどころ壁を伝っていた。
    「でかい」
    イチルがメガネを直した。強大な魔法の気配に体がこわばり、ごくりと唾を飲み込む。
    「この規模で術式を動かせる人間が、ここにいる」
    「アリアか」
    「他に考えられない」
    廊下を進んだ。
    突き当たりに、大きなドアがあった。訪問した際には案内されていない部屋だった。
    光が、その隙間から漏れていた。
    青白い光が。
    脈打つように。
    一定のリズムで。
    「……術式の核がある」
    イチルが小声で言った。
    「この中か」
    「はい」
    恒一がドアに手をかけた。
    押して、開いた。

    重かった。


    広い実験室だった。天井が高く、機材が壁に並んでいた。モニターが複数あり、なにかの波形を表示していた。いくつかのモニターや機材から長く伸びたケーブルが、中央のパソコンに繋がっていた。
    その脇に、アリアが立っていた。白いシャツと、黒いパンツ。両手を広げていて、指先から術式が走っていた。
    中央から光が部屋中に広がって、天井まで届いていた。
    膨大な量の光だった。
    見たことのない規模だった。

    「鳥類、昆虫、小型哺乳類、AI……」
    アリアが言った。
    独り言のような声だった。
    しかし、部屋の中によく通った。
    「同期対象数、三百八十四億二千六百万。」

    少し間があった。
    「……十分な情報量に達しました」
    指先にひっかけられた懐中時計が、細い銀の鎖とともに揺れていた。
    「今夜、人間の完全記述を実現させる」
    術式の光が強くなった。アリアの足元に小さな人影が横たわっていた。それはリオから聞いていたイーライだとすぐに分かった。
    「ELIの完成のために」


    三人は入口に立ったまま、動けなかった。
    光が眩しかった。
    術式の圧が、空気を変えていた。
    「……アリアさん」
    リオが言った。
    アリアは振り向かなかった。
    「認知統合。補助情報の添付。世界接続」
    「アリアさん」
    「情報層へのアクセス開始」
    術式が広がった。
    部屋の壁を超えて。
    天井を超えて。
    研究所の外まで。
    東京全体に。
    光が広がった。


    世界が白くなった。
    一瞬だった。
    あるいは、一瞬ではなかったかもしれない。
    時間の感覚が、そこでなくなった。


    海だった。

    どこまでも続く、穏やかな海だった。

    波があった。
    音があった。
    空があった。
    光があった。

    しかし、太陽がどこにあるのか分からなかった。

    どこからともなく光が来ていた。

    水平線が見えた。

    果てが見えなかった。


    人がいた。

    無数の人が、海の中にいた。
    いや、海の中ではなかった。
    海と人が同じ場所にあった。

    境界がなかった。

    犬がいた。
    猫がいた。
    鳥がいた。
    AIがいた。

    全部が同じ場所に。
    全部の境界が、少しずつ溶けていた。


    情報があった。

    言葉ではなかった。
    映像でもなかった。

    ただ、分かった。

    誰かの昨日が分かった。
    誰かの十年前が分かった。
    誰かが愛していた人が分かった。
    誰かが怖かったものが分かった。
    誰かが笑った朝が分かった。

    全部が同時に来た。

    全部が同時に溶けていった。


    臨界だった。

    どこかで、そう分かった。

    朝と夜を同時に視るような、全く関係のない誰かと誰かの人生が重なるような、大地と海が混ざるような。

    全ての情報がひとつになるような、そんな一瞬があって。

    そして、均衡が崩れた。


    大きな水面から、ぽろぽろと個が落ちてきた。

    ひとりずつ。
    ふたりずつ。

    境界が戻ってきた。

    自分の輪郭が戻ってきた。

    犬が戻った。
    猫が戻った。
    鳥が戻った。
    AIが戻った。

    吐き出されるように。

    次々と。

    現実へ。


    恒一が目を開けた。
    床だった。
    冷たいコンクリートの床に、手をついていた。
    頭の中が重くて、途端に冷汗が滲みだす。思わず額を手で押さえた。

    「……」

    ゆっくりと起き上がり、周りを見回した。研究室の白い壁と床があり、アリアが何かの魔法を使っていたことを思い出した。状況を確認しないといけない、何かまずいことが起こっているならイチルとリオを連れて逃げないといけない、と経験則から退路を目視で確認した。幸い、廊下に戻る扉に変化はなかった。

    一歩歩こうとして、ふらついて、壁に手をついた。
    部屋の光が戻っていた。術式の青白い光が薄くなっていることに気が付いた。モニターの一部が消えていて、もうすでにアリアの魔法は完全に発動を終えたのだと悟った。何が起きたのか、思い出そうとして、思い出せなかった。少し前までの記憶が抜けていた。

    「……今のは…」

    声が出た。
    かすれていた。


    イチルが壁もたれて、床に座っていた。恒一とほぼ同時か、少し後に目を覚ましたらしかった。頭を両手で押さえていた。メガネが彼の脇に落ちて、小さいヒビが入っていた。恒一はイチルのすぐ近くまで移動すると、しゃがみこんでケガがないかを確認する。
    「……何が、起きたんだ……」
    小声だった。
    「……何か、いた気がする」
    「何が」
    「……分からない。でも、何かがいた」
    ゆっくりと顔を上げた。イチルの魔法に対する感覚は、恒一より鋭い。恒一では感じ取れなかった何かを感じ取ったようだった。

    イチルは恒一を見た。傍らに落ちたメガネに気づいて、それをかけ直した。
    そしてそれから、周りを見回した。
    「……リオさん?」
    二人は立ち上がって、少し歩いた。機材の陰で、倒れているリオがいた。
    目を閉じていて、動いていなかった。
    「……リオさん」
    近づいたイチルが、しゃがんだ。リオの肩をつかんで、軽く揺らした。
    反応がなかった。
    「……」
    恒一は顔色を確認したが、悪くはなかった。続いて、胸が動いていることを確認する。息はしているようだった。ただ、少し待っても、ゆすっても、意識は戻らなかった。
    「……いない」
    「何?」
    「……ここにいない」
    イチルはつぶやいた。リオの額にかかる前髪を避け、額に触れた。リオの体内の魔力の流れに意識を向ける。
    「どういう意味だ」
    「意識が……まだ向こうにいる感じがする」
    イチルはリオの手を見た。
    「でも、完全に消えた感じはしない」
    「確かか」
    「……多分」
    「根拠は」
    「ない。でも……消えてない。いる」

    恒一はリオを見た。目を閉じたまま、動かなかった。
    「なぜ戻らない」
    「……分からない。僕らはたぶん、あの光から、吐き出された。でも、リオさんは違う」
    「どういうことだ」
    イチルは少し考えた。
    考えながら、ゆっくりと立ち上がった。
    「……深い認知魔法ほど、不安定になる」
    「アリアが言っていた言葉だ」
    「アリアさんはわざと…多くを接続して…魔法を使った。わざと限界を超えたんじゃないかな」
    「なぜ」
    「世界に、何かをさせようとした。多分、『人とはなにか』を問い合わせた」
    恒一は黙っていた。

    「人って……一人じゃ定義できない。それを……世界規模でやったんだ」
    部屋が静かだった。
    術式の残滓が、壁を薄く光らせていた。
    「……まるでDDoSだな」
    恒一が言った。
    イチルが顔を上げた。
    「サーバーに、無茶な量の要求を投げて落とす攻撃だ」
    「……」
    「アリアは……世界にやった」
    イチルはしばらく黙った。
    「……リオさんは」
    恒一が言った。
    「まだ、いるのか」
    「……多分いる。分からない。でも……消えた感じはしない」
    「なら行くぞ」
    「ちょ、ちょっと待って」
    恒一が立ち上がりかけた。
    「考えるのは後だ」
    「どこへ行くんですか」
    「迎えに行く」
    イチルは恒一を見た。
    目の下の隈があった。
    それでも、迷っている顔ではなかった。

    「……多分僕の方が、確率が高いですよ」
    「分かってる」
    「……分かった。行きます」
    「リオさんの体は」
    「ここに置いておく」
    「でも」
    「動かすな、どう影響するかわからない。急ぐぞ」
    二人はアリアがいた場所の中心へ向かった。術式の核が、まだそこに残っていた。青白い光が薄くなっていたが、消えていなかった。


    術式の核は、部屋の中心に残っていた。
    光の束が、薄く脈打っていた。
    さっきまでの圧倒的な規模は失われていたが、消えてはいなかった。

    まだ、繋がっていた。

    どこかへ。


    イチルはメガネをかけたまま、その核を見ていた。
    核の傍らの、床に置かれた端末に触れて、術式の構造を調べた。イチルの魔法が発動し、構造の深いところまで探っていく。
    「……やっぱり消えてない」
    「確かか」
    「はい」
    「根拠を言え」
    「信号が残ってる。細いけど、切れてない。完全に消えた人格とは、形が違う」
    「どういう違いだ」
    「消えたものは、最初から何もなかったみたいになる。でもこれは……道が切れただけだ。向こうにいる。まだ耐えてる」
    恒一は核を見た。
    恒一には何も見えなかった。
    ただのコンクリートの床だった。
    それでも、イチルの言葉を否定しなかった。

    「迎えに行けるか」
    「……やってみます」
    イチルは床に座った。
    メガネを直した。
    目を閉じた。


    父の声を思い出した。
    幼い頃のことだった。
    当時、父はまだ生きていた。
    一緒にPCを見ていた。
    コードのことを教えてもらっていた。
    あるとき、通信が切れた。
    画面がフリーズして、壊れたように見えた。
    泣きそうになったイチルに、父が言った。

    「通信が切れたなら、壊れたと思うな」
    「でも動かない」
    「経路がなくなっただけかもしれない」
    「経路って」
    「繋がる道だよ。道がなくなっても、向こうはある。ならまた道を作ればいい」
    幼いイチルにはよく分からなかった。
    ただ、父の声が穏やかだったことは覚えていた。


    目を開けた。
    「……見つけられる」
    「何を」
    「リオさんを」
    恒一が黙った。
    イチルは核の構造を、もう一度読んだ。
    リオがどこへ行ったのか。
    どんな経路で。
    どんな形で。
    EmoSyncの原理と、情報層の構造と、人格署名の理論が、頭の中で繋がっていった。

    「人格識別型感情翻訳システム」
    「前に見たな」
    「はい。人格を消さずに認識する技術です。あれがあれば、向こうの海の中からリオさんの形を見つけられるかも」
    「できるか」
    「やってみないと分からない。でも……理論上はできるはずです」
    術式を起動した。
    メガネがほのかに光った。
    周囲の認知が、一瞬だけ借りられた感触があった。
    昏睡から戻った人々の、薄い残滓。
    それを足がかりにして、経路を探した。

    「……いた」
    「見えるか」
    「います。リオさんがいる」
    声が少し震えた。
    「見つけた」
    もう一度だけ、確認した。
    人格の署名。
    認知の癖。
    感情のパターン。
    リオが笑うときの、あの形。
    驚いたときの、あの間。

    「……間違いない」
    逆方向の接続経路を生成し始めた。
    光の道が、術式の核から伸びていった。
    細い道だった。
    不安定だった。
    時々ノイズが走った。
    揺れた。
    それでも、伸びていった。


    イチルの顔色が悪くなった。
    額に汗が出て、息が荒くなった。
    「……きつい」
    「無理なら止めろ」
    「止めない」
    「限界なら」
    「まだです」
    歯を食いしばった。
    ノイズが走るたびに、経路が揺れた。
    崩れそうになった。
    崩れるたびに、作り直した。
    「……安定しない」
    「原因は」
    「アンカーがない」
    「アンカー?」
    「経路の端を固定するものです。向こうに届かせるには、こちら側に固定点がないと……」
    そこで止まった。
    恒一を見た。
    「……榊さん」
    「何だ」
    「さっきの、同期を一ミリも感じないって言ってましたよね」
    「ああ」
    「今もですか」
    「今も何も感じない」
    イチルは少し考えた。
    「だったら」
    「何だ」
    「榊さんはここから動かない。向こうへは行かない」
    「ああ」
    「……アンカーになれないですか」
    恒一が少し間を置いた。

    「具体的には」
    「僕の術式の、こちら側の端を持っていてもらいます。同期に引っ張られない人間が端を持っていれば、経路が安定するかも」
    「手を繋ぐようなものか」
    「……そうです。物理的に、というか」
    「やり方を言え」
    「僕の体に触れてください、僕と同期しますので発動に備えて。術式が少しだけ流れますが、榊さんには何も感じないはずです」
    「感じなくていいのか」
    「感じない方がいい。感じると引っ張られる」
    恒一はイチルの横にしゃがんだ。
    イチルの肩に手を置いた。
    イチルの体の光が腕を伝わり、恒一に流れ込んでくる。
    恒一は何も言わなかった。
    何も感じていなかった。

    「……安定した」
    イチルが言った。
    経路の揺れが、少し収まった。
    ノイズが減った。
    光の道が、より細く、より確実に伸びていった。
    「……やってみます」
    「ああ」
    イチルは目を閉じた。
    経路の先を、追いかけた。


    海だった。

    夕方の海だった。

    どこから来たのか分からなかった。なぜここにいるかも、記憶が曖昧だった。ただ、気づいたらそこにいた。
    砂浜に、裸足で立っていた。
    波が足先まで来て、引いていった。足の裏で砂が動いていく感触がくすぐったくて、思わず波の来ないところまで後ずさりした。
    波の冷たさは鋭くなくて、どこか温かさも感じた。世界がリオを拒まず、受けれてくれているような、そんな懐かしい温かさがあった。


    リオは一人だった。

    空が橙色で、海面にも橙色の光が反射して、きらきらと輝いていた。空気は澄んでいて、夕日も柔らかい。
    薄い雲がいくつかあって、水平線がはっきり見えた。音は波だけだった。

    誰かを待っていた気がした。なぜ待っているのか、分からなかった。でも、ほとんど確信に近い気持ちを、リオは感じていた。

    後ろで、砂の上を歩く音がした。
    振り向くと、そこにアリアがいた。アリアはコートを着ておらず、白いシャツだった。プラチナブロンドの髪が、風に少し揺れていた。
    アリアの冷たい美しさは、温かいこの砂浜と少し不釣り合いな気がした。
    「何故ここにいるのですか」
    アリアが言った。不思議そうな声だった。
    「分かんない」
    リオが言った。不思議なほど、言葉が自然にこぼれるように出てくる感覚があった。
    「わかんないけど、人格融解の影響かも。他の人、全然いないし」
    「…」
    「だから、ここで、待ってたんだ」
    「……」
    「私が会いたい人が、来てくれるかもと思って」

    沈黙があった。その沈黙を、波の音が埋めた。
    アリアはリオを見ていた、研究所で見たときと同じ目だった。観察しているような、構造を確認しているような眼差しを感じた。
    「あなたは?」
    リオが聞いた。
    問いかけられると思っていなかったらしく、アリアは少し考えるように間を置いた。

    ゆっくりと瞬きをしながら海を見て、水平線を眺めた。そして視線を動かさず、静かに言った。
    「……分かりません」
    波の音だけがあった。リオには、その言葉もまた素直な気持ちなのだと、直感的に理解していた。
    「ずっと見つけたかったものが、この場所にはあると思っていた」
    「うん」
    「そして確かにこの場所はあった」
    アリアは少し黙った。そして、波打ち際まで歩いて、止まった。
    「……でも」
    寄せる波が、アリアの足を濡らして、そして戻っていった。
    「私が欲しかったものは、ありませんでした」


    不思議な場所だった。

    思考が、言葉になるまでの距離が近かった。いつもなら途中で飲み込むものが、そのまま口から零れていく。その違和感を自覚しながらも、なぜか嫌な気持ちにはならなかった。

    アリアは続けた。
    「皆さんが、羨ましかった」
    「……」
    「親子が話しているのも」
    波。
    「友人同士が笑っているのも」
    波。
    「誰かが誰かを心配するのも」
    波。
    「全部」
    アリアは一瞬言葉を飲み込み、地平線の先を見つめた。そして一息に吐き出した。
    「私には、分かりませんでした。人間がなぜ人間でいられるのか」
    リオは黙って、アリアの後ろ姿を見ていた。
    「……それが、ずっと許せませんでした」

    アリアの声は穏やかだった。過去の事実を、傍観者のようにそのまま語っているように見えた。あるいは、今初めて、言葉にできたのかもしれない。
    「皆さんが当たり前に持っているものを、私だけが持っていない」
    「だから確かめたかった。世界そのものを使ってでも」
    波が来た。アリアは足を撫でる波の、泡立つ白い境界に目を落とした。
    「私と同じ側に立つ存在が欲しかった。ELIなら、私が倒れた時、利がなくても、傍に来てくれると」

    少し間があった。研究所にあった、家族の写真が入った写真立てを、リオは思い出していた。
    アリアの声には、感情の色はなかった。淡々と、心の中に浮かぶことを声に出しているかのように見えていた。
    「…でも、やはり私には何かが欠落しているのでしょう。結果としてELIを完成させられなかった。その願いのためにたくさん、止めてしまいました」
    今まで変化のなかったアリアの声が、わずかに落ちた。
    「この後、どんな影響が残るのかも分かりません」
    「でも、私は、止まれませんでした」

    リオはしばらく黙っていた。倒れて動かなくなったクロや、イチルの犬がふと浮かんだ。そして、彼らの話をする、イチルと恒一の不安そうな顔が浮かんだ。
    波の音が続いていた。リオは目を閉じて、音を聞いた。

    「そっか」
    それだけ言葉にしたリオに、アリアは少し驚いたようだった。
    アリアは振り返り、リオを見た。
    「怒らないのですか」
    「怒ってないわけじゃないけど。でも、そっか、ってなった」
    アリアは何も言わなかった。ただ、リオの言葉を、怒られる前の子供のように待っていた。

    「アリアさんが倒れたらさ」
    リオが、少し間を置いてポツリと言った。波の音が混じる。
    「……はい」
    「私が行くよ」
    沈黙があった。アリアは言葉の意味を、彼女の中で何度か反芻したようだった。
    「……何故ですか」
    「え?」
    問われて、リオは一瞬言葉に迷った。リオの中で感覚的なもので、説明が難しい。思わず視線が揺れると、アリアは続けた。
    「私は、あなたへ何もしていません」
    「うん」
    「研究所で三十分話しただけです」
    「うん」
    「では何故」
    リオは少し迷って、顎に手を当ててしばらく考えた。
    「……だって」
    「はい」
    「倒れたんでしょ」
    「はい」
    「じゃあ、一人にしちゃ駄目じゃん」
    「……」
    「私、行くよ」
    「会いに行く」

    波が来て、引いた。

    何度か波が足を濡らしても、アリアは何も言わなかった。
    言葉が、見つからなかった。
    成果、義務、評価の中で生きてきた彼女にとって、リオの言葉はどこにもカテゴライズ出来なかった。
    「……皆さんは」
    「うん?」
    「そうやって、約束するのですか」
    「するよ?」
    「何故ですか」
    リオは少し考えた。アリアの怪訝な顔を見て、足元の砂に目を落とした。そして、砂に足の指を埋めた。
    「……なんとなく」
    アリアはしばらく黙った。
    それから、小さく息を吐いた。
    「私は、一生かけても」
    波。
    「その『なんとなく』が、分かりませんでした」

    長い沈黙があった。代わりに、波の音だけが続いた。
    やがてリオが言った。
    「でも」
    「はい」
    「今、ここにいるじゃん」
    「……」
    「私と」
    アリアは海を見た。
    どこまでも穏やかだった。
    水平線が、橙色の空と繋がっていた。少し強い風が吹いて、リオとアリアの髪を揺らした。アリアの髪は夕日を反射してきらめいて、リオは研究所で見たイーライの、細い金髪を思い出していた。

    「……そうですね」
    少しだけ、アリアの口の端が動いた。
    「今は」
    アリアは言葉を切った。迷っていると言うより、世界を感じているように見えた。日差しの眩しさ、波の冷たく、温かい感触、砂の粒の質感。濡れた足首が、風で冷やされる皮膚の感覚。
    アリアは息を吸って、ふぅと吐いた。
    「理解しなくても、いい気がします」
    アリアの目が、空を映す。
    波の音に混じって、ほとんど聞こえないくらい小さな声だった。
    そして何かを思い出すように目を閉じた。

    「穏やかです」
    波が一度、リオの足元まで来て、戻って行く。
    「このまま、ここにいたい」
    アリアは静かに呟いた。それは魔女と言われた彼女の、少女のようにささやかな願いだった。


    リオは少し考えた。
    砂浜も波も風も、変わらず優しくリオを見守っているように感じた。世界が、リオの答えを待っているような気がした。
    リオは軽く握った手を、左胸に当てた。自分は誰なのか、自分の鼓動を確かめながら、自分の望みを口にした。

    「私は帰りたい」
    「……」
    「帰って、お父さんやお母さんに会いたい」
    波。
    「ユイにも」
    波。
    「イチルくんにも」
    波。
    「恒一さんにも」
    波。
    「クロにも」
    少し間があった。

    「だからかな」
    確かに波は来ているのに、急に波音が遠くなった気がした。アリアはゆっくり海を見た。
    「……そうですか」
    静かな声だった。何度か波が寄せて、帰って行く間、二人はその場で動かなかった。親しいというほどの時間を過ごしていないのに、その沈黙が嫌ではなかった。
    「……そうですか」
    アリアはもう一度言った。その声は、その意味を噛み締めていた。

    気づいたのは、波が来たときだった。
    アリアの足元にまた、波が寄せた。
    その波が引くとき、アリアの輪郭が少しだけ一緒に引かれた。
    「……アリアさん」
    リオが言った。初めは気のせいかと思って、もう一度アリアの足元をじっと見た。
    アリアは海を見ていた。
    「……?」
    「アリアさん、輪郭が」
    気のせいではなかった。波が当たっていた場所だけではなく、アリアの輪郭が一瞬ぶれた。
    アリアは自分の手を見た。指先が、少し透けて、橙の光が指先を通り抜けていた。
    「……ああ」
    驚いた声ではなかった。
    「そうですね」

    「どうなるんですか」
    リオが聞いた。徐々にアリアのぶれが大きくなり、リオは思わずアリアの傍らまで駆け寄った。アリアの手を取ると、確かに皮膚の感触があった。
    アリアはリオに触られた手を眺めながら、少し考えて言った。
    「情報層は、深く入りすぎると戻り方を忘れる場所のようですね」
    「でも」
    「私たちはかなり深くまで来てしまいました」
    「……帰れないんですか」
    「分かりません」
    アリアは正直に言った。リオは不安げにアリアの顔を見つめている。
    「帰れるかもしれない。帰れないかもしれない」
    「どっちか分からないんですか」
    「ええ」

    アリアは海を見た。
    アリアの輪郭が、また少し薄くなった。
    「……何も分からないまま」
    独り言のような声だった。リオはアリアの横顔を見つめ、何も言えなかった。
    「人間は完全には記述できなかった」
    波が来て、引いていく。
    「ELIも未完成のまま」
    アリアはリオに握られている手を、握り返した。リオが目を見開く。
    「……でも」
    少しだけ、笑った。
    リオが今まで見た中で、一番自然な笑い方だった。
    研究所で見た、整いすぎた微笑みとは違った。
    困ったような、それでも満足しているような、人間らしい苦笑だった。

    「少し、疲れましたね」

    アリアは懐中時計をシャツのポケットから取り出し、蓋を開く。そして蓋の裏側をリオに見せた。
    家族写真だった。
    幼い頃のアリア。その面立ちは、やはりイーライに似ていた。両脇には、アリアの両親だろうか。夫婦が立っている。
    アリアは懐中時計の輪郭を確かめるように、親指で、静かに写真をなぞった。

    「……これ」
    アリアが蓋を閉じた懐中時計をリオに差し出す。
    「預かっていてくれますか」
    「え」
    「なくしてしまいそうなので」
    リオは時計を見た。鈍い銀色で、年季が入っているようだった。
    「私はもう少し、ここにいることにします。もし私が戻れたら、返してください」
    「……アリアさん」
    「なくしたくないのです」
    静かな声だった。その声で、大切なものなのだろうと分かった。リオは時計を受け取った。秒針が動く僅かな振動が手に伝わった気がした。
    そっと両手で包むと、金属の硬さと、温かさを感じた。アリアの体温だった。
    少し重かった。
    「……返しに行きます」
    リオが言った。
    「会いに行く」
    「……はい」
    アリアが言った。
    「待っています」
    「どこで」
    ふっとアリアは笑った。
    「……どこでしょうね」
    アリアの目が、リオの目を見つめた。
    「でも、います」

    波が来た。
    アリアの足元まで来た。
    引くとき、アリアも少し引かれた。
    今度は、戻らなかった。
    「アリアさん」
    輪郭が薄くなっていく。
    少しずつ。
    静かに。
    「……」
    アリアはリオを見た。その眼差しは、初めて会った時と異なっていた。
    「……研究所で三十分話しただけなのに」
    「うん」
    「それなのに、来てくれた」
    「うん」
    「……理由が分からなくても」
    「うん」
    「……そういうことが、あるのですね」
    リオはしっかりと頷いた。
    「ある」
    アリアは小さく息を吐いた。それが笑いなのか、ため息なのか、リオには分からなかった。
    「……穏やかでした」
    波。
    「あなたと話していた時間が、人生で一番」
    引いた。

    輪郭がまた薄くなった。サラサラと崩れていく砂のように、世界に溶けて、消えていった。
    肩から。
    腕から。
    「……ありがとうございました」
    声だけが残った。
    「七瀬リオさん」
    輪郭が、ほとんど見えなくなった。
    「またいつか」
    「……うん」
    「会えたら」

    波の音が、アリアの声と重なった。
    波が来て、リオの足首まで濡らして、引いた。その感触は、やけに確かなものだった。

    砂浜に、足跡だけがわずかに残っていた。
    その足跡も、数回波が去ると、完全になくなった。
    リオは波打ち際に一人で立っていた。
    手の中に、銀の懐中時計があった。
    少し重くて、握り直すと鎖の、ちゃり、という音がした。

    「……消えちゃった」

    声が出た。心の一部が消失してしまったような、小さな不安感だけが残った。なんとなく、この世界からは引っ張られるような、安心感をもたらすような温かさを感じていた。でも、安心したら戻ってこれないような気がして、リオは立ち尽くした。
    EmoSyncで感じた温かさに似ていた。

    「……」
    蓋が閉じた時計を見て、リオはぽつりとつぶやいた。
    「……私、帰りたいな」
    誰に言うでもない、ただ、自分の願いを確かめたかった。


    宇宙で、進めるのか分からないまま泳いでいるような感覚だった。
    経路を辿った。
    細い光の道を、意識だけで進んだ。
    足はなかった。
    体もなかった。
    ただ、進む感覚があって、それに従った。

    情報が来た。
    誰かの記憶が来た。
    知らない人間の、知らない朝の、知らない台所の匂いが来た。
    流されそうになった。
    踏みとどまった。
    自分が誰なのかを確認した。
    柏木イチル。
    十四歳。
    中学二年生。
    不登校。
    天才と言われている。
    自分でそうは思っていない。
    ただ、コードを書くことと、人間の認知を読むことだけは、他の人間より早くできる。
    「……僕だ」
    声は出なかった。
    でも、確認できた。


    潮の匂いがした気がした。
    近づいた。
    広かった。
    どこまでも続いていた。
    波の音は穏やかだった。


    人格署名を起動した。
    リオの認知パターンを、頭の中で思い出した。
    初めて会ったとき。
    ヘッドホンを貸してくれたとき。
    研究所の廊下で、クロの話をしていたとき。
    人の話を聞くときの、あの聞き方。
    笑うときの、あの間。
    驚いたときに目が丸くなる、あの感じ。

    「……探す」
    海の中を、走査した。
    無数の認知があった。
    無数の形があった。
    全部が少しずつ違った。
    全部が少しずつ同じだった。
    境界が薄かった。
    溶けかけていた。

    そして、あった。
    一つだけ、違う形があった。
    溶けかけていたが、まだ形を保っていた。
    輪郭があった。
    その輪郭が、リオの形に似ていた。
    「……いた」

    経路を伸ばした。
    その形に向けて、一本の光の道を伸ばした。
    揺れた。
    ノイズが入って、崩れそうになった。
    後ろで、恒一が端を持っていることを感じた。
    揺らがなかった。
    動かなかった。
    固定されていた。
    「……ありがとうございます」
    声は届かなかった。
    でも、思った。

    光の道が、リオの形に触れた。
    反応があった。

    情報層。
    リオの形が、光に触れた。
    揺れた。
    揺れながらも、光に触れた。
    そのまま光の道を辿り始めた。
    ゆっくりと。
    戻ってくるように。

    イチルは経路を引いた。
    リオの形が、経路を伝って近づいてきた。
    途中で乱れた。
    引き直した。
    また乱れた。
    また引いた。
    「……来い」
    声は出なかった。
    「……来て」


    アリアが消えて、どれくらいたったのだろう。リオは砂の上に腰を下ろし、海を眺めていた。
    凪いでいる海だった。波が寄せて、帰っていく。
    リオが先ほどまでいた波打ち際に、足跡が少し残っていた。
    それも波が来るたびに、少しずつ薄くなっていた。ほど遠くない時間で、リオ自身もまた薄くなって、消えてしまうのではないかという不安があった。でもその不安は、どこか遠いものに感じられた。アリアが感じていたように、リオ自身も、「ここにいたい」という気持ちを感じ始めていた。

    ふいに海とは反対側を、振り向いた。
    理由はなかった。
    ただ、振り向きたくなった。
    遠くに、光があった。
    一本の光だった。
    その光は、か細かった。それが徐々に増え、光の筋となって、リオの足元まで伸びてきた。

    「……え?」

    温かかった。この世界の、包み込む夕日とはまた違う温かさだった。全てを目覚めさせる、夜明けの朝日に似ていた。
    「あったかい……」
    砂の上を、裸足で歩いた。光の方へ。
    光の筋に近づくと、また温かくなった。その光の筋はちょうどリオが通れそうなほどの大きさの、亀裂になっていた。
    「なんか……」
    リオの後ろで、波の音が大きくなって、リオを呼んでいる気がした。それでも振り返らなかった。
    「みんながいる気がする」
    光の亀裂へ一歩踏み出すと、リオの視界は真っ白になった。


    恒一はイチルの肩に手を当てたまま、動かなかった。
    術式の感触は何もなかった。
    ただ、手のひらから、イチルの熱が伝わってきた。その熱が、今はどこか心強かった。
    今の自分は、動かないことだけが仕事だった。疑問は、沢山ある。外の世界がどうなっているのか。リオは戻ってこれるのか。イチルは大丈夫か。クロは。とりとめのない思考が、恒一の脳裏に浮かんでは消えていく。

    考えるのは、あとだ。
    恒一は心を落ち着かせ、ゆっくりと深呼吸した。深く吐いて、吐いて吐いて、吐ききったら、吸う。何回か繰り返す。呼吸に集中すると、自然と心が落ち着いてきた。
    部屋が静かだった。術式の残滓が薄く光っていた。リオは床に倒れたままだ。
    イチルが目を閉じたまま、かすかに息をしていた。
    「……お願い……」
    イチルの小さな声が漏れ聞こえた。
    「……帰ってきて……」


    イチルが目を開けた。
    何かが終わったようだった。息が上がっていたが、顔をあげた。
    「……」
    少し離れたところにいる、リオの体を見た。
    リオの腕が、ゆっくりと上げられるところが見えた。
    イチルは目を見開くと、立ち上がろうとしてよろけた。恒一はイチルを支え、一緒に立ち上がる。
    リオは目を開けて、手の中の何かをみたあと、ゆっくりとこちらを見た。
    「……帰ってきた」
    イチルの声が震えた。泣きそうだった。リオはイチルと恒一を見て、次に天井を見た。
    しばらく何も言わなかった。

    「……あれ」
    小さな声だった。
    自分の声に驚いているような。

    「……あれ、私」
    イチルが恒一を離れ、リオの隣にきてしゃがんだ。
    恒一もそのあとをついて、しゃがむ。
    「……リオさん、大丈夫?」
    「……イチルくん?」
    「うん」
    「……あ」
    リオが天井を見たまま、何かを確認するように目を動かした。
    「……ここ、研究所」
    「うん」
    「……どのくらい、経った?」
    「分からない。体感では一時間くらい」
    「そっか」
    リオは再び自分の手を見た。イチルも恒一も、そこで初めてリオの手の中に懐中時計が握られているのに気が付いた。リオはその時計を、両手で包んだ。
    起き上がろうとして、イチルが背中を支えた。
    「……ゆっくり」
    「うん」
    体を起こした。
    「……帰ってきたか」
    恒一が言った。顔や背中を見回して、リオに異常がないか、確かめた。リオはいつも通り、リオだ。
    「……ただいまです」
    リオが言った。恒一にジロジロ見られたからか、少し照れくさそうな顔をしていた。
    恒一は何も言わなかった。
    代わりに少しだけ笑った。


    外が静かだった。
    研究所の中が静かだった。
    術式の光が、ほとんど消えていたが、モニターの一部がまだ光っていた。
    「……東京は」
    リオが聞いた。
    「徐々に戻ってるみたいだ」
    スマホで確認しながら、恒一が答えた。大勢の人間が夜中に歩き出したことは、臨時ニュースになっていた。裸足で歩いたことや、車両との接触事故といった被害が各所で出ており、今後の確認でもう少し増えるのではないかという見込みだという。
    「歩いてた人たちは」
    「戻ってる。大半は」
    「大半は?」
    「まだ意識が戻らない人間もいる。ただ、数は減っているようだ」
    「……そっか」
    リオは懐中時計を見た。リオの手に握られた鎖が揺れた。
    「アリアさんは」
    イチルがリオに問いかける。
    「……分からない」
    リオが言った。リオがあちらの世界で何を見たのか、イチルには分からない。でも、リオの懐中時計は、アリアが術式を起動した際に持っていたものだとイチルは気づいていた。もしかしたら、二人の間に何かあったのかもしれないという直感があった。

    「……けど、いる。多分」
    リオはそう言いながら時計をもう一度、両手で包んだ。
    「返しに行かないといけない」
    誰に言うでもなく、リオは言った。
    イチルも恒一も、何も言わなかった。


    窓の外が明るくなり始めていた。
    恒一が先に歩き始めた。
    「行くぞ」
    「はい」
    リオが立ち上がり、イチルが肩を貸した。体格の変わらない二人は、少しだけよろけながら進んでいく。
    「……ありがとう」
    「いえ」
    「迎えに来てくれた」
    「……巻き込んじゃったから」
    「それは、そうかも」
    リオが笑って、イチルも少し笑った。
    恒一が前を歩いて、三人で廊下を進んだ。窓から入る朝日が研究所の白い廊下を照らす。夜に見た不気味さは、なくなっていた。
    三人分の足音が響いた。出口のドアを押して、外に出る。

    外気は、東京の朝よりもひんやりとしていて心地よかった。リオは胸いっぱいに息を吸い込んで、吐いた。その様子を見て、イチルも真似をした。
    東の空が、少しだけ白くなっていた。
    鳥の声が聞こえて、イチルは声の主を探した。すぐ近くの木に、名前も知らない鳥が一羽止まっていた。その鳥は、ちゃんと、どこかを見て、数回鳴いた。
    「あ」
    イチルの口から、思わず声が漏れた。その音に反応してか、その鳥は羽を伸ばした。
    飛んだ。
    白い空へ向かって、羽ばたいていった。そしてその羽音につられて、葉の陰から一羽、また一羽と、数匹の鳥が飛び立った。
    リオはそれを、見て目を細めた。

    手の中で、懐中時計が少しだけ温かくなった気がした。


    朝の東京は、うるさかった。
    夏の終わり、セミの大合唱。
    久しぶりに聞く音だった。


    イチルは家にいた。エアコンの効いた部屋で、布団の上に転がってうたたねしていたが、セミの音で目が覚めた。時計を見ると、午前10時を過ぎたころだった。
    階段を下りて、縁側に出た。
    いつもの場所にムギが伏せていた。

    「ムギ」
    耳が動き、顔が上がった。
    白髪交じりのまつ毛と、変わらない黒い目がイチルに向けられる。
    イチルと目が合うと、ムギはフンと鼻を鳴らした。
    「……よかった」
    つい声が出た。

    ムギが立ち上がって、ゆっくりとイチルの方へ歩いてきた。足元に来ると、膝に顔を擦り付けはじめる。ムギの、撫でてくれ、のアピールだった。ムギの爪が床に当たる音と、先ほどまで祖母が見ていたテレビの音が、セミの合唱と交じってなんとも言えないノイズになっていた。
    イチルは少し笑って、仕方ないなと言いながらムギの背中を撫でた。ムギは心地よさそうに目を閉じた。その、いつも通りの仕草が、何よりもうれしかった。

    「イチルくん、そろそろ出かけるの?おにぎりだけ食べていく?」
    祖母がキッチンから顔を出した。小さな手でおにぎりを握っている。奥から、だしの香りがした。
    「うん、おにぎりだけ」
    祖母は手早くおにぎりに海苔をまいて、食卓に出してくれた。小さめのそれを頬張ると、パリパリと小気味よい音がした。


    おにぎりを食べ終わったイチルは着替えを済ませ、鞄を持った。スマホで住所を検索して経路を確認する。今から出ると、少し早く着きそうだった。あまり早いとはしゃぎすぎだろうか。でも、遅れるのも良くない。ほどよい経路を考える。

    部屋からお散歩と勘違いしたのか、ムギが尻尾を振りながらやってきた。頭をなでて、「お散歩は夜。今は暑いよ」と告げると耳が少し後ろに下がった。
    「行ってきます」
    祖母に聞こえるように大きめに声を出して、イチルは玄関のドアを開けた。祖母の行ってらっしゃい、気を付けてね。の声がそれを見送った。


    休日のこの時間の電車は、比較的すいている。でも今日は、普段よりは少し人が少ないような気がした。数日前までの昏睡事件の影響が残っていた。ニュースではまだ昏睡事件の続報が報じられ、車両内の空中ディスプレイには「なぜ突然昏睡が解けたのか」「生態系への影響は」「太陽フレアからの影響が有力」といった文字が躍っていた。イチルは人がまばらな座席に腰掛けて、それを眺めていた。

    アリアとイチルは、少し似ていたと思う。イチルは感情同期によって欠落を埋めようとしていた。アリアは世界の果てに救いを求めた。この差は、どこから来ていたのだろうか。研究所から帰ってきてから、イチルは度々その答えを思案によって探した。イチルはリオよりも、アリアと直接話していない。だから正確な答えは出てこない。ただ、なんとなくだが、ムギや、今こうして向かっている先に、その答えがあるような気がしていた。

    改札を出ると、恒一がいた。柱に寄りかかってスマホをいじっている。珍しく目の下のクマが薄くなっていた。こちらに気づいて、スマホをポケットにしまいながら近づいてきた。
    「榊さん、元気そうですね」
    「ああ。ここ数日は有休をとった。ちょうど溜まっていたからな」
    恒一の半歩後ろをついていく。よく見ると膨らんだビニール袋を持っている。恐らく、リオにお菓子の買い出しを依頼されたのだろう。

    「お前は」
    「え」
    「犬。大丈夫だったか?」
    犬、と言われて、何の話か理解した。もとに戻りましたと告げると「そうか」とだけ返ってきた。興味がなさそうに見えるが、恒一なりに心配していたのだろうか。AIペットといい、意外にも動物が好きなのかもしれない。

    駅からほど遠くない場所に、マンションがいくつか建っていた。そのうちの一つに恒一とイチルは入っていった。エレベータ待ちの間、二人は無言だった。リオがいないと、話題が続かなかった。

    目当ての階につくと、恒一はキーケースを取り出して玄関のドアを開けた。自分の家と違う、独特のにおいがイチルを包む。次いで、中から聞いたことのある声が一つと、無い声が三つ聞こえてきた。

    「いや、これは本っ当においしいから!」
    「美佳の味覚ってちょっと変なんだよね。」
    「シイタケドーナッツはちょっと食べたくないなぁ…」
    「シイタケドーナッツは2か月前に廃盤になっています。廃盤理由は不人気と推測されています」
    「うっそ!!!」

    恒一に促されて、靴を脱ぎながら部屋の中に入る。部屋の中央のローテーブルに、沢山のお菓子が広げられていて、その周りを囲むように三人の少女たちと、1匹のAI猫が鎮座していた。
    「あ、イチルくん!」
    「こんにちは、美佳でーす」
    「美沙でーす、恒一の妹でーす」
    少女たち三人は同時に発話した。その発話を確認した後、AIペットが口を開いた。
    「はじめまして、私はクロです。聞き取れましたか?」
    「…あんまり…」
    「こちらの双子は美佳さん美沙さんです。恒一くんの妹さんたちです。既に二人でお菓子を二袋開けています」
    「えっ私たちそんなに食べてた!?」
    「リオさんの3倍を二人で消費しています、夜ご飯のカロリー量を減らしてください」

    イチルが自己紹介する前に、二人と一匹は漫才を始めてしまった。所在なさげに視線を彷徨わせるイチルに、リオが手招きする。
    「イチル君、こっちのソファに座りなよ」
    「ありがと」
    イチルが腰掛けると、キッチンから戻ってきた恒一がイチルの前に麦茶のグラスを置いた。続いてグラスの横に、リオが未開封の菓子パックをどさっと置いた。
    「うるさくて悪いな、くつろいでくれ」
    「今日はお菓子パーティってことで、好きなものを取って食べてね」
    二人から声を掛けられ、イチルはひとまずグラスに口を付けた。外の気温は高く、ここに来るまでに汗ばんでいた体に冷たい液体が入っていく。ふう、と一息ついて、イチルは部屋を見回した。

    家具は多くない。パソコンは大きく、処理性能が高そうだが、それ以外にあまり生活感がなかった。イチルの部屋とは対照的に、書籍や論文などはあまりなく、代わりにモノトーンのファブリックや、猫グッズがちらほら置かれていた。

    クロがイチルの足元にやってきて、ぴょんっとソファに飛び乗った。伏せの姿勢になって、イチルの目を見る。
    「恒一くんからイチルくんの話を聞いてます。お会いできてうれしいです」
    「すごい…榊さんがハックしたの?言語モデルは?」
    「Neuro-3系列の言語モデルNORAを採用しています。少しだけですが、ローカル語彙に対応できるようにカスタマイズされています」
    クロは背筋を少しだけ伸ばして得意げに言った。イチルが指先でクロの小さな額をなでると、嬉しそうに顔を擦り付けた。
    「NORA猫なんだね」
    ふふっとおかしそうにイチルが笑った。中学生らしいその笑顔に、リオが気づいてクロの背中をなでながら言った。
    「イチル君って動物大好きなんだね、クロと仲良くなれそうじゃん」
    「嬉しいです。また遊びに来てください」
    「おい、勝手に誘うな」
    恒一がせんべいの袋を開けながら話に割り込んでくる。双子たちは無遠慮にその開けたての袋に手を突っ込んでいた。
    「だめですか?」
    クロが言うと、「ダメとは言ってない」と恒一。テンポからして、普段もこういうノリで会話しているのが透けて見えた。恒一の感情は表情から分かりにくかったが、クロとのやり取りはどこか楽しそうだった。

    クロはにゃ、と言って一度起き上がると、イチルの膝の上に乗っかってまた伏せた。機械らしくない、生き物のような温かさが膝にじんわりと広がって、イチルは思わずクロを抱きしめた。ムギと違って、獣の臭いはしなかった。代わりに、モーターのうなりのような、動物の心音のようなノイズが、わずかにイチルの耳に届いた。
    双子たちはまた新しい話題を始めた。リオがそれに乗っかって、恒一に意見を聞いていた。

    外ではセミの音が、去年と変わらぬうるささで鳴いていた。

    イチルは膝の上の重みを感じながら、その音を聞いていた。

    「世界って、うるさいな」


    世界を説得する魔法 第一部 完


    ↓第5.5話 ある監視員の記憶


     
     

    ぬる

     
     
    閲覧ありがとうございます。 少しのスキで元気に育つサボテンです、是非スキをお願いいたします🌵 SF、ファンタジー系の小説を投稿します。 考えごとが趣味です、放っておくと小説になります。 作品、画像には一部生成AI(ズッ友)を使用しています。

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